あれから、パタリとフョードルさんの夢を見る事はなくなった。彼が私を置いて行って一ヶ月。即ち、私がゴーゴリの元で生活するようになって一ヶ月が経っていた。
其の日は、珍しくゴーゴリが朝からゆっくりしていた。日本人の変装もせずに、長い銀髪も解かれたまま食後の紅茶を飲む彼は、テレビから視線を離す事はない。洗い物を済ませ、対面に腰掛け乍ら同じようにテレビを覗き込めば何処かの表彰式の生中継が放送されていた。何故か音が消してある。
「彼は司法省、斗南司法次官。私の上司だ」
「へー、ん? 上司?」
「私が何故日本人のふりをして毎日齷齪働いていると思う? クイズだよ」
顔はテレビへ向けたまま、視線だけを私へ投げ掛ける。何時ものクイズに比べて随分とテンションが低い。不思議に思いつつ頭を捻る。
「斗南司法次官が計画に必要な情報を握っているから?」
「ざんねーん。不正解だ。名前は罰ゲームとして私の髪を結う事!」
「……罰ゲームありなんて聞いてないんだけど」
どうせ洗濯物が終わる迄は暇なのでゴーゴリの髪を結うくらい別に構わない。一ヶ月の間にすっかり座り慣れた椅子から立ち上がり、彼の背後に回る。ご丁寧に櫛と飾りのついた髪ゴムは既に用意されていた。
ゴーゴリは癖毛で、私やフョードルさんの髪質とはまるで違う。ふわふわした銀色の髪は柔らかくて豪華、それでいて触り心地がいい。フョードルさんも男性にしては髪が長かったけれど、ゴーゴリは其れ以上に長いから弄り甲斐がある。あっという間に結い終わってしまった三つ編みを片手でプラプラと揺らすと「こら、やめなさい」と片手で押さえられてしまった。以前、露西亜の屋敷でフョードルさんの髪を弄らせて貰おうとした事があった。慥かその時もこんな風に止められたと思う。
「フョードルさん、一ヶ月も捕まってまた痩せてないかな」
「如何だろうね。彼、元々痩せ型だからなぁ……具合悪くなってないといいけど」
「うん……心配」
「だろうね。おいで、このゴーゴリがハグしてあげよう!」
「遠慮する」
ハグ基ゴーゴリが魘される私を抱き締めて眠ったのはあの晩が最後だ。あれ以来、なんとなく恥ずかしかったのもあって、そんな触れ合いは一切していない。態とらしく落ち込んだ様子を見せたゴーゴリを見下ろしていると洗濯機が音楽を奏でた。するとリビングを出て洗面所へ向かう私の背に、ゴーゴリが待ったを掛ける。
「正解が気にならないのかい?」
「えー。まあ気になるけど今度でいいよ。洗濯物が優先!」
「名前、この一ヶ月で所帯じみて来たよね……ドス君が知ったら驚きそう」
「元々家事はちゃんとしていた方です!」
特有の笑い声を聞き乍ら洗面所へ駆け込み、蓋を開ける。よかった、血の匂いはしない。最近ゴーゴリは、以前にも増して帰りが遅くなった。そして血の匂いを纏わせて帰って来る。何をしているかは明白で、件の斗南司法次官の事だって屹度其れ関係に違いない。
本音を云えばクイズの正解がとても気になっている。天人五衰、フョードルさんの立てた計画は、一体何処へ向かおうとしているのだろう。
「名前、一ヶ月よく耐えたね! ご褒美に君を優雅な空の旅へご招待しよう!」
あれ、デジャヴだ。朝、寝ぼけ眼でベッドの上に座り込む私の前で語り続ける道化師のテンションは、昨日と違って天を貫かんばかりに高い。丁度一ヶ月前、私にこの家で暮らす規則を教えた時のようだ。欠伸を噛み殺し、ゴーゴリの言葉を咀嚼する。優雅な空の旅へご招待? 空、ってこの空か? 開け放たれた窓から覗く一面の青を見上げて考える。
空、空――あ、そう云う事か。
「若しかしてシグマに会いに行くの?」
「大正解!」
花丸をあげようーなんて手袋で覆われた指で額に円を描いて来るゴーゴリから急いで顔を逸らす。シグマは天人五衰の構成員の一人で天空カジノの支配人だ。彼をスカウトしたのはフョードルさんで、其の時は私もついて行ったからよく覚えている。少し灰色掛かったピンク色と白髪のツートーンカラーの髪が特徴的な男性だ。最後に会ったのは何時だったか。思い出せない程に暫く会えていなかったが、ゴーゴリの口ぶりから察するに、元気にしているのだろう。
覚醒し切れない頭でシグマを思い出す私を急かすように、ゴーゴリは布団を剥ぎ取ると洗面所へ背中を押した。扉が閉められ、台の上に視線を向ければ、カジノへ行くだけあって高級そうなワンピースが置かれている。彼が用意したにしては奇抜ではないデザインに内心安堵しつつ、顔を洗って素直に袖を通した。
「うん、似合う。私の見立てはバッチリだね! よし、今度は髪をセットしよう!」
そして現在、リビングで待っていたゴーゴリは実に楽しそうに私の髪を結っている。私の髪質はフョードルさんと同じく直毛で、毎晩のように手入れして貰っていたおかげで髪質は佳い方だ。サラサラと櫛が通る感覚に意識が遠退きかける。
「こら、寝ちゃ駄目だよ」
「うん……」
名前、もう少しですから寝てはいけませんよ。フョードルさんの声が聞こえた気がして、頭を振った。いけない。夢を見なくなったと思えば直ぐにこれだ。
