「1/f」 | ナノ


リスタート


 多分、私は日本に帰って来たくなかったのだ。露西亜と違う暖かな気候も、流れる空気も、見慣れていた筈の人々の顔も。全部もう触れたくはなかったのではないか、と目が覚めて冷静な頭でそう思う。窓から見下ろした屋敷の庭に咲く紫陽花の色は、フョードルさんの瞳の色に似ている。其れなのに如何してこんなに嫌なのだろうと、日本に帰って来てからずっと不思議に思っていたから漸く謎が解けた気がした。
 然し、沢山泣いたせいで目蓋が重い。鏡を見れば非道い顔をした自分と目が合って朝から気分が悪くなった。氷で冷やせば少しはよくなるだろう。スリッパを履いてパジャマ姿のまま部屋を出る。すると下から弦楽器の音色が聞こえた。この美しい旋律には聞き覚えがある。フョードルさんがチェロを弾いているのだ。手摺に指を掛けて階段を駆け下りる。リビングに繋がる扉を開けると、彼は私に気づいたようで顔を上げ、薄く微笑みを浮かべた。

「おはよう、名前。起こしてしまいましたか」
「ううん、フョードルさんがチェロ弾いてるの久しぶりに見た……」
「昨日も弾いていたのですが、貴女は臥せっていましたからね。待っていなさい。紅茶を淹れて来ます」
「あ、いい。まだいいの。其れよりもっとチェロ聴きたい」

 思い返してみれば、フョードルさんが初めてチェロを聴かせてくれたのは、私が未だ十四歳だった頃だ。彼が病床に臥せった後、其の分のお詫びも兼ねてと聴かせてくれた楽曲は今もよく覚えている。

「では、リクエストにお応えして」

 何時も思う。チェロを弾くフョードルさんはとても綺麗だ。長い睫毛を被せるように目を伏せて、長く白い指先で弓を引く。弦楽器から流れる音色は低く、体の底に響くようで、思わずうっとりしてしまう。彼が弾いて呉れたのはチャイコフスキー。露西亜の偉大な音楽家が作曲した名曲だ。あの日と同じ楽曲にソファに腰掛け、目蓋を閉じて聞き入る。穏やかな時間は、昨日の不安を溶かすようでとても心地よい。
 余韻を残して演奏は終わった。素敵な演奏に拍手を送る。するとフョードルさんは微笑んで私を手招きした。

「目蓋が少し腫れていますね。冷やして寝かしつけるべきでした」
「う、大変見苦しい姿で」
「いいえ。可愛らしいですよ。ぼくの事を思って泣いていたのなら尚更です」

 私の目尻を撫でる指先は、何時も以上に荒れていた。昨日、私の知らない所で指を噛んでいたのだろう。後でハンドクリームを塗ってあげようと心に決める。露西亜から持ってきた少ない手荷物の中に愛用の物があるのだ。

「名前、今日も出掛けます。ついて来て呉れますね」
「うん」

 けれど、ハンドクリームは使われる事もなく私のポケットの中で眠り続ける事になる。そんな事も知らずに私は頷いた。この時、我儘を云っていればよかったと、後に後悔する事さえも知らずに。




 フョードルさんが淹れて呉れた紅茶と軽い朝食を取り終えた昼過ぎ。彼は、私の手を引いて屋敷を出た。指先を絡め合い、ゆっくりとした足取りでヨコハマの街を目指す。公共交通機関を使ってもよかったのだけど、今日は歩きましょうかと他ならぬ彼が云うので頷いた。バスで三十分の道のりは、歩くとなると中々の距離がある。今日が天気の善い日でよかった。雨だったら目も中てられない。
 田舎町に異国人の彼は目立つようで、道行く人々は興味深そうに振り返る。ふと、以前露西亜でデートした時を思い出して、衝動的に腕を絡めてみる。フョードルさんは口元に指先を添えてくすくすと上品に微笑むだけで引き離したりはしなかった。

「いい町ですね。気候も人々も穏やかで実に住みやすそうだ」
「そうですか? 私、あんまり居心地よくないんですけど」
「ふふ、名前は露西亜の方が好きですか」
「うん。露西亜の御屋敷に早く帰りたいです」

 冷たい雪に覆われた古いお屋敷には私が欲した物凡てが揃っている。置いて来てしまった兎のぬいぐるみや絵本は其の儘部屋にあるのだろうし、今此処には居ないゴンさんが作って呉れる料理も食べたい。暖炉の火に中り乍ら、フョードルさんに膝枕して貰ってうたた寝だってしたい。
 フョードルさんは、そんな我儘を見透かしたような目をして私を見下ろしていた。小さな、仕方のない子を見守るお母さんのような瞳だ。私の大好きな目。

