眼前に広がるのは、ありふれたマンションの一室。清潔感溢れるピカピカのフローリングにベージュ色のカーテン。小型のテレビに二人掛けの机。必要な料理道具が大方揃えられたキッチン。リビングを抜けた先には四畳半くらいの寝室がある。
「なに此処」
「私の部屋」
「ゴーゴリ、独り暮らししてたの?」
「そうそう。君達の処にお邪魔する気満々だったのだけど、ドス君に却下されてねー」
私、寂しかったなーなんて嘯く道化師は、慣れた様子で外套をクローゼットに仕舞う。そしてキッチンに入ると、これまた慣れた様子でやかんに火をつけた。如何やら紅茶を淹れて呉れているらしく、善い香りが漂って来る。
「座っていて。ドス君程でなくとも私の紅茶の腕も中々だよ」
私の好きな苺のジャム、琥珀色の紅茶。そして数枚のクッキー。凡てを机に並べたゴーゴリが私の対面の椅子に腰掛ける。先程少し安心したせいだろうか。胃腸は空腹を訴えていた。手を合わせてまず、紅茶を飲む。落ち着く慣れた味に再度安堵して、次いでジャムをティースプーンで救う。甘くてちょっとだけ酸っぱい味が口内に広がった。今度はクッキーを指先で摘まんだ。市販の物なのだろう。これも美味しいけれど、ゴンさんが作って呉れた物の方が美味しい。
「流石にもう涙は枯れ果てたかな」
「……うん。ねえ、ゴーゴリ」
「うん?」
「フョードルさんは、何をしようとしているの?」
紅茶のお代わりが注がれたティーカップを指先でなぞり乍ら問いかけた。ゴーゴリは、頬杖をついて実に楽しそうに笑っている。フョードルさんの時と同じだ。温度差が非道い。凡てを判っている顔をして、理解出来ない私を観察している。
「云ってみたらいいじゃない。何か仮説くらいは出来ているんでしょう?」
ゴーゴリは何時もそうだ。優しいように見えて、実はあまり優しくない。私を揶揄って遊んで、戸惑い逃げ出す私に満足しているような男だ。嫌いじゃない。けれど苦手。太宰治程ではないけれど。
「何か、計画があって態と捕まったんでしょう? そのくらいは判るよ」
「せいかーい! そう、これは私達天人五衰の計画の内だ。本番はこれから。ドス君は今世界一安全な場所に居る。侵入は私の異能を持っても不可能! 其処で彼は、私達他構成員の計画実行を待っている、と云う訳さ」
大方予想は合っていたが、嬉しくはない。フョードルさんが私を黙らせて置いて行ったのは、矢張り計画の内だったのだ。
「そうだ。ドス君から伝言を預かっているから君に渡しておこう」
「え?」
「はい、これだよ」
外套もないのに何処から出したのか、ゴーゴリは大きな袋を取り出して私に差し出す。白い袋に紫色のリボンをつけた其れは、見た目に反して軽く柔らかい。一瞬脳裏にある予感が過ぎったが真逆、そんな筈はないと否定する。然し、私の指は、脳に反して急いで袋を開けていた。
「あ……」
白い兎の縫いぐるみが其処にはあった。露西亜に置いて来た筈なのに、何で此処にあるのか、なんて疑問はもう関係ない。ギュッと抱き締める。直ぐに袋に入れられたのか、薄っすらと露西亜の屋敷の匂いがした。フョードルさんの匂いだ。
「……嬉しい、ありがとう。ゴーゴリ」
「いいえ。私は預っただけだからね。でも、いいの? 伝言聴いてないでしょう」
「伝言?」
「あ、君私の話聞いてなかったね」
云われてみれば、そう云っていた気がする。抱き締めた縫いぐるみをそっと離してまじまじと眺める。然し、何処にも伝言が書かれていそうな紙はない。ひっくり返して、振ってみて、お腹や脇を摩ってみても何もない。
「ちょっと何だい其の目は。私、嘘はついてないよ!」
「だって、伝言なんて何処にも……あ」
「ん?」
「此処、何かボタンみたいなの、が……」
話している内に縫いぐるみの首に小さなボタンがあるのを発見した。頭を少し持ち上げてみなければ判らない位置だ。押してみると小さなノイズ音の後に聞きなれた、恋しかった声が聴こえて来る。
『善い子ですね、名前。今日も疲れたでしょう。おやすみ、よい夢を』
プツン、意識が途切れた。
「うわあ、流石ドス君」
そんなゴーゴリの呟きを聞き乍ら、意識は深い闇の奥に消えた。
「じゃあこれからの事を伝えるよ。私はこれから仕事があるから一度しか云わないのでよく聞くように!」
ベッドから起き上がり、寝ぼけ眼の私の前に立つのはニコライ・ゴーゴリの筈だ。声は同じだし身長も変わらないから、多分そうだと思う。仮令黒髪の七三分けの真面目そうな男性の顔をして、可愛らしく怒っていても、この人は私の知るゴーゴリなのだ。
「まず、これから暫く名前は私と此処で暮らす事になる! 外出は厳禁! 私が帰って来る迄善い子にしているんだよ!」
「……うん」
「未だ寝ぼけてるね。今日は朝食の準備、私がしてあげたけど明日からは名前が家事担当だから! あ、夕飯は作ってて呉れると嬉しいなぁ。和食でお願い! じゃあね、行ってきます!」
「……いってらっしゃい」
サラリーマンが使うような鞄を片手に掴み、慌しく部屋を後にするゴーゴリを見送る。ガチャンと鍵の閉まる音がして、漸く意識がハッキリとした。待て待て。ゴーゴリは何故あんな恰好をしているのだ。抑々、何処へ行ったんだ、ゴーゴリは。混乱するけど一先ずは――
「朝ご飯……」
ゴーゴリが用意して呉れた朝食は、昨日の机の上に置いてあった。サラダにスクランブルエッグとトーストにコンソメスープ。デザートにジャムの掛けられたヨーグルト。理想的な朝食である。コンソメスープもスクランブルエッグも美味しい。ゴーゴリ、料理出来るんだなぁ。失礼だとは思うが、あの奇抜な外見からはそんな生活能力は感じられないから驚いてしまった。
テレビでは、何でもないようなニュースが流れる。百貨店で催し物があるとか、何処かの学校で表彰式があっただとか。本当に、どうでもいい日常的な内容が映し出されていた。朝日に照らされたリビングに、記者の声と私のトーストに噛り付く音だけが響く。
「おはよう、フョードルさん」
向かい側の椅子に座る兎の縫いぐるみは何も云わない。けれど、小さく弧を描いた口が返事をして呉れているようだった。開けた窓から気持ちのよい風が吹き込んで来る。縫いぐるみの首に巻いた紫色のリボンが緩やかに揺れた。