「1/f」 | ナノ


さらば与えられん


 頭を撫でられる感覚がしていた。細く繊細な指先が私の黒髪を梳いて、まるで脳其の物を撫でるように大きな掌が側頭部に添う。暖かな日差しが降り注ぐ柔らかなベッドに転がっているみたいに気持ちがよくて目蓋が開けられない。多分、骨と皮しかないような固い膝を枕にして、嗅ぎ慣れた香りに包まれているからだ。

「名前、ごめんなさい。寂しい思いをさせて」

 頭上から、穏やかなのに少し寂しそうな声が降って来る。大好きな人の声に「謝らないで」と云いたい。けれど私の口は縫い付けられたように動かなくて、彼の姿を見たいのに目蓋もビクともしない。

「貴女は本当に善い子です。だから耐えて呉れると信じています」

 側頭部に添えられていた掌が私の頭を動かした。体が上を向いて、掛かった髪を指先が退けて呉れるのが感覚的に判る。体を持ち上げられて、ふと、目蓋の向こう側で影が差した。紅茶と、冷たい空気、其れと微かな血の匂い。彼の香りが濃くなる。

「愛していますよ。もう少し、待っていて下さいね」

 漸く開けた目蓋の先、至近距離で笑う紫水晶が見えた。それでも言葉は発する事が出来ない。飲み込むように唇が重なったせいだった。体を抱かれたまま、彼の冷たい其れが触れて、大きな掌が這うように私のビクつく首筋を撫で上げる。唇は離れない。まるで刷り込むように押し当てたまま、首筋に触れた指先に微かに力が籠るのを感じた。呼吸が苦しくなって其処で気が付く。

 これは、夢だ。




 目覚めは最悪だった。ベッドから起き上がり、床の布団に転がるゴーゴリを踏まないよう注意し乍らリビングへ出る。カーテンは開けて、テレビはつけない。欲しくもない幸せな情報を伝える液晶画面は、今の私の神経を逆撫でするだけだからだ。
 顔を洗って、寝室から持ってきた服に着替えてエプロンをつける。冷蔵庫には、様々な料理を作れるように山ほどの食材が詰め込まれている。昨晩、ゴーゴリが「これからは他人の手料理が食べられると思うと嬉しくてさ!」と、食材の詰まった大きな袋を次々と外套から出したのだ。とは云え、使い切れる気はしない。中には日持ちしない物もあるし、腐ったら如何する心算なのだろうかあの道化師は。

「おはよう私専属の料理長さん。今日のメニューは何だい?」
「おはよう。昨日のあまりの御煮付けと焼き魚です」
「おお、ザ日本の朝食だね! 名前は料理上手だから助かるよー」

 朝食が出来上がる頃合いを見計らったように現れるゴーゴリは、長くうねる髪を三つ編みにし乍ら席につく。温かな味噌汁とご飯を出せば、完成だ。
 ゴーゴリは食事中静かだ。食材に対する感謝の御祈りも欠かさない。敬虔なクリスチャンの多い露西亜人らしいとも云える。フョードルさんもそうだった。神様のようであった彼は、神の教えに忠実で、私にお祈りの作法を教えて呉れたのもフョードルさん本人だった。

「今日は何時もより遅くなるかも」
「お仕事?」
「そう。忙しくなる予定だからね。人使いが荒くて参っちゃうよ。あと、日本人は働きすぎじゃない? なに、彼ら死に急いでるの?」

 然し、今日は静かでもないらしい。僅かに苛立った様子のゴーゴリは珍しく、私はまじまじと対面の彼を見つめた。ゴーゴリは、黙っていればモテそうな顔立ちをしている。外つ国の美形な男性として想像する姿を其の儘持ったような男だ。長身で体つきも立派。彫りの深い端整な顔立ちを縁どる癖の強い銀髪は、この国では中々お目に掛かれない。

