「1/f」 | ナノ


極刑に処す


「戻って来てから名前の様子が可笑しいのです。如何したのでしょうねぇ」

 まあ、判り切った事を随分と大袈裟に云うものだ。ドストエフスキーに頼まれた『配達』を終えたゴーゴリは、彼が淹れて呉れた紅茶に口をつけ乍ら心中で独りごつ。其の話題の名前だが、如何やら今は寝室で休んでいるようで今この場には居ない。何時もならドストエフスキーの真横を陣取って離れないくせに、如何やら本当に可笑しいようだ。
 対面に座るドストエフスキーは常と変わらぬ顔色の悪さで頬杖をつき、ジャムの乗ったスプーンを口に運んでいた。何時もより行儀が悪い。本当に少しだけ、ほんの少しだけは悩んでいるらしい。そうなれば親友として放っておく訳にもいかず、少しの思考の巡回の後、ゴーゴリは助け舟を出す事にした。

「君がお客人の相手をしている間、私が名前と話をして来よう。若しかしたら第三者である私になら話せるかもしれないからね」
「ぼくに話せない事を貴方に?」
「そう怒らないでよ、ドス君。大好きだからこそ話せない。そんな複雑な乙女心も理解してあげないとね」

 まあ、実際の所、名前にそんな複雑な乙女心とやらが備わっているのか如何かはゴーゴリには判らない。口では尤もらしい台詞を述べ乍ら最後にウインクも残して置く。ドストエフスキーは幾分か不服そうな態度で「頼みます」と小さく首を垂れた。

 却説、ゴーゴリは名前の部屋を目指し、日当たりの善い階段を登る。ドストエフスキーは客人との話の為、地下へ下り暫くは上がって来ないだろう。となれば、地上には名前とゴーゴリの二人だけと云う事になる。秘密話には打って付けだ。
 然し、この屋敷は美しい。そう新しい建物ではないけれど、古き良き時代が流れているように感じられる。木製の柱はピカピカに磨かれていて、毎日名前が丁寧に手入れをしているのが見て取れた。まあ、この屋敷は広いし、ドス君が地下に籠っていれば他にする事もないよね。彼女の寂しさが垣間見えて、少しだけ切ない思いになる。階段を登り切り、ふと窓の外を見下ろせば庭には紫陽花の花が咲いていた。けれど、其れは勝手に咲いた、とでも云うようで手入れされている風ではない。庭に置かれた白いテーブルは薄汚れているし、雑草も生えている。これは、これは――ゴーゴリは目を細め、庭から視線を外した。

「やあやあ名前! このゴーーーーゴリが君の悩みを訊きに来てあげたよ!」

 ドストエフスキーの話通り、名前はベッドに転がって臥せっていた。羽毛のふかふかの枕に顔を埋めて、大声を上げるゴーゴリを小さく睨め付ける。然し、其れに怯む道化師ではない。彼は、飄々とした様子でベッドへ近づくと、丁度名前の腰辺りに腰を下ろした。

「其れで如何したんだい? ドス君が心配しているよ」
「……なんでもない」
「何でもないなら何故ずっとベッドに? あの名前が、ドス君からのお茶のお誘いを断るなんて天変地異の前触れかと思ったよ」

 名前はとうとう顔を凡て枕に埋めてしまった。しまった、逆効果だった。そう悟るが、顔には出さないのが道化師の業である。ゴーゴリは笑みを消す事もなく、名前の背中を軽く叩いた。先を促すようにそうされれば、名前の意識も少しは此方へ向く。現に垣間見えた彼女の黒色の瞳は何かを云いたそうに揺れていた。あと一押しだ。

「ドス君には話せない事なんだろう? 大丈夫、彼に話はしないよ。私と君、二人だけの秘密だ。如何だい、これで安心だろう。さ、話してみてよ」
「……ゴーゴリ嘘つきだからなぁ」
「ま、信用ない! 私でも傷つくよ名前〜。慰謝料として秘密の暴露を要求する!」

 こうして巫山戯てみせれば名前の心が開くのは早い。ドストエフスキーが彼女を拾って六年。ゴーゴリもまた長い月日、彼女の様子を見守って来た。ドストエフスキー程ではないにせよ、少しは幼い彼女の理解者でいる心算である。
 名前は小さく笑い声を上げた。落ちた。ゴーゴリの心中等知らず、彼女は寝返りを打つように此方側へ顔を寄せる。迷うように唇が震えるのを至近距離で眺めて待つ。これ以上、先を促してはいけない。自分から扉を開くのを待つのだ。

「私ね、本当はこの屋敷嫌いなの」
「へぇー」

 え、なんだそんな事なの。だとしたら拍子抜けもいい所だ。名前には約束してしまったが、これなら笑い話になるしドストエフスキーに話してもいいかもしれない。そう考えたのも束の間、名前の口から更なる秘密が吐露される。

