「1/f」 | ナノ


血まなこで、追いかけました


「鼻血を噴いて倒れる女の子なんて私初めて見たよ」

 そう呆れたように太宰が云うので私も同意見だと返しておいた。尚、鼻血を吹いたのは私であるし、倒れたのも私だ。悲しい哉、太宰が呆れているのは他ならぬ『私』なのである。
 太宰の処置が適切だったのか、すっかり鼻血は引いた。其れでも毛細血管の切れた鼻はピリピリと痛むので、ティッシュで押さえ、私はソファの上で膝を抱える。向かい側に座る太宰は組んだ膝の上に置いた手をトンと叩き、口火を切った。

「まあ、過度なストレスが溜まった結果鼻血をふく事もあるし、君はそのパターンだろうけど……却説、君には訊きたい事が山ほどあるが……とりあえず確認だ。私の名前は覚えているかい?」
「……太宰治。武装探偵社の一員」
「其の通り。名前ちゃんは善い子だな〜頭撫でてあげよっか?」

 絶対に嫌だ。首を振り抱えた膝から睨み付けると、太宰は大袈裟な程肩を竦めて見せた。
 抑々何故私はビジネスホテルの一室にこの男と二人きりで居るのか。こんな事なら異能特務課に捕まった方がまだマシだ。数時間前の光景を思い出して、忘れかけていた悔しさが込み上げる。
 フョードルさんは連れて行かれた。目の前で笑みを浮かべる太宰や組合の元首領フィッツジェラルドの手引きによって、異能特務課に捕えられてしまった。行き先は正確には判らないが、多分異能力者専用の刑務所に入れられるのだろう。そうなれば、彼が脱獄でもしない限り、何の力も持たない私では会いに行く事さえ難しい。

「はい、新しいティッシュ」
「う、ひっ、う"ぅ……」
「泣きたいのなら好きなだけ泣き給え。涙が枯れ果てる迄付き合ってあげよう。但し、落ち着いたら私の話を聞いて貰うし、君にも色々と話して貰うよ」

 私は、太宰治と云う人間が苦手だ。理由は、揶揄ってくるからではない。其れならゴーゴリだって同じだ。では、何故こうもこの男を苦手視してしまうのか。

「否、矢張り話そう。時間が勿体ないからね。泣き乍らでいいから聞きなさい。先ず、苗字名前ちゃん。君は六年前の龍頭抗争の終盤、十四歳の時にドストエフスキーによって拐われた事になっている」
「! 私、拐われて、なんか……っ」
「なっている、と云っただろう。仮令君が露西亜で誘拐された被害者然の生活を送っていなくとも特務課の資料ではそうなっている。君は、公式上、六年間もの長い時を魔人に囚われ続けた悲劇のヒロインだ。私は勿論この国の皆が君に同情を寄せるだろう。可哀想に、君の叔母夫婦なんて泣き崩れていたよ」

 違う、違う、違う。何だ、其の巫山戯た内容は。目の前が怒りと悔しさで真っ赤に染まった気がした。体が震えて、膝を抱えた手に力が籠る。今、此処に手が傷つくから止めなさいと、私の手を取って呉れる人は居ない。
 フョードルさんは、私を誘拐したのではない。目の前で両親を亡くし、独りぼっちになって行き倒れた私を拾って呉れたのだ。遠い異国の地に着いてからだって、自分の殻に閉じ籠もっていた私を見捨てる事はなく、沢山のものを与えて呉れた。仮令彼が国際的な犯罪者であろうと、間違いなく露西亜で過ごした六年間は、私の人生で最も幸せな時間だった。

「ドストエフスキーの元で過ごしている間、君は幸運にも犯罪を起こす事もなく清廉潔白のまま此処まで成長する事が出来た。これに関しては、かの魔人を褒め称えよう。裏社会の最暗部に身を置き乍ら、実に奴は君を愛情深く大切に育てている。其処で私は一つ君に問いたい。君にとってフョードル・ドストエフスキーと云う男はなんだい?」

 この時、太宰の問い掛けている意味を私は確りと理解していた。だからこそ、回答が難しい。太宰は、私にとっての『フョードルさん』の位置を訊いているのだ。傍に居たい、世界で一番大好きな人。そんな大雑把な枠組みなんて回答は、端から求めていない。矢張り私は、この男が苦手だ。

「……判らない」
「では、私が選択肢を与えよう。はい、いいえ、何方かで答えてくれ。先ずは、家族?」
「いいえ」
「友人?」
「いいえ」
「誘拐犯」
「違う!」
「はは、冗談だよ。それじゃあ……恋人?」
「いいえ」
「では、奴の片想いだ」