「私に訊かれても……露西亜での生活が長かったからなんとも」

ゴーゴリの観察は一旦止めて意識を会話に戻す。今の私を構成するものは、ほぼ凡て露西亜での生活で培ったものである。日本人の仕事に対する姿勢の愚痴を聞かされても返事のしようがない。ゴーゴリも勿論其れを判っていて問い掛けている。だから追及する事はなく、彼は朝食を凡て平らげるとさっさと仕事へ行く準備を始める。
 私は、ゴーゴリが変装している間に食器を片付けて、洗濯機を回す。これが毎日のルーティンだ。此処で数日も過ごせば慣れたものである。

「それじゃあね、名前。夕飯、今日は要らないから夜更かしせずに早く寝るんだよ!」
「判ってるよ。ほら、早く行かないと遅刻するんじゃない?」
「あー! もうこんな時間! 行ってきます!」

 まあ、何かと便利な外套と云う異能力を持つゴーゴリが遅刻する事はない。彼を見送り、玄関に鍵を掛ければ、私独りの空間の出来上がりだ。
 天人五衰の計画とは云え、態々ゴーゴリが日本人に変装までして働きに出ている理由を私は知らされていない。日本人らしく忙しい毎日を送るゴーゴリ曰く、フョードルさんは私を彼に預けた。大切に守ってやってほしいと云われたから、こうして私は1LDKのマンションに閉じ込められている。ちらっとベッドに乗った兎の縫いぐるみを見た。縫いぐるみのボタンが作動したのは、あの一度きり。次の日にどれだけ押してもフョードルさんの声は聞こえなかった。寂しくて私は泣いた。ゴーゴリは慌てふためいてタオルを私の顔面に押し当てた。力加減が上手く出来なかったらしく痛かった記憶が蘇る。

「……」

 鏡に映る私は、ほんの少しだけ痩せたように見えた。首筋に指を這わせ、力を込めてみる。気道が圧迫されて少しだけ呼吸が苦しくなった。
 夢の中で、フョードルさんは私に口付けて首を絞めた。私の寂しさがみせる願望なのだろう。然し、私は無意識の内に彼に殺されたいとでも思っているのだろうか。そう思うと鏡に映る自分が赤の他人に見えて来る。視線を逸らして寝室を出る。丁度洗濯機が鳴った。

 夕食は要らないと云われたので、簡単に済ませた。一人分の食器を洗って、入浴を済ませ、ゴーゴリの云い付け通り早めにベッドに入る。多分、ゴーゴリは疲れて帰って来るだろうから、其の儘眠れるように一応布団は敷いておいた。
 この一室に入った日から私の物になったベッドは、ゴーゴリの長身に合わせて普通のサイズに比べ少しだけ大きい。四畳半の空間は、このベッドと布団を置くともう何も物は置けなくて姿見がある他は殺風景だ。
 露西亜とも日本の屋敷とも違う空間だけど、私は此処でなら安心して眠る事が出来た。フョードルさんが居ないのは寂しいし、心細いけれど、ゴーゴリは揶揄ってくるけど明るいし、なんだかんだ優しいから耐えられる。兎の縫いぐるみのリボンを一撫でして、目蓋を閉じる。直ぐに眠れた。




 真夜中、息苦しくて目が覚めた。誰かが私の上に乗っている。首に手が掛かって、今朝の比ではない程の強い力で気道を圧迫されている。手足をバタつかせて藻掻くけれど、其の人物は私の腹にずっしりと座ったままビクともしない。
 潰された蛙宜しく醜い声を上げて、私は首に掛かる手に爪を立てた。冷たい手だった。まるで死人のような、血の気のない白が薄っすらと開いた目に映る。

「ぁ……」

 私の上に乗る人の顔を見て、指から力が抜けた。肩程の艶のある長い黒髪と深い闇を孕んだ紫色の瞳。青白い肌をした長身痩躯の人形のような男性。慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、私の首を絞める人物――フョードルさんだった。

