「名前、いい加減に離れなさい」
あ、とうとうお叱りを受けてしまった。フョードルさんの外套を握りしめたまま、やけに冷静な頭がそう思う。其れでも指から力を抜く事はない私に、彼は大きな、其れはもう大きなため息をついた。ついでに額を片手で押さえているから頭も痛いらしい。
お醤油を購いに行く途中誘拐され、Aの奴隷となった悪夢の九日間から数日が過ぎた。フョードルさん曰く運が善いのだか悪いのだか判らない私は、如何やら彼の求めるポートマフィア構成員の異能リストの入手に一役かったらしい。とは云え、私に其の実感はまるでないので実際そうなのかは判らない。ただ、あまり怒られずに済んだし、何より褒められて嬉しいなあ。其れだけだった。
呆れ果てた紫水晶の瞳が私を見下ろしている。其れでも私は離さない。離したくない。迎えに来たゴーゴリに揶揄われ乍ら如何にか屋敷へ戻って来た私は、以前にも増してフョードルさんから離れない生活を送っている。彼に拾われて早六年。仕事の関係で離れる事は時折あったけれど、九日間も離れたのは今回が初めてだった。誘拐されたと気づいた時は泣きそうになったし、Aに顔面を叩かれた時は叫びそうになった。其れでも耐えたのは以前フョードルさんが云っていた「若し誘拐されてしまったら声の出ない詰まらない人間のふりをしなさい」の言葉を必死に守っていたからだ。なので許して頂きたい。今は、九日分の不足を補っている最中なのである。
「……仕方のない子ですねぇ。ところで」
「はい?」
「何故『11』だったのです?」
『11』もう聞きたくはなかった奴隷名に思わず眉間に皺が寄る。フョードルさんは頭が善い分、知識欲が強い。多分私が答える迄ずっと待っている心算だ。ううっ、と唇をもごもごと動かして彼の顔を見上げる。呆れの色は薄くなったが、じっと私を見下ろす紫水晶の瞳だけは変わらない。とても耐えられなくて、手に持ったままの外套に顔を埋める。せーの。心の中で勢いをつけた。
「……フョードルさんの、誕生日……」
「はあ、其れで……」
私の答えは、彼にとって納得のいくものであったらしい。其れに一先ず安堵しつつも、羞恥から顔を上げられずにいた私の頭に大きな掌が乗せられる。
「健気な事をしてくれますね。そんなにぼくが恋しかったのですか?」
「咄嗟だったんです! 名前があるなら書けって紙を渡されて……うう、揶揄ってくるから云いたくなかったんですよぉ」
「ふふ、揶揄ってはいませんよ。ぼくはこんなに嬉しく思っているのに」
「其れが『揶揄ってる』に入るんですよ……」
頭の上に乗った掌が優しく左右に揺れる。何時もの事だけど犬猫になった気分だ。恐る恐ると顔を上げる。其のタイミングを判っていたように、彼は腰を屈めて私と視線を合わせた。
「可愛い名前。大丈夫、これからもずっと一緒ですよ」
そう云って美しく微笑んで呉れたのに――
「何で置いて行くんですかー!!」
「置いて行くと云っても少しの距離です。数分で帰って来ますから善い子で待っていなさい」
「やだーっ!!」
「我儘が非道くなっていますね……」
ヨコハマ市街地の裏路地。破れたソファ等粗大塵が積み上がる暗い場所。そんな所に独り置いて行こうとするフョードルさんの体にしがみ付く私の頭に、彼の大きな掌が乗る。と云っても今回は撫でる為ではない。引き離す為である。
「いい加減になさい。此処について来たのだって元は貴女の我儘を訊いた結果でしょう。ぼくは充分に譲歩していますよ」
「ずっと一緒って云ったじゃないですか!」
「例外も存在します。はい、離れる」
「あーっ」
抑々何故そんな警察官の恰好をしているんだ。おかげで掴む場所もなく、簡単に引き剥がされてしまったではないか。少し草臥れた様子で長い黒髪を帽子の中に入れ込んだフョードルさんは、地団駄を踏む私を一瞥すると其の儘路地を出て行ってしまう。残された私は、彼の何時もの衣服を腕に薄紅色のソファに座り込む。
慥かに最近の私は我儘が過ぎるのかもしれない。善い子ですね、と褒められる回数も減ってしまった代わりに、フョードルさんに溜息を吐かれる回数は増え続けている。考えると一気に気落ちした。たった九日間。されど九日間だ。216時間もの長い時間を彼と離れてすごすのは初めての事で、あの時感じた心細さと寂しさは今思い出すだけでも気が狂いそうになる。心なしか視界が潤んできた。今にも零れ落ちそうな涙を指先で拭うと、足音が近づいて来る事に気が付いた。フョードルさんが行ってしまって数分は経った。もう帰ってきて呉れたのだろう。然し、喜び、顔を上げた私の視界に映ったのはフョードルさんではなかった。