「もう少しですよ。名前は善い子だから我慢出来ますね」

 うん、出来るよ。此処や、あの屋敷は好きではないけれど、フョードルさんが居て呉れるなら我慢出来る。

 漸く辿り着いたヨコハマの街は昨日と変わらぬ空気が流れていた。ついて来るようにと云われたが、如何やら今日は大きな用事がある訳ではないようで、フョードルさんは見晴らしの善い喫茶処に入店すると案内されたテラス席に腰掛ける。私も歩き疲れて喉も乾いていたしありがたい。向かい側に座りメニューを見ると、ロシアンティーがある事に気がついた。迷わず飲み物は其れを注文して、次いでデザートの一覧に目を留める。

「どうぞ。好きな物を頼みなさい」
「やった! じゃあこのフルーツケーキにする」

 注文して直ぐ運ばれて来たフルーツケーキは、色とりどりの果物が艶々と輝いていて見た目から私を楽しませてくれた。ゆっくりと勿体ぶるように口に運べば柑橘系の甘酸っぱい味と生クリームの上品な甘さが口の中に広がる。美味しい。幸せだ。日本は苦手だけど、ケーキは美味しい。そんな現金な事を考えているとフョードルさんの携帯が鳴る。二人の時間を邪魔されたようで少し嫌な気分になったけれど、止める事はしない。今日は聞き分けの善い子になると決めたのである。穏やかな口調で電話に出た彼は、何事か会話を続けると通話口を片手で押さえて私の名前を呼んだ。

「赤色と青色何方が好きですか?」
「えー、青かな」
「ありがとうございます。助かりました」

 私がケーキを食べ終わる間に通話は終わった。如何やら仕事の電話だったようで、多分話を聞いても私では理解が出来ない。ふと、正面に視線を向ければ、何かを考えるように手を組んで視線を宙へ投げるフョードルさんの耳にイヤホンがついている事に気が付いた。なんでもラジオを聞いているらしい。気になって、彼の肩に垂れていたもう片方を自分の耳へ刺してみればクラシック音楽が流れていた。

「くるみ割り人形?」
「おや、よく知っていましたね」
「フョードルさん前に聞かせて呉れたじゃない。覚えてるよ」

 音楽だけではない。六年間の間に私は彼から様々な事を学んだ。言語、露西亜の文化、銃の扱い方、身の護り方。まあ、言語に関しては周りが皆私に合わせて日本語を話して呉れる事もあって、読めても話せる迄にはなっていないのだけど。
 流れる空気は、屋敷でチェロの音色を聴いていた時のように穏やかだ。偶に店員が紅茶のお代わりを勧めて来る以外は誰も傍に来ないし、もう電話も掛かって来ない。まるで二人だけの空間にいるかのようである。こんな日常だったら日本も悪くはないのかもしれないな。仮令、『本』を求める為に血腥い戦いが起きていようと、もう少しだけなら我慢が出来る。すると空気を変えるように流れる音楽が変わった。慥かこれはバッハの『マタイ受難曲』。以前フョードルさんが自室で聴かせて呉れたから覚えている。新約聖書の一説、キリストの受難を題材にした名曲だ。

「却説。名前、先に出て車を捕まえてくれますか」
「え?」
「よく我慢しましたね。露西亜へ帰ります」

 真逆、こんなに早く戻れるとは思わず面食らってしまった。あまりにも突然で疑ってしまうけれど、フョードルさんは優しく微笑んでいる。嘘はついていない。

「本当に?」
「ええ、本当です。二人で母国へ帰りましょう」

 矢張り嘘じゃない! 嬉しくて、浮足立つ心のまま私は席を離れた。テラスを抜けて、表通りに出てしまった。
 頼まれた車は直ぐに捕まった。然し、何時まで経ってもフョードルさんは店から出て来ない。痺れを切らした運転手は、乗客を乗せぬまま車を出してしまった。如何したのだろう。背後を振り返り、ハッとする。他の客達が悲鳴を上げ乍ら飛び出して来る。可笑しい。嫌な予感がした。私の嫌な予感は中るのだ。人の流れを逆流するようにテラス席を目指す。椅子や柱に打つかり乍ら店内を走り抜けた先、其処で見えた光景に私は目を見開き立ち竦む。

「――!!」

 悲鳴は声にならず、空間を震わせた。銃を持った武装した集団がスーツ姿の男性と共にフョードルさんを囲んでいたのだ。けれど今そんな事気にしてはいられない。驚愕する集団を掻き分けてフョードルさんの体に力一杯にしがみ付く。血走った目で辺りを見渡せば、太宰治と組合の首領フィッツジェラルドが居る事に気が付いた。真逆、真逆。過ぎった可能性に呼吸が覚束ない。手足が震えて、フョードルさんの体にしがみ付くのがやっとだった。

