「1/f」 | ナノ


現実逃避


 世界の何処にも存在しない駅の乗車券だけを持ち、広い砂漠に独り蹲っていた。其れが天空カジノ支配人シグマの人生最初の記憶である。
 シグマの異能力は戦闘向きではない。犯罪の片棒を担ぐにはうってつけの能力ではあるが、高い戦闘能力を持った相手とぶつかれば最後。純粋な身体能力しかないシグマの負けは必至である。然も自分は凡人だ。相手を出し抜く高い知力等持ち合わせてはいない。
 如何か追手に見つからぬように。存在するのかも知らぬ神にさえ祈ったっていい。其の異能を利用され、幾度となく殺されかけ、地獄から必死に逃げるシグマは心の底からそう願っていた。

 息せき切って駆け込んだのは、人里離れた廃墟の屋敷だった。割れた窓硝子を踏みつけた素足は血を滴らせ鋭い痛みを訴えたが、追手が何時迫るかも判らぬ今気にしている余裕もない。目に留まった一室に駆け込んで物陰に身を潜める。漸く満足に呼吸が出来た気がした。

「ねぇ」
「うわあっ!?」

 其れも束の間、背後から肩を叩かれたシグマは飛び上がった。文字通り体を跳ねさせて、身を護る為、反射的に顔の前で腕を交差させる。然し、予想に反して拳もナイフも降っては来ない。可笑しい。恐る恐ると顔を上げ、思わず面食らう。其処に立っていたのは追手でも、新たな利用者でもなかった。

「貴方が『本』から出来た人なの?」

 キョトンとした表情をした、この廃墟に似つかわしくない仕立てのよい服を着た少女だ。言葉と顔立ちから見るに亜細亜人だろう。サラサラとした黒髪を揺らして問い掛けられるが、返事をしようにも言葉が出て来なかった。すると、先程シグマが入って来た部屋の扉が音を立てて開かれる。少女が喜色を滲ませて顔を其方へ向けた。対してシグマには嫌な予感が走る。「おい」腕を伸ばすが、彼女の黒髪に掠る事もなく空を切る。

「家がほしくはありませんか?」

 駆け込んで来た少女を片手で抱きながら、そう云って穏やかに微笑んだ露西亜人の男はフョードル・ドストエフスキーと名乗った。これが出会い。彼は、シグマに家を与え、最後に利用した男であった。




 天空カジノは今日も国籍問わず沢山の人で溢れている。ある者は一攫千金を夢見て。ある者は、娯楽の為。またある者は、抜き差しならない事情の為、今日も金の札を切る。華やかなフロアから離れ、部下に的確な指示を与え乍ら従業員通路を歩くシグマは、プライベートエリアに入ると大きく息をついた。天人五衰の計画の下『本』の効果でこのカジノが出来て早五日。支配人の仕事は多忙を極め、昼夜問わず休む暇さえない。然も、昨日からは新たな『客人』の世話迄しなければならなくなったのだから、彼の心労は減る所か増えるばかりである。
 空中に浮かぶにしては広大な面積を誇る天空カジノの端。部屋の半分を窓硝子で覆われた特注の部屋への鍵は、支配人であるシグマしか持っていない。この部屋の『客人』は、カジノの利用者の誰よりも厄介だ。癇癪待ちの老人の方が未だ御し易いと思える程である。故に彼女は、部下では手は付けられない。喉の調子を整えて鍵を回し、扉を開く。

「名前、入るぞ」
「あー! シグマ、遅いー!」

 ピコピコ、ガチャーン。部屋には大音量の電子音が響いていた。後ろ手に扉を閉めて、其の音を聞いていると全身から力の抜ける感覚がする。ああ、これだ。これなのだ。額に片手をついて唸り声を上げるシグマを名前が呼ぶ。

「はい、コントローラー。独りプレイだと楽しくなくって」
「……名前、私はこのようなゲームには慣れていないのだが」
「いいから。シグマだって少しは息抜きが必要でしょ? はい、一ゲームだけ! やろう!」

 大画面モニターの前に行儀よく正座した名前から手渡されたコントローラーを手に横に座る。勿論彼女に倣ってシグマも正座だ。始めは脚が痺れてつらい思いもしたが、五日も経てば慣れるものである。
 キャラクターがゲームの開始を告げ、レースがスタートする。コントローラーを傾けてカーブを回る。名前の選択したキャラクターが先を走った。アイテムを確保し、投げて来る。バナナの皮だった。

