少し待っていて。そう云って階段を下って行ったゴーゴリは宣言通りフョードルさんを連れて来た。とは云っても部屋に入って来たのはフョードルさん一人だけで、奇抜な道化師の姿は何処にもない。本当は何処かに居るのかもしれないけど、私の視界内に姿は見えなかった。
静かに、木製の重厚な扉を閉めて、ベッドに歩み寄るフョードルさんの足元を被った毛布の隙間から見守る。彼は、丁度私の頭下で止まった。そして、ゆっくりと絨毯の敷かれた床に膝をつく。二つの紫水晶と目が合った。
「名前、名前。貴女がそんな不安を抱えていただなんて知りませんでした」
驚いた事にフョードルさんは悲しそうな顔をしていた。美しい造形に悲哀を滲ませて、そっと伸ばされた指が毛布越しに私の頭を撫でる。其の指先は非道く優しいのに何故か肩が震えた。
「可哀想に。ずっと独りで抱えていたのですね」
然し、フョードルさんはそんな事意にも介さず私の毛布を簡単に取り払ってしまう。外気に晒された体が一瞬ヒンヤリとして瞬きをすれば、其の拍子に溜まっていた涙がまた零れ落ちた。
我儘だと叱られるのが嫌だった。九日間の寂しさは未だ埋められてはいないけど、其れでもこれ以上呆れられるのは嫌で、独り耐えようと決めたのに。一度決壊した涙腺は留まる事を知らず、最早嗚咽を抑える事すら難しい。何時しか羽毛枕には大きな染みが出来て、せめて顔を見られまいと擦り付けようとした頬を冷たい掌が包み込む。
「ああ、そんなに泣いて……おいで、抱き締めさせて下さい」
如何やら彼は、叱りも呆れもしないようだ。そう気が付いた時、私は既に大きな両腕の中心にいた。ベッドに腰掛けたフョードルさんの体に凭れ掛かるように抱き締められた右耳が、彼の左胸に触れている。ドクンドクンと心臓の鼓動が聞こえて来る。噛み締めた唇に、荒れた指先が触れた。其の指先は優しい力で唇を開き、溜め込んでいた嗚咽が次々に溢れ出す。
ああ、こんなに泣いたのは何時以来だろう。露西亜の屋敷以来だった気がする。思い出すと雪に覆われた冷たい屋敷が恋しくなってきた。矢っ張り早く帰りたい。そんな思考に潜る私の頭を、フョードルさんの手が優しく撫でる。脳を直接触るような、宝物を触るような、そんな手付きにくらりとした。
「よしよし、善い子。大丈夫、大丈夫ですよ。約束したでしょう? 貴女の不安は凡て取り除いて差し上げると。ぼくは貴女と一緒に居ますよ。何があったって離れはしません。貴女がぼくを要らないと云う日が来る迄、ずっと、ずっとです」
そんな日絶対に来ないのに、何でそんな事を云うのだろう。背中に回した腕に力を込めて、彼の薄っぺらい胸板に額を擦り付ける。其の儘左右に振れば、頭上から困ったような苦笑が降って来るので、堪らず声も出た。「やだ、やだ、なんでそんな事云うの。要らないなんて絶対云わない、思わない。私、フョードルさんとずっと一緒に居たい」自分でも判る程、癇癪を起こした子供のような泣き声なのに、彼は私を叱りつけたり、嗜めたりはしなかった。変わりに少し痛いくらい、ぎゅっと私の体を抱き締めて耳元で小さな声で囁く。「ええ、ええ。そうですね」少しだけ声が震えていた。
痛いくらいに締め付けていた腕が解かれ、擦り付けた額を軽く撫でられれば、自ずと視線はフョードルさんの顔へ向く。穏やかに微笑む彼は、泣き腫れた私の目尻を撫でて、其れから耳朶の裏へ指先を滑らせた。
「だからもう少し我慢なさいね。全部終わったら露西亜へ帰れますから」
露西亜へ帰れる。フョードルさんと一緒にあの屋敷でまた暮らせる。其の言葉が何よりの救いだった。嬉しくて何度も頷き乍ら、もう一度飛び付くと、支えを忘れた彼の体は私と一緒にベッドへ沈む。見下ろした先、仰向けで倒れ込むフョードルさんは、困った子供をあやすような顔をして笑っていた。
「うん、善い子です。ああ、やっと笑って呉れましたね」
掌が後頭部へ回り、引き寄せられて、また力一杯にしがみ付く。すると「痛いです」と頭上から苦情が入ったので少しだけ力を緩める。
「ぼくも名前が大好きですよ」
「! 私の考えてる事、判ったの?」
「ええ、判りますとも。他ならぬ貴女の事ですから。何でも判ります」
弾かれたように上げた顔が熱い。端からバレている事だけど、敢えて口にされると恥ずかしさを覚えるものである。
「名前、ぼくは世界中の凡てを愛しています。でもね、其の中でも貴女は特別です。この罪に塗れた世界で、貴女だけは一等愛おしい」
今度は両頬を包まれて、冷たい唇が額に落とされる。愛おしい。私の事が、一等愛おしいと告げた唇が私の体に触れている。其の事実に体中が多幸感に包まれる。ふと、ゴンさんを思い出した。元気かな。会いたいな。
もう顔を上げている事も出来なくて、緩んだ頬を彼の胸に押し当てた。髪を撫でられる。
「ぼくはね、貴女の為なら何だってして差し上げる心算です。愛していますよ、名前。貴女の事を世界で一番愛しているのはぼくです。忘れないで下さいね」
「うん……私も……」
「もうおやすみ、名前。屹度善い夢が見られますよ」
嬉しい。嬉しい。大好き。フョードルさんが世界で一番大好き。本当は、もう何も要らない。この人が、私にとって神様のような彼が、ずっと傍にいてくれるならもう他には何も要らないとさえ思う。
髪を撫でられて両腕に包まれるとお母さんの腕の中で眠る赤ちゃんのように安心できる。大丈夫、もう大丈夫。ゴーゴリの云う通り、フョードルさんは私の不安を取り除いで呉れた。だから、屹度耐えられる。この屋敷にも、日本の空気にも。促されるまま目蓋を閉じる。凡て終わった後を夢見て。