 肩が震えた。片想い。恋愛感情を抱く相手に一方的に想いを寄せる事の意。脳裏にもう一度、数時間前の光景がフラッシュバックする。頬を撫でられて、顔が近づいて、白い目蓋や睫毛の長さ迄凡て見えた。

「だってそうでしょう? 奴は君に口付けて、愛しているって囁いたのだからね」
「違う……」
「何故そう思うんだい?」
「これは屹度私の、片想いだから……」

 予感がしていた。嫌な予感だ。其の予感は見事的中してしまって、私は独り、ヨコハマの地に取り残されている。再認識すると非道く心細くて、立てた膝に顔を埋める。
 フョードルさんは私にキスをした。其れは事実だ。けれど、屹度あれは男女の愛情のような深い意味はない。六年前から、彼はよく私に「愛してる」と囁いて呉れていた。其の時の声色を私はちゃんと覚えているから、だから判ったのだ。彼の声は、悲しくなる程平素と変わりなかった。

「フョードルさんは、我儘を云う私を黙らせる為に……したんだよ……あの人、嘘がとっても上手いんだもの」
「成程……ふぅん」
「なに?」
「否、魔人の教育は本当に見事だと思ってね」

 太宰は私の言葉を否定する事もなく「話を変えよう」と言葉を続けた。

「名前ちゃん、数日前私と会った時の事を覚えているかい? 私があの時、なんと云ったのか思い出せるかな」
「え? 慥か、自己紹介を」
「そうだ。どうせまた忘れているだろうから、そう私は云ったんだ」

 驚く私を宥めるように笑った太宰は、勿体ぶるように脚を組み替える。にこり、と愛想よく微笑んで小首を傾げてみせた。

「私と君が会ったのは、もっと前。中島敦君と君が港で出会った時。あの時、私は君に会っている」
「嘘……」
「嘘じゃない。因みに次はヨコハマ租界、擂鉢街の中心地に建っていた骸砦だ。君は、ドストエフスキーを捜して独りであの地に迷い込んだ。其処でも私は云ったよ。久しぶり、とね」

 如何やら君は、本当に忘れているようだけど。太宰の言葉が脳内でリフレインして、思わず上げてしまった顔から血の気が引くのが感覚的に判る。私は必死に思い出そうとしていた。中島敦と出会ったあの日を、骸砦と呼ばれる建物へ迷い込んだと云う日を。違和感を覚える日はあった。フョードルさんが、知らない白い服を着ていた日だ。あの日、彼からは濃い血の匂いがした。

「骸砦には澁澤龍彦と云う男が居た。彼は、ヨコハマの地に霧を発生させ、ある目的の為に、この地の異能を凡て手に入れようとした。霧の蔓延した街からは、異能力者以外凡てが消えた」

 膝を抱えていた手を頭に持っていく。聞きたくないのに、耳を塞ぐ事は出来そうになくて、側頭部に添えた手が黒髪をくしゃりと握りしめた。フョードルさんが何度も撫でて呉れた、私の髪が視界に入る。

「更に一つ真実を教えよう。君は、異能力者だ。だからあの日、君は骸砦に辿り着く事が出来た」

 記憶なんてないのに、太宰の言葉は真実として私の中に入ってくる。目の前が白黒として、震える唇はもうカサカサだ。嘘だ、と否定の言葉を吐く事さえ出来やしない。

「調べたら簡単に判った。君は生まれ持った異能力で記憶を大量に失っているんだ。『記憶の消去』其れが君の異能力だ」
「……」
「ドストエフスキーは、何らかの方法を用いて君の異能力を操作している。奴は君を、」
「違う!!」

 やっとの思いで出た言葉は、裏返った無様なものだった。狭いホテルの空間に大きく響き渡り、反響して消えていく。肩で息をする私とは対照的に落ち着き払った態度の太宰は、一つ大きな溜息を吐いて椅子から立ち上がった。

「私の異能力は『人間失格』。効果は、異能力の無効化だ」

 太宰は、ゆっくりとした動作で一歩を踏み出した。表情こそ優しいが、獲物をいたぶる肉食獣のような強気な態度で右手を伸ばす。其の手は、私の目の前で止まった。

「私は君の異能力を無効化出来る。今から試してみようか」

 其の言葉を聞き終えるや否や、私は咄嗟にソファから飛び退いた。私が居た場所に右手を翳したままの太宰が、視線だけを寄越す。彼は笑っていた。仕方のない子供を見るような目と、フョードルさんに似た表情をして、私を見ていた。