「紫陽花の花も、広い庭も落ち着かない……見たくない……私、フョードルさんと露西亜へ帰りたい……日本に居たらいけない気がする……」
「如何いう意味だい?」
「私、私ね、数時間前に訊いたの……異能力者のいない世界って、其れってフョードルさん達が消えた世界なの?って……そうしたらね」
「うん」
「フョードルさん、何も答えてくれなかった……怖い、怖いよゴーゴリ……私、置いて行かれちゃうのかなぁ……っ」
「ああ、名前。泣かないで」

 幼い名前が流した涙は慥かに道化師の心を打った。ほんの心の端だったとしても、哀れに思う気持ちに嘘はない。手袋に包まれた指先でぼろぼろと涙を流す彼女の目尻を拭う。以前もこんな事があった。あの時は、ドストエフスキーが体調を崩していて会えない寂しさから来た涙だったが、今回はまた種類が違う。あの時よりも遥かに大きな不安、恐怖、予感が名前の細く小さな体を襲っている事が見て取れた。
 此の侭抱き締めてあげても善いのかもしれない。揶揄ってくるからとゴーゴリを苦手視する名前だが、今は拒否しないだろう。安心させるように抱き寄せてやれば、自ら縋って来るに違いない。想像だけして、ゴーゴリは止めた。そんな事、ドストエフスキーが赦すとは思えない。

「名前、名前。ドス君を呼んで来るよ。大丈夫。君の大好きなドス君は屹度君の不安を取り除いて呉れる。何時だってそうだろう? 名前、君が泣いているのは私だってつらいんだ。いいよね? 少し待っていて」

 ドストエフスキーが名前を拾った真の目的をゴーゴリは知らない。彼が、この日本の地から十四歳の少女を遠い露西亜へ連れ帰り、育てると決めた時は流石に驚いた。大切に大切に、其れこそ真綿で包むように愛情を注いでいる姿には我が目を疑い、其れに応えるようにドストエフスキーを慕う名前を見た時は悪夢でもみているのかと思ったものだ。けれど、ゴーゴリは判っている。其の注がれた愛情には理由がある事を。だからこそ、名前を哀れに思う。魔人により創られた箱の中、愛情たっぷりに真綿で首を絞められ続ける彼女は、何時か真実を知る日が来るのだろうか。
 地下室にいたドストエフスキーは凡てを終えたようで、チェロの弓を椅子に置くと速足に階段を登った。その後をゴーゴリはついて行く。丁度死角になる位置に姿を隠し、耳を欹てると、魔人の優しくも甘い囁きが聞こえて来た。

「名前、名前。貴女がそんな不安を抱えていただなんて知りませんでした」
「可哀想に。ずっと独りで抱えていたのですね」
「ああ、そんなに泣いて……おいで、抱き締めさせて下さい」
「よしよし、善い子。大丈夫、大丈夫ですよ。約束したでしょう? 貴女の不安は凡て取り除いて差し上げると。ぼくは貴女と一緒に居ますよ。何があったって離れはしません。貴女がぼくを要らないと云う日が来る迄、ずっと、ずっとです」
「だからもう少し我慢なさいね。全部終わったら露西亜へ帰れますから。うん、善い子です。ああ、やっと笑って呉れましたね」

 途中から聞くのを止めた。多分居眠りでもしていたのだと思う。目が覚めた時、あれから三十分が過ぎていた。ずり落ちそうになる帽子を片手で押さえて、死角から顔を覗かせる。泣き疲れて寝入った名前を腰に巻き付けたまま、ベッドに腰掛けるドストエフスキーは判っていたようにゴーゴリへ視線を投げた。

「貴方の云う通りでしたね。ぼくには話せない事を、第三者である貴方になら話せた。正直云って非常に不愉快です」

 そう云って指先を噛むドストエフスキーに、ゴーゴリは肩を竦ませる。何らかの理由があって利用してい乍ら、彼は名前に対して強い独占欲を持っている。名前の理解者は自分一人であり、彼女が慕うのも自分だけであると。前々から判っていた事だ。
 ガリガリと噛み付けた指先から鮮血が滴り落ちる。見ているだけで指先が痛む光景に、制止を掛けたいのは山々だが、そうしては親友の機嫌を更に損ねてしまうだろう。

「ねえ、ドス君」

 だから話題を変える事にした。以前から話そうと思っていた内容だ。

「あと数日後、この子耐えられると思う?」

 超人的頭脳を持つ魔人の立てた今後の計画を考えれば、考える程、其の内容はあまりにも彼女にとって酷だ。ゴーゴリですらそう思うのだから、計画の発案者であり、名前の唯一の理解者であるドストエフスキーは、更に理解しているに違いない。其れなのに彼は笑う。うっそりと微笑んで、名前の髪を撫でて、この世の愛、凡てを凝縮したような面持ちで心底愛おしそうに呟く。

「いいえ」

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