「名前」
「なんで、なんでフョードルさん……なんで抵抗しないの? 逃げようよ、露西亜に帰るんでしょう!?」

 見上げたフョードルさんの表情に動揺はない。まるでこうなる事を予知していたかのような態度に焦燥感が募る。真逆、真逆。そんな。嫌な予感を否定したくて、彼の薄い体を揺さ振る。けれど彼は動かない。両手を上げたまま私の体を包み込んでも呉れない。彼は、此の儘捕まる気でいるのだ。

「フョードルさんなら如何にか出来るでしょう!? ねえ!!」
「名前、落ち着きなさい。ぼくの目を見て」
「落ち着いてなんていられないよ! なんで、なんで、ねえ、ねえ! 動いてよ!」

 ガクガクと私に揺さぶられるまま、フョードルさんは穏やかな声色で囁き掛ける。温度差が非道い。其れが私の動揺を誘う。判っていてやっているのかもしれない。だとしたら非道い話だ。私は何度も何度も彼の名前を呼んだ。フョードルさんも同じように私の名前を呼ぶ。会話が噛み合っていない。

「わ、たしの為なら何でもして呉れるって云ってたじゃない! ずっと一緒に居て呉れるって……っ」

 昨晩の会話が脳裏を過ぎる。あんなに優しく私を包み込んで呉れた言葉が凡て嘘だったとでも云うのだろうか。そう考えた途端、非道い絶望感が全身を支配する。震えて、彼の服を掴んだ指から力が抜けてしまった。すると、周りを囲んでいた男の一人が私の肩へ手を掛けた。何事か云われ、引き寄せられる間際、フョードルさんの手が漸く動くのが見えた。

「……ぁ」

 ぐしゃり。血の噴き出す音がして、私の体に男の血飛沫が飛び散った。凡てがスローモーションに見えていた。多分、否男は死んだ。フョードルさんが異能を使ったのだ。同時に緊張感が場を支配して、構えられた銃器がフョードルさんを今にも撃ち抜かんとする。だから咄嗟に体が動いた。全方位包囲されているから、凡てから庇うなんて出来やしないけれど、それでもと盾になる為に腕を広げる。スーツ姿の男性が眉を顰めて太宰を呼んだ。太宰が苦々しい表情で私に退けるように云う。それに私は首を振って周囲を睨み付ける。云う事を訊く気は毛頭ない。

「名前、いいのです」

 其れなのに、こんな緊迫した状況下でもフョードルさんは穏やかなままだ。背後から伸びた白く薄っぺらい掌が私の両頬を包み込む。銃器の安全装置が外される音がして、肩がビクリと震える。

「そう警戒せずともぼくがこの子を傷付ける事はありません」

 ほんの少しだけ不愉快そうな声色でそう云って、フョードルさんは私の肩へ指を滑らせた。優しい力で促されて、もう一度正面を向く。薄く笑みを浮かべた彼は、何度も何度も噛み締めるように私の頬を撫でた。まるで別れを惜しんでいるような手付きに喉の奥から悲鳴が上がる。

「やだ……やだぁ……っ、何処かに行っちゃうなら私も一緒に……!」
「名前」

 嫌だ、嫌だ。譫言のように呟く私の声に被せるように私の名前を呼んで、彼は腰を屈めた。まただ。スローモーションのように世界が動いている。ゆっくり、ゆっくりと顔が近づいて鼻先が触れ合う。そして、冷たくて柔らかい其れが悲鳴を漏らす私の其れを優しく塞いだ。視界に映るフョードルさんの睫毛は本当に長くって、女性よりもずっと豊かだ。本当に美しい人。六年前、この地で私を拾い上げて呉れた時から何も変わらない。違う。そんな事、今考えている余裕はない。其の筈なのに、これは、なんだ。

「……仮令離れていたとしても、ぼくはずっと傍に居ます。愛しています、名前。貴女を一人の女性として、他の誰よりも」

 離れた其れに視線が向く。目が離せなくなって、彼の其れが発する言葉の一つ一つが別の生き物のように思えてならない。

「この続きはまたいずれ……善い子にしていなさい」

 頬に触れていたフョードルさんの指が離れる。ほのかな温もりと優しい香りを残して遠くへ行ってしまう。其れなのに私は何も出来ない。動く事も、泣く事も出来ずに、ただ呆然と、小さくなる後ろ姿を見送った。静寂を取り戻した喫茶処に、私が独り残される。
 ふと、気が付けば私の横には太宰とフィッツジェラルドが立っていた。苦虫を噛み潰したような表情をして私を見ている。太宰の手が私の肩を叩いた。体が傾き、世界が暗転する。

「死んだか?」

 遥か頭上からフィッツジェラルドのそんな呟きが最後に聞こえたが、私は生きている。フョードルさんに、キスをされた。何時もされていた頬や額でなく、唇に、触れられた。彼に置いていかれた私は、今も大嫌いな此処で息をしている。

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