「ああ、卑怯だぞ!」
「これがこのゲームの醍醐味でしょ! って、ああ! ちょっと、其処で星使うのは狡い!」
「醍醐味だと云ったのは名前の方だ! 私は、この天空カジノの支配人。どんなゲームにも勝たなければならない」
「どんな理屈!?」

 そう、部下ではこの名前の相手役は務まらない。子供のように共に遊戯に興じてやれるような者は、このカジノに存在しないからだ。
 レースはシグマの勝利で終わった。これで三勝二敗。戦績でいけばシグマが一歩リードしている。達成感に拳を握り締めたシグマを横目に、名前はLOSEと書かれた画面を前に項垂れた。レースでカーブを曲がる時のように体が傾いて其の儘猫毛の絨毯に倒れ込む。

「お、おい……大丈夫か?」
「……明日は負かす」
「あ、ああ」

 地を這うように低い声だった。余程負けたのが悔しいらしい。
 倒れ込んだ名前を見ると、彼女が天空カジノを訪れた日の事を思い出す。天人五衰の同僚であるゴーゴリからの突然の連絡を受け、名前を出迎えたシグマはヘリコプターの座席に横たわった彼女を見た時思わず引き攣った悲鳴を上げた。名前が唇に血を滲ませていた為である。
 シグマにとっての名前は初対面の印象同様幼い子供と変わらない。会う度何時だって彼女は、ドストエフスキーにしがみ付いていたし、彼もまた穏やかな表情をして名前の体を抱き寄せていた。随分と大切にされて育ったのだと感じさせる其の様子を思い出すと、名前が血を流している姿は到底想像出来るものではなかった。

「シグマー」
「なんだ」
「矢っ張りもう一ゲームしよう」

 起き上がった名前の唇にもう瘡蓋はない。血の滲まぬ血色のいい唇は弧を描き、コントローラーを動かす指先は軽快で実に楽しそうだ。再開したゲームは名前が勝利した。シグマが、ほんの少しだけ手を抜いてやったのだ。
 名前と過ごしていると、少しだけ気が抜ける。然し、手を振って見送る彼女の姿を扉の向こう側へ隠して賭博場迄戻れば、もう既に彼の顔は支配人の其れに戻る。部下の報告に耳を傾け、指示を出し、自分も動く。シグマは、カジノの理想の支配人である為日々努力を惜しむ事はない。此処はシグマにとっての家だ。そして家族だ。守る為なら何だって出来る。否、しなければならないのだ。

 ゲームをしていない液晶画面では、連日武装探偵社のニュースが流れている。斗南司法次官を拉致、秘書官ら複数人を惨殺して逃走している国家転覆を企てる悪の機関。流れる内容は毎日大して変わらない。其れにも関わらず、名前はジッとニュースを眺めている。椅子にも座らず、画面を食い入るように眺める彼女の姿は何処か異様だ。まるで何かを捜しているようで、彼女が来て七日目。シグマはそっと問い掛けてみる事にした。

「ゴーゴリが、何処かに映ってるかもしれないでしょう」

 彼女の返答は実に夢見がちなものだった。納得すると同時に仮令ようのない虚しさと僅かな苛立ちを覚える。
 ゴーゴリは死んだ。彼女が愛してやまないドストエフスキーの考えた計画の一部として、其の生命を捨てる必要があった。名前は屹度其れを判っている。然し、同時に理解しようとはしていない。居もしないゴーゴリの影を捜して、画面を見つめる彼女の背は矢張り実年齢より遥かに幼く見えた。彼女は親の手から離れた事のない、小さな子供のようだ。

「そうだな」

 そんな彼女に真実を突き付ける勇気はシグマにはない。薄く笑って細い肩にブランケットを掛けてやれば、彼女は嬉しそうに礼を云う。
 シグマは、ゴーゴリに、そして誰よりドストエフスキーに名前を託された。この計画を発案した其の時に、ドストエフスキーは幸薄な笑みを絶やす事もなく同僚へ願ったのだ。

『シグマさん、名前を頼みますね。ぼくが甘やかして育てたせいか、あの子は本当に我儘で手のかかる子なのです。けれど善い子ですから。如何か、離れているぼくの分まで可愛がってあげて下さいね』

 その約束をシグマは守る心算だ。天空カジノに居る以上、ドストエフスキーに託された以上、名前はシグマにとっての家族である。仮令、何があろうとドストエフスキーの元へ帰す其の日迄手を離す心算はない。

「シグマ、新しいゲームやろう」
「ああ、いいとも」

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