「1/f」 | ナノ


教育の勧め


 いない。
 目覚めて直ぐ捜した人の姿はなく、空間に私は独り残されていた。誰も居ない。私に膝枕をして呉れていたフョードルさんも、太宰も、澁澤も、誰一人として此処には居ない。シンと静まり返った空間は、神秘的とも云える異様な雰囲気に包まれていて、肌寒さを感じて肩を抱いた。
 空間に私の靴音だけが響く。円卓の傍に寄れば、先程寝付く迄はあった筈の骸骨とナイフが一本なくなっていた。塗料の塗られた其れを思い出し乍ら周囲を見渡すと、この空間より更に奥がある事に気が付いた。

 赤く光り輝くサーカスの天幕のような物体は、この塔以上に異様に思えた。周囲を歩いてみるが中は見えない。けれど、此処に三人は居る気がした。蜷局を巻いた龍があしらわれた重厚な扉に鍵は掛かっていなかった。そっと手を添える。然し、私が力を込める必要はなかった。扉は勝手に開いた。否、中から開かれたのだ。

「――!」

 扉の前に立っていた私に向かって白い髪が倒れ込んで来る。赤い血液を花弁のように撒き散らして、大きく目を開いたまま、事切れた体が私を押し潰す。
 澁澤だった。彫刻品のような美しい顔に驚愕の色を乗せて、彼は開いたままの唇で何かを呟くように天を仰いでいる。其の遺体を抱いた状態で座り込んだ私は、あまりの衝撃に言葉さえ出て来ない。何故、なに。私が寝ている間に何が起こったの。恐る恐ると視線を上げる。扉の先にはフョードルさんが居た。片手に血の滴る果物ナイフを持って、澁澤を抱えた私を見下ろしている。

「名前、彼を降ろしなさい」

 私は、遺体に慣れている。フョードルさんの傍に居ると云う事は、裏社会に籍を置く事になるからだ。彼の足元には、幾つもの遺体が転がっていて、私は何時しか其れを平常心で見下ろせるまでになっていた。なってしまっていた。其れなのに、今、私は非道く動揺している。澁澤の遺体と、部屋の中にうつ伏せに倒れる太宰に、体が震えてしまっている。
 私の服には、澁澤の血液がべったりと付着していた。澁澤を横に倒し、震える脚でフョードルさんの傍に寄る。彼は、一瞥を呉れるけれど何も云わない。安心させるように手を伸ばして髪を撫でても呉れない。中央の台座の前に立ち、骸骨を掲げ持つ姿は、凡てを掌握する神様のように見えた。

 超人的頭脳の持ち主であるフョードルさんの言葉は難しい。私に判った事は、澁澤が既に死んでいた事。先程まで其処にいた澁澤は、異能体であった事。たった其れだけだ。何故、どうして、こうなったのか。私が知りたい事は、何も教えては呉れない。
 空間に無数の赤い螺旋が走り始める。宙に浮いた球体がどんどん膨れ上がり、部屋の中身凡てを吸収する。同時に太宰の体が浮いた。球体に吸い込まれて行く彼は、血塗れで目を開ける事はない。

「却説、名前」

 太宰が球体の中に消えるのを見届けた後、フョードルさんは漸く私に声を掛けた。この異様な空間に似つかわしくない、甘い、甘い声色だった。屹度猫撫で声、と云うのが正しいのだろう。対して私は、声も出ない。一定の距離を保ったまま、揺れる視界で足元を見ていた。プシュキンの異能にやられた時にも似た気持ち悪さだ。グラグラして、立っている事さえ難しい。
 ブーツのヒールが音を鳴らす。私は一歩、後ろに下がった。無意識の事だった。けれど、其れに一番驚いたのは私ではなかったらしい。小さく息の詰まる音がして、私は思わず視線を上げた。そして後悔した。

「……ぁ」

 フョードルさんの表情は非道く冷め切っていた。露西亜の氷のように、冴え渡った紫水晶の瞳が私を見据えていた。先程の態とらしい程の甘さ等もう何処にもない。
 私は判ってしまった。彼は、今私を庇護する対象として見ていない。云うなれば異物。この空間に相応しくない『物』として私を軽蔑しているのだと。足元が崩れ落ちる感覚がして、私は血濡れの床に座り込む。フョードルさんは、速足に私の前に立つと、手袋に包まれた細い指先で、私の頤を上げた。