「ああああああっ」
「名前! 名前!」

 全身からドッと汗が噴き出していた。強い力で肩を揺すられ、天井を見上げ見開いていた眼を横へ向ける。ベッドの下に膝をついて私の顔を覗き込むのはゴーゴリだった。長い銀髪は解かれて、楽な格好をしているから屹度寝ていたのだろう。
 はあはあ、肩で息をする私の頬を心配そうな顔をしたゴーゴリの手が撫でる。冷たくない、温かな体温に心底安堵した。まただ、私は夢を見ていたのだ。其の事実にホッとする。

「如何したんだい、そんなに魘されて」
「……悪い夢、見た」
「どんな夢?」
「……」

 迷って私は口にした。フョードルさんに首を絞められる夢だった、と。するとゴーゴリの顔色が変化した。息を詰まらせて真剣な顔をした彼は、頬を撫でる手をピタリと止める。不思議で名前を呼んだ。ゴーゴリの瞳は金色で、夜の暗がりの中でも光って見える。其の目が私の黒目をジッと見据えている。

「名前」
「な、なに?」
「よし。今日は一緒に寝よう」
「は?」

 云うが早いか、ゴーゴリは戸惑う私の体を「えーい」と奥へ転がすと其の儘ベッドへ上がりこんできた。可笑しい、何でそうなる。ダブルなんかじゃない、やや大きなシングルベッドで私とゴーゴリは密着する体勢になってしまった。

「狭いな」
「狭いって判ってるなら降りてよ! 其れじゃなかったら私が布団に」
「だーめ。今日の名前は僕専用の抱き枕」
「はあ?」

 待て、今ゴーゴリの一人称が変わっていなかったか。気になりつつも、其れ以上に衝撃的な事を云われ、意識は直ぐに其方へ向かう。宣言通り私を抱き枕にすると決めたらしい。背後から回って来た二本の腕が暴れる私の腕ごと私の体を包み込んだ。もぞもぞと身動ぎしたゴーゴリの吐息が首筋に掛かる。知らない匂いだ。フョードルさんに抱き締められて眠る事は今迄に何度もあったけれど他の男性にこんな事をされた覚えはない。抑々、ゴーゴリがこうして私を抱き締めて来るのは初めてだ。

「ふふ、名前混乱しているでしょう。大丈夫、取って食ったりはしないよ」

 ゴーゴリは、私の心情をずばり云い当てた。眠そうに欠伸をし乍ら、ぽんぽんと私のお腹を優しく叩く。

「本当はドス君みたいに背中を撫でてあげた方が安心するんだろうけど、君此方を向いて呉れそうにないからね」

 ぽんぽん、ぽんぽん。規則正しく叩く掌が、忘れかけていた眠気を誘う。目蓋が重くなって、もうゴーゴリの腕を退ける気もなくなってしまった。諦めたと云ってもいい。頭を置く位置を調整する為に、小さく身動ぎすると枕元の縫いぐるみと目が合った。暗い空間がそう見せるのか、何故か責められている気がして身が竦む。

「名前。今此処に居るのはドス君じゃないよ」

 二本の腕の内の一本が、縫いぐるみに留められた私の視界を塞いだ。耳元で囁く声は、フョードルさんのように何処までも穏やかでいて、まったく別のものだ。そう、此処に居るのはフョードルさんじゃない。大好きなあの人は、私では手の届かない場所に行ってしまって会う事は疎か声を聞く事さえ出来ない。此処に居るのはゴーゴリだ。私を今、寝かしつけようとしているのは、フョードルさんじゃない。
 私は小さく首を振って体から力を抜いた。同時にゴーゴリも脱力する。腹の上に乗った腕が少しだけ重くて、同時に心地がいい。

「おやすみ、名前」

 兎の縫いぐるみは、もう何も云っては呉れない。

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