両親が死んだ。しかも私の目の前で、だ。銃声と硝煙、怒号。母は私の腕を掴んで必死に走り、その後ろを父が追っていた。母の腕が離れたのは一瞬の事だった。私に指の形が残るくらいの強い力だったのに呆気なく指先は解けてしまった。脚が縺れ、転倒する。耳を劈く様な悲鳴が上がって、それから静寂が訪れる。擦りむいた額を押さえれば、ぬるっとした血が指先に付着していた。
両親は車の下敷きになっていた。大型のダンブカー。父は母を庇ったのだろう。そして母は咄嗟に私を突き飛ばしたのだ。折り重なるようにして倒れる両親を見てそう悟る。
何故こんな事になってしまったんだ。私や両親が何をしたと云うのだ。髪を振り乱し叫んでしまいたい。其れでも出来なかったのは、家を飛び出す直前の両親の言葉を思い出したからだ。
いいね、名前。これから大声を出してはいけない。何があろうと全力で走りなさい。
ふらつく脚で私は駆けだした。目蓋は熱くて涙が視界を塞ぐ。何故走らなければならないのか、一体何に追われているのか。判らないまま裏道を走り続ける内に空は白く明け始めていた。限界だった。追手は来ない。それに安堵して細い路地で壁に凭れ掛かるように膝をつく。意識はすぐに途絶えた。
パチ。そんな効果音が付きそうな目覚めだった。痛む頭を押さえながら起き上がると、私が眠っていたのがソファの上だと気が付く。肩まで掛けてあった外套には見覚えがあって、薄暗い室内にボンヤリと浮かぶ白い姿に此処は現実なのだと気が付く。
「……六年前の夢を見た」
「当時の事はぼくも覚えていますよ。寝巻姿で倒れる少女を見つけた時は流石にぼくも驚きましたから」
おはようなんて挨拶はいらない。賢すぎる彼は、私が目覚めている事も、何なら夢の内容まで把握しているのだ。椅子を回して彼が振り返る。背後のパソコンから漏れ出る明かりに線の細い男の顔が照らされた。
あの日もそうだった。目が覚めた私がまず目にしたのは、彼の綺麗な顔だった。倒れこんだ私を見下ろす彼は、全てを見下ろす神様のような顔をして傷ついた私の額を撫でたのだ。
「顔色が悪い。もう少し眠っていなさい」
「……フョードルさん、たまにお母さんみたいって思う」
「おや、とうとう人の性別が判断出来なくなるとは余程重症のようだ」
言葉とは裏腹に額に触れる彼の手はとても冷たくて、ボンヤリとする私の意識を覚ますようだった。呆れた顔をして差し出した外套を受け取った彼は「詰めてもらえます? ぼくも少し休憩します」と私の横を示した。言われるまま一人分のスペースを空ける。フョードルさんは男性にしては細いから、こんな狭いソファでも横に座る事が出来た。とは言っても肩は触れるし何なら膝や腕だって当たっているのだけれど。
「重いです」
「失礼な。頭乗せてるだけじゃないですか」
「ぼくはこの通り虚弱体質なのです。六年前ならまだしも成人間近の貴女を抱える腕力はありませんよ」
肩や膝、腕が当たったって嫌じゃないしむしろ落ち着く。何ならこうして膝に頭を乗せるのだって抵抗はない。脚は床に下ろしたまま、腕を伸ばして倒れ込んだ私を見下ろす彼の目は冷たいけれど拒絶の色はない。それが嬉しくて思わず額をぐりぐりと押し付ければ痛かったのか軽く耳朶を抓まれた。私を叱る時、いつも彼はこうする。その対応に優しすぎると云う人もいるが、ガタガタした爪が喰い込んでこれが結構痛いのだ。
「甘やかして育てたぼくが悪いのでしょうか」
「甘やかされた覚えはな、嘘ですごめんなさいフョードルさんはとっても優しいです」
「とても元気なご様子で。もう膝を貸す必要もありませんね」
「あー駄目駄目! まだ頭痛いです! 動けません!」
「判りました。判りましたから暴れないで下さい。ぼくまで頭が痛くなりそうだ」
吐かれた溜息はやけに大きく、芝居掛かって聞こえた。次いで骨ばった指先が私の黒髪を撫でる。膝に乗った猫の背を撫でるような柔らかい手つきに自然と頬が緩んだ。
六年、私がフョードルさんに拾われて六年が経過した。あの日倒れた私の額を撫でた彼は静かに告げた。可哀想に独りぼっちになってしまったのですね。優しく憐れむ言葉とは裏腹に美しい顔に浮かぶのは明らかな嘲笑だった。器用な人だなあ。ぼんやりとそう思った私に、彼はもう何も云わなかった。代わりに、まだ幼かった私の体を抱き上げて汚れた私の背をゆっくりとした速度で数度叩いた。
『此の血濡れの大地を一人走るのは嘸かし恐ろしかったでしょう。よく我慢しましたね』
両親に云われた言葉は、もはや何の効力も持たなかった。この一晩で溜め込んでいたものが一気に込み上げて私の喉を震わせた。わあわあぎゃあぎゃあ。彼の歩く速度に合わせるように全部全部吐き出して、気が付けば知らないベッドの上にいた。今思えばあの時、意識を失ったのは彼の差し出したハンカチのせいだったように思う。日本から離れた遠い露西亜の地に混乱し泣いている幼子を連れて行くのは手間だったに違いない。
「……お父さんとお母さん」
「はい?」
「二人の遺体はどうなったんでしょう」
優しく髪を撫でていた指先がピタリと止まる。両親が見せてくれた桜並木の道、広い庭に咲いた紫陽花の色、母が作ってくれたお菓子の味。過去の事を思い返す内に脳裏には故郷の光景が浮かんでいた。そして最後には、あの血濡れた地面も。
「名前」
夢見心地だった意識がハッと目覚める。重い声だった。怒りは感じない。淡々としているわけでもない。何時も通の声色だったのに、一瞬にして空気が重くなったのが判った。止まった指先が私の耳朶に触れる。
「貴女は約束を守れる善い子です。この六年間でぼくは其れをようく知っている。忘れてしまいなさい、そんな記憶は。貴女にはぼくがいます。そうでしょう?」
ぼくも約束はちゃんと守りますよ。囁かれた言葉が触れられた耳朶を通り、鼓膜を震わせる。何度も彼の言葉が頭の中で響き、次第に指先から力が抜けていくのが判った。ぼんやりと意識が遠くなり、私は最後の力を振り絞って彼の細い腰にしがみつく。
ああ、駄目だ。もっと色々話したい事があるのにもう目蓋が重くて開けていられない。あれ、抑々私何を話していたんだっけ。
「おやすみなさい、名前」
翌朝、目が覚めると私は自室ではなくフョードルさんの部屋のベッドで眠っていた。珍しく早起きしたらしき彼は、寝惚け眼を擦る私に淡く微笑んで読んでいた本に栞を挟む。
「おはよう名前、よく眠れましたか」
先程まで本の頁を捲っていた指先が、今度は私の髪と耳朶を撫でる。気持ちが善い。もっともっと甘やかしてほしい。そんな私の欲求を彼は理解している。指先に擦り寄って、其の儘抱き着いた私の背を優しく叩いて、彼は細い体を屈めた。長い黒髪が頬を擽り、至近距離に迫った宝石のような紫の瞳が弧を描く。
「貴女は本当に善い子です」