ゴーゴリは、自分の物とはまるで違う髪質に悪戦苦闘する事もなく、私の髪を手際よく編み込む。最後に、後頭部に金色の髪飾りと共に一つに纏めれば完成だ。
「完璧! 流石私!」
如何やらあまり時間はないらしく、ゴーゴリは一頻り完成した私を眺めると、またもや慌しい様子で私の体を外套へとしまった。空間から一瞬切り離されて、パンプスを履いた脚が外の地面を踏みしめる。辿り着いたのは、何処かのビルの屋上だった。ゴーゴリの異能力『外套』の範囲は三十米だから多分マンションからそう離れてはいないだろう。
一ヶ月ぶりの外の空気は、とても暖かく心地がよかった。解放感に思わず背伸びをする。屋上には一台のヘリコプターが停まっていて、扉を開いたゴーゴリがにっこりと笑って私に搭乗を促す。
「あれ? ゴーゴリは乗らないの?」
促されるまま一歩、段差を踏んで気が付いた。私に手を貸したゴーゴリは一歩も動く事なく、段差で目線が高くなった私を見上げている。
「私は行けないんだ」
微笑みを絶やす事なく答えるゴーゴリは何時も通りに見えて、何時もと全く違う。「なんで?」早口に問いかける私に彼は答えない。だから判ってしまった。今は、一ヶ月前。フョードルさんが私を置いて行った時と同じなのだと。
嫌な予感が全身を駆け巡った。咄嗟に重ねたままのゴーゴリの手を力の限り掴む。ゴーゴリは、キョトンと、仮面で隠されていない金色の目を瞬かせて再度私を見上げた。
「駄目だよ。ゴーゴリも一緒に来て」
「我儘を云われると私困るんだけどなぁ」
そう苦笑し乍らも、ゴーゴリは握りしめた指を無理に引き剥がさなかった。だから一瞬希望が持てた。若しかしたらゴーゴリは、フョードルさんのように私を置いて行ったりはしないのではないかと思ってしまった。
「云ったでしょう? 名前“を”優雅な空の旅へご招待すると。其のヘリコプターに私の席は存在しない」
けれど其れはまやかしだったのだと思い知る。
フョードルさんは、私に口付けて我儘を止めた。ゴーゴリは逆だ。行動はせず、言葉で私の我儘を止めようとしている。私が自分から指を離すのを待っているだけで、彼は私の意見に耳を貸す気など毛頭ないのだ。気が付くと不安は更に大きくなる。ゴーゴリの腕を引いた。一歩、彼の脚が前へ踏み出す。
「私、高所恐怖症なの。ゴーゴリが一緒に乗って呉れないと天空カジノへは行けないから」
「ええー! 初耳! ドス君でも知らない情報じゃない?」
「そうだよ。ゴーゴリにだけ初お披露目。ね、だから一緒に行こう」
「駄目だよ」
一瞬希望を持たせて、直ぐに希望を消してしまう。まるで道化師の手品のようだ。
ゴーゴリは、私の手が震え出した事に気が付いたようだ。困った子供を見る顔をして、彼は一歩段差を登った。また希望が見えて来る。然し、道化師の嘘は魔人の其れと同じように巧みだ。彼はフョードルさん以上に高い身長を折り曲げるように体を傾けると、何故か仮面を外してしまう。そして、前に乗り出したままの私の体を正面からギュッと抱き締めた。至近距離でゴーゴリの呼吸が聞こえる。抱き締め返す事も出来ず、手持ち無沙汰な手を泳がせ乍ら身を固くした。
「ドス君は、屹度こんな気持ちなのだろうね」
「な、なにが?」
「君が置いて行かないでと泣く度、彼は仕方のない子供を見るような目をして「泣かないで」って君を抱き締める。そして何時も、何処にでも君を連れて行くんだ。最初は不思議だったよ。泣いている子供なんて面倒なだけだろうに、って。けれど段々私も慣れてしまって、今となっては彼の気持ちを理解出来そうだ」
長身痩躯のフョードルさんに比べて体つきも立派なゴーゴリの抱き締める力は、強くて、結構痛い。「痛いよゴーゴリ」呟くが、腕の力が弱まる事はない。だから如何しようもなくて、大好きで恋しいフョードルさんの香りとはまるで違う匂いに鼻先を埋めて彼の言葉に耳を傾け続けた。
「君が泣くのは私もつらい。けれど今度ばかりは我儘を訊いてはあげられないよ。ごめんね、名前。お詫びに一つ、私からも真実を教えよう。君の心は今、彼で埋め尽くされて雁字搦めになっているんだ。だから君が大切にしている兎の縫いぐるみは私が預かっておくよ。ねえ、名前。何時か自由におなり。そうしたら屹度世界が違う色で見える筈だから」
「話が難しいよ、ゴーゴリ……」
「そうか、うん、そうだろうね……君では僕を理解し得ないだろう」
其れなのにゴーゴリの腕は、彼の意思のまま簡単に離れた。名残惜しさ等感じさせない、一瞬で私の体を解放した。ゴーゴリは、支えをなくしてぐらついた私の体を力強く押す。体勢を崩して座席に転がると、背後で扉の閉まる音が響いた。ハッとして扉へ駆け寄る。金色の瞳が、飛び立つ私を見上げて細くなる。道化師らしからぬ笑みが段々遠くなる。
羽根を回して浮かび上がったヘリコプターは、目的地を目指して天高く舞い上がる。あれだけ駄々を捏ねても、地上が見えなくなれば諦めはつくもので、椅子に腰掛けて膝の上で指を組んだ。高所恐怖症なんて真っ赤な嘘だ。ヘリコプターなんて全然怖くもない。其れなのに体の震えは止まらず、私は唇を噛み締める。あのマンションの部屋で、幾度となく香った血の匂いがした。