「ぼくが恐ろしいですか?」

 恐ろしい、そうだ。正にその通り。私は、今までになく彼の事を恐れている。

「小鴨の刷り込みの事は貴女もご存知でしょう? 孵化した雛鳥は、初めて見た存在を自分の親だと思い込み、その後を追うようになる。けれど、実際は必ずしもそうとは限らないそうです。別の親代わりを提示すれば、案外其方に追随するようで……これを『覚え直し』と云うのですけどね」

 偶に、フョードルさんの事を怖いと思う時があった。何時だって彼は、私に甘くて優しいけれど、ふとした拍子に恐怖心を抱くのだ。今は、其れに似ている。違うのは、体の震えが止まらない事、そして――彼の事を大好きだと思えない事だ。

「『覚え直し』なんて名前には必要ない。貴女は、ずっと、死ぬ迄ぼくの後を追っていればいい」

 歯が上手く噛み合わず、ガチガチと音を立てて不快だった。私でさえ、そうなのだから気の立っている彼からすればもっと不快だろう。口の中に突っ込まれた指が私の舌を掴み、口を閉じられなくさせる。嫌な予感が体中を駆け巡り、ひゅっ、と息を吸い込んだ。フョードルさんが嗤う。美しく微笑んで吐息が掛かる程の距離に顔を近づけて、砂糖水のように甘い声色で私を呼んだ。

「可愛い可愛い、ぼくのお莫迦な名前。さあ、善い子はもう寝る時間ですよ。おやすみなさい」

 そう云って彼は、私の眉間にキスをした。神様のようだった。




 体が揺れている感覚がしていた。揺り籠で寝ている時こんな感覚がしていたのかもしれない。ああ、でももう二十年近くの前の事だから記憶なんてないのだけれど。
 頭上から優しい声がした。お母さんのように愛情の籠った声色で私の名前を呼んでいた。けれど私は、目を開けたくない。此の侭、暖かさに身を寄せて眠っていたい。すると若干の衝撃を感じて、揺蕩う意識がほんの少しだけ浮上する。多分、其の人が椅子に座ったのだと思う。身動ぎして熱源に身を寄せた私の耳にそっと冷たいものが触れる。

「いい加減起きなさい」
「いっっっ」

 冷たいものは指で、私の耳朶を引っ張っていた。文字通り飛び起きた私の頭上で、其の人が呆れたように苦笑を溢す。真っ白な見覚えのない服を着たフョードルさんは、私を膝に抱えた状態で、見覚えのあるソファに腰掛けていた。辺りを見渡せば、此処が屋敷のリビングだと気が付く。少しの違和感を覚えたけれど、置かれた家具も匂いも凡て日本で過ごしている建物に他ならなかった。

「なーんだ」

 口から飛び出た安堵の言葉に内心驚き乍ら、私は再度フョードルさん薄い体に身を預ける。肩口に顔を埋めて其の儘もう一度惰眠を貪ろうとしていた。けれど、そんな甘えを彼は赦しては呉れないらしい。

「こら、寝てはいけません」
「いったいです、痛いです!」
「当たり前です。起きるようにしているのですから」

 私の目が完全に覚めた事を確認して指先は離れた。其れでも私は、彼の膝の上からは退けなかった。何となく、理由は判らなかったけれど離れ難かったのだ。フョードルさんも起きろとは云ったけれど、退けろとは云わないから此の侭居てもいいのだろう。
 冷たいのか熱いのかよく判らない耳朶を片手で押さえて唸り声を上げる。これを甘いと云ったのは慥かゴーゴリだったか。奴は、フョードルさんの指先が癖で荒れている事を判ってい乍ら加味していないのだ。一度同じ目に合ってみればいいのに、と考えて矢張り嫌だと思ったので、早々に想像を掻き消した。

「フョードルさん、その白い服持ってましたっけ?」
「これは人に頂いたのですよ。まあ、もう着る事もないでしょうけど」
「えー勿体ない。似合ってますよ」
「そうですか? でも落ち着かないので処分します。それに」
「それに?」
「少し嫌な記憶も出来てしまったので」

 彼の云う嫌な記憶が気にはなかったが、屹度訊いても答えては呉れない。浮かんだ笑みが暗にそう伝えていた。無言のまま、じっと其の顔を眺めていると、彼はふっと微笑して片手で私の唇を撫でる。感触で気が付いた。片手は素手なのに、此方の手は黒い手袋で覆われている。片方、失くしてしまったのだろうか。