「認めたね」

 涙がぼろぼろと溢れ出す。私は、太宰の言葉を否定出来なかったのだ。私が実は異能力者で、記憶を失っていると云う事実を受け入れてしまった。脚から力が抜けて、大して柔らかくもない絨毯の上に座り込む。そして今度こそ耳を塞いだ。もう何も聞きたくない。フョードルさんに会いたい。抱き締めて貰いたい。ギュッと目蓋を閉じて空想の世界に体を放り込む。けれど、太宰は其れを赦しては呉れなかった。ポンと、私の頭に右手を置いた。

「っぁ」
「名前ちゃん、君にもう一つだけ真実を教えよう。ドストエフスキーは、慥かに君を愛しているよ。でないと、君は此処まで『善い子』には育たなかっただろう。但し、其の愛情はとても歪で異常だ。其れでも、彼の愛情は君を生かした。其の事実だけは変わらない」
「なんで、判るの?」
「皮肉な事に私と奴は似た者同士だ。だからだよ」

 この瞬間、私は理解した。何故、私は太宰治が苦手なのか――大好きなフョードルさんに何処か似ているからだ。
 意外な事に太宰は異能を使わなかった。私の中の彼の記憶は、あの日フョードルさんに置いて行かれた裏路地から始まっていて、他の記憶は存在しない。大きな掌で私の髪を一頻り撫でて、太宰は背を向けた。座り込んだまま、動けずにいる私を置いて入り口へ向かう。

「今日は此処迄にしておこう。明日また来るよ。あ、そうだった。最後に一つ訊かせて呉れないか?」
「なに……?」
「君、寝つきはいい方かい?」

 自然と視線は真横のシングルベッドへと向いた。冷たい白のシーツにこれから私は、独り眠る事になる。

「フョードルさんと一緒の時は、よかったよ」

 私の返事に、太宰は少し考え込むような仕草を見せた後、にこりと微笑んで部屋を出た。今度こそ独りぼっちになった狭いワンルームは、驚く程に静かで冷ややかな空気に包まれている。窓辺に置いてある小さな机の上には、太宰が購って来た夕飯が置かれていたが、口をつける気力は残っていなかった。

「……」

 体を沈めたベッドは、矢張り冷たくて固い。露西亜から日本に来た時に利用した密輸船の寝台を思い出したけれど、あの時はフョードルさんが傍に居て呉れたからこんな思いはしなかった。窓の外のネオンを眺め乍ら唇を震わせる。

「フョードルさん……」

 少しだけ躊躇して、やっと呟けた彼の名前に返事はない。当たり前だ。彼は、もう私の傍に居ないのだから。また、じわっと目蓋が熱くなって、毛布を頭迄被った。目を閉じていれば眠れる。仮令寂しくて死んでしまいそうでも、体は疲れているのだから睡魔はやって来る。
 そうしていると、ふと頭に重みを感じた。誰かの手だった。優しく、毛布越しに誰かの手が私の髪を撫でる。真逆、真逆。少しだけ訪れていた睡魔が去っていくのが判った。毛布を跳ね除けて、視線の先に居た人物に息を詰まらせる。

「ゴー、ゴリ?」

 ベッドに腰掛けた道化師は、珍しく笑ってはいなかった。神妙な表情をして驚愕する私を見据えている。かと、思われた。

「ハハハーハ! 名前専属ゴーゴリタクシー只今ご到着致しましたー!」

 夜半に似つかわしくない軽快な笑い声に肩から力が抜けた。毛布を跳ね除けてボサボサになった髪も其の儘に、マットレスに手をついた私の口からも笑い声が零れ出す。あはは、はは、あはははは。喉が痛くなる程私も笑った。ゴーゴリは、にっこりと唇に弧を描いたまま私の手を取る。

「寂しかったね。つらかったね。迎えに来るのが遅くなってごめんよ」

 其れなのに彼の口から発せられたのは、髪を撫でた手のように優しい言葉だったものだから笑い声が止まってしまった。代わりにうっと喉を詰まらせて、ゴーゴリの手を握り返す。私は安心していた。フョードルさんと私を知っている存在は、云い様のない安堵を私に与えた。独りぼっちだった冷たい空間が、少しだけ暖かくなる。

「行こうか」

 ぽかぽかとして気持ちがいい握られた手を引き寄せられて、視界が黒く染まる。空間から切り離される感覚がして、私の体は別の空間へと投げ出された。太宰との約束を破ってしまったと、ぼんやりとする思考で考え乍ら。

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