「やあ、名前ちゃん。どうせまた忘れているだろうから、まずは自己紹介をしておくね。私は太宰治。武装探偵社の一員で、君の叔母夫婦から捜索の依頼を受けている者だ」
蓬髪に甘い端整な顔立ち。身長は多分フョードルさんと同じくらい。細身の砂色の外套を纏った成人男性。知りもしない相手なのに、太宰治と名乗った男性の声を聞いていると頭の中で何かが霞み、チラつく。ゆっくりとした足取りで近づいて来る太宰から離れる為、ソファから立ち上がると、彼はピタリと歩みを止めた。そして優しい笑みを浮かべて再度私の名前を呼ぶ。
「名前ちゃん、この場からの逃亡はお勧めしない。近くには我が探偵社の凄腕達が居る。若し一歩でも路地から出れば、もう二度と大好きな『フョードルさん』とは会えなくなってしまうよ」
「! フョードルさんの事も知っているの?」
「ああ、知っているとも。非常に不本意だが、或る意味では君よりずっと彼の事を知っているだろうね」
ああ、私多分この人の事が苦手だ。ゴーゴリともまた違う、温和なのに何処か鋭利な雰囲気に、蟀谷に冷や汗が流れるのが判った。心なしか脚が震え出し、これでは逃げ出したくとも満足に走る事も出来ないだろう。
ぐるぐるぐるぐる、と思考を回す。あまり頭が善い方ではないけれど、危機を脱する程度の思考回路は持っている心算だ。其れなのに太宰は、私の思考を読んでいたように動く。あっという間に距離を詰められ、片手で私の両腕を抑え込む。
「安心し給え。先刻は少し脅してしまったが今日君を連れ帰る心算はないよ。少し話をしに来ただけだ」
「……信用、出来ません」
「随分嫌われてしまったね。出来れば私の好感度回復に努めたい所だが、もう時間がない。却説、名前ちゃん……」
「な、なに?」
「私ともイチャイチャしようか」
は? 口に出るより先に太宰は動いた。成人男性にしては可愛らしすぎる口調で爆弾を落とした彼は、私の両腕から零れ落ちたフョードルさんの衣服から露西亜帽を取ると自身の頭に被ってしまう。取り返そうと腕を伸ばすが、身長差は大きく、どれだけ背伸びしても届く事はない。然も、彼は私の伸ばした腕を再度掴むと、路地の影に引きずり込んだ。其の儘、非難の声を上げる私をすっぽりと抱え込んでしまう。
「いっ」
「はい、大声出さないでね」
「んんーっ!!」
正直に白状すると、こうやってフョードルさん以外に抱き締められるのは今回が初めてだった。スキンシップ旺盛なゴーゴリですら、こんな風に抱き込んで来たりはしないし、フョードルさんに忠実なゴンさんは言わずもがな。身長は同じくらいなのに体つきはまるで違う。細身ではあるけれど、しなやかな筋肉のついた体は私の動きを抑制するには充分で、体温も匂いだってフョードルさんとは異なる。口を温かな掌で覆われて、もう片方の手で背中を撫でられる。多分落ち着かせようとしているのだろうけど、逆効果だと知ってほしい。ぐるんぐるん、目が回る感覚がして指先の感覚が冷たくなる。もう限界だった。
「名前ちゃん、確りして。ほら、君の大好きな彼が戻って来たよ」
「!」
遠ざかる意識が、其の言葉で引き戻される。ハッとして顔を上げると、路地裏に戻って来たフョードルさんが地面に落ちた衣服を前に辺りを見渡している所だった。多分、否絶対私を捜して呉れている。直ぐに飛び出して行きたいのに太宰の腕が其れを阻む。すると、フョードルさんは諦めたように釦に指を掛けた。真逆、予感は的中した。手早く脱ぎ捨てた警察服に、私は咄嗟に自由な手で太宰の目を塞ぐ。「男の裸に興味なんて微塵もないのだけど……」心底不服そうな小言が聞こえたが無視だ。仮令興味もなければ、実は嫌悪していたとしても、私が嫌だ。そうしている内にフョードルさんは着替えを終え、外套を羽織った。今度は帽子を捜している。勿論、地面にも、箱の中にもない。帽子の在処は――
「捜し物はこれかい?」
太宰治の頭の上である。私の腕を引き、影から姿を現した太宰は愛想の善い笑みを浮かべて、片手を振った。フョードルさんの冷めた視線が太宰に突き刺さる。その間、私は太宰の腕を振りほどこうと必死になっていた。腕を上下左右に振り、後方に重心を傾ける。然し、この男ビクともしない。私の存在等端からなかったかのようにフョードルさんと難しい会話を続けている。
「おや、名前。何処に行ったのかと思えば太宰君に遊んで貰っていたのですね」
「遊んで、貰って、ません!」
「えー心外だなぁ。名前ちゃん、あんなに私とかたーく抱き合っていたのにー」
「おやおや、そうなのですか? では、名前にボーイフレンドが出来た事ですし今夜はお祝いしましょうか」
「ちがーうっ!!」
なんなんだ。仲が悪いんじゃなかったのか。こんな時だけ何で結託して私を揶揄うんだ。全力で腕を振っているのに軽やかな笑い声を上げる太宰も、前方で両手を合わせて優しく微笑んでいるフョードルさんも何方も非道い。すると、あれだけ強かった拘束が途端に離れた。パッと腕を解放され、地面に尻餅をつく。打ち付けた臀部を摩っていると、太宰はニコリと微笑んで被っていた露西亜帽を取った。
「名前ちゃん、取ってこーい!」
そして、フョードルさんの方向へ向けて宙に放り投げたのである。瞬時に私の中で太宰治と云う人間の認識が変わった。苦手じゃない。私、この人嫌いだ。だって揶揄い方がゴーゴリ以上に非道い。打ち付けた痛み等忘れ全速力で駆け出す。少し驚いた顔をしたフョードルさんの寸前で帽子を受け止めると、両側から拍手の音が鳴った。
「おお、ナイスキャッチ」
「善く出来ましたね名前」
「褒めてもらったのに嬉しくない……!」
特に太宰治。そう付け加える私の手から帽子を受け取ったフョードルさんの背中に隠れ、そっと外套を握りしめる。フョードルさんは、小さく一瞥を呉れるけれど何も云わず太宰と再度向き合った。二人の会話を纏めると、如何やらフョードルさんはポートマフィアと武装探偵社のトップにプシュキンの異能を盛ったらしい。太宰は、其の事を確かめにこの場を訪れ、ついでに私を揶揄った訳なのである。矢張りこの男嫌いだ。握りしめた外套の向こう側を覗き込む。そして私は気づいた。太宰の後方の建物から覗く銃口に。
「きゃっ」
フョードルさんの合図と同時に一発の銃声音が響く。狙撃手の放った弾丸は太宰の腹を貫通し、鮮血が砂色の外套を赤く染め上げた。あまりに突然の事だったから、体の震えが止まらない。つい先程迄話していた男性が地面に伏して、苦し気に息を吐いている。まるで夢でも見ている気分だ。
「急所は外させました。貴方にはマフィアとの衝突を報せる役があますから」
一人、凡てを想定していたフョードルさんは謳うように述べ乍ら私の腕を引き、太宰の横を通り過ぎる。だが、此処で一つ誤算があった。太宰は、血反吐を吐きつつ肘に力を込めて顔を上げる。そして云ったのだ。人の本質について、フョードルさんとは違った持論を述べた。深手を負っているのに其の顔は、何処か晴れやかにも見えて、矢張り私は夢の中に居るのではないかと錯覚する。更に太宰は続けた。フョードルさんが求める『本』についての話だ。
フョードルさんが捜している『本』を私は簡単にしか知らない。フョードルさんは態々多く語ったりしなかったし、ゴーゴリやゴンさん、シグマだって一緒だ。ただ、知っているのは『本』に書かれた内容は凡て本当になる、夢のような物だと云う事、世界中の組織が其れを求めていると云う事、其の二つだけだ。だから、フョードルさんの発言に私は心底驚いた。今まで知りもしなかった自分に幻滅し乍ら、あまりの衝撃に言葉を失くしてしまった。
「罪の――異能者のない世界を創ります」
だってそんな事、初耳だったのだ。何故、私は今迄彼が『本』を求める理由を知ろうとしなかったのだろう。屹度、聞けば直ぐにでも教えて呉れたのに。背後で太宰が倒れ込む気配を感じた。フョードルさんは振り返る事もなく、歩みを進める。市街地の人混みを縫うように歩き乍ら、屋敷を目指す。
「フョードルさん」
彼の腕を私は引いた。丁度人混みを抜けた辺りでの事だった。フョードルさんが振り返り、私に小首を傾げる。「如何しました?」其の問い掛けに震える声で答える。
「異能者のない世界って、其れってフョードルさん達異能力者が居なくなった世界って事なの……?」
縋るような思いだった。どんな返事が欲しかったのかは私自身判らない。けれど、安心させてほしかった。フョードルさんは、消えたりしないってそう云ってほしかった。其れなのに彼は、ただ静かに微笑むばかりで何も云わない。肯定も否定もせずに、また私に背中を向ける。其れがあまりにもつらくって私は唇を噛み締めた。血の味がする。痛い。でも、泣くよりマシな筈だ。これ以上我儘ばかり云って嫌われたくはない。
フョードルさんの冷たい手は私の腕を掴んだまま離れない。けれど、何時か太宰のようにパッと離してしまうのではないかと、一抹の不安を覚えた。