「なに?」
「ねえ、名前。貴女はぼくの事が嫌いですか?」
「はあ!?」

 あまりにも唐突にそんな事を云われてしまったものだから、声量を調整する事を忘れた。多分鼓膜が痛んでいるのだろう。フョードルさんは顔を歪めて小さく「五月蠅い」と呟く。慌てて両手で口を押えた私は、視線をウロウロと彷徨わせ乍ら、なんとか動揺する心を落ち着かせようとしていた。嫌い? なんで、そんな事を云うのか。寝ている間に私は何かしてしまったのだろうか。若しかして嫌な記憶って其の事? 想像は大きく膨らみ、全身から血の気が引いた。今の私はフョードルさん並みに青白くなっているに違いない。震える指先で白いケープを掴む。私の大して優秀でもない頭脳では、最適解は求められないけれど、云わなければならない言葉だけは判る。

「ごめ、なさ……お願いだから嫌いにならないで、下さい……!」
「え?」
「え?」
「何故ぼくが名前を嫌いになるのです?」
「え? だって私、何かしたんでしょう?」
「ええ、まあ」
「ほらー!」
「先程から五月蠅い。少し落ち着きなさい。ほら、ぼくの目を見て」

 フョードルさんは、掴んだケープを前後に揺すり乍ら喚く私の頬を両手で押さえる。真正面から両目を見据えられた私は、蛇に睨まれた蛙のように縮こまった。

「本当にお莫迦さんですね。訊いたのはぼくなのに何故貴女が不安になるのです」
「だ、だって私……」
「ああ、ほら泣かないで。誰も貴女に意地悪なんてしていないでしょう。ね?」
「先刻の言葉自体が意地悪です」
「其れは盲点でした。傷つけたのなら謝りましょう。ごめんなさい、名前。でもね、貴女が何時もぼくからの愛情を欲しがるように、ぼくも偶には貴女からの愛情を受け取りたい時もあるのです。特に今日は疲れてしまったので、貴女の言葉で癒してほしい」
「……じゃあ、嫌いじゃない?」
「ええ。大好きですよ。変わらず愛しています。貴女は?」

 心臓はまだバクバクと音を立てている。動揺は隠し切れそうになく、ケープから指を離すと両手を彼の首に回した。身を寄せてぎゅっとしがみ付く。慣れているフョードルさんの香りに混ざって微かに血の匂いがした。とても濃い匂いだ。少しだけ具合が悪くなる。

「好きです。大好き。ずっと一緒に居たいです」
「侍従長やプシュキンよりも?」
「ゴンさんは好きだけど、プシュキンは意地悪するから苦手。フョードルさんの方が好き」
「ゴーゴリさんやシグマさんは?」
「ゴーゴリは揶揄ってくるもの。嫌いじゃないけど……シグマは好き。友達になりたい。でもフョードルさんが一番好き」
「ふふ、そうですか。嬉しいです」

 フョードルさんの両腕が背中に回ってぎゅっと抱き締められる。お互いぎゅうぎゅうに締め付け合って、少しだけ呼吸が苦しい。血の匂いが濃くなったせいだ。でも矢張り離れ難くて、彼の首筋に擦り寄った。今度は背伸びをして頬をくっつけ合う。冷たくて気持ちがいい。

「シグマさんに今度会ったら、友達になって下さいと云ってご覧なさい。屹度彼も喜びます」
「本当? 嫌だって云われない?」
「云われませんよ。でもそうですね……若し万が一、拒否されたらちゃんとぼくが慰めてあげますから、其の時は今のようにしがみ付けばいい」
「うん」

 首を縦に振ると、フョードルさんは私を抱き締めたまま立ち上がった。長身痩躯なのに意外と力があるから、こんな時この人は男性だったなと実感する。首にしがみ付かせたまま、部屋を出ようとする彼に「何処に行くの?」と問いかける。すると「寝室ですよ」と答えが返って来る。

「今日は一緒に寝ましょうね。でないと悪夢を見ますよ」
「ええ、どんな夢?」
「そうですねぇ……お化けが可愛い貴女を誘拐しに来るかもしれません。別の世界に連れて行かれてもう二度と会えないかも」
「え、いやだ!」
「ふふ、でしょう? だから早く寝ないとね」

 眠らないと駄々を捏ねる子供に云い聞かせるお母さんみたいな言葉に笑っている内に、段々と気分が楽になるのが判った。あれだけ濃かった血の匂いも今はしない。薄暗くてひんやりとした廊下の空気が肺の中の淀んだ其れを洗い流して呉れたのだろう。
 外は明るくて、とても寝るような時間帯じゃない。でもベッドに寝そべると、直ぐに睡魔はやって来る。隣にフョードルさんが居て、優しく背中を叩いてくれているから尚更だ。

「善い子ですね、名前。こうしてぼくに甘える貴女は本当に可愛らしい」
「……うん」
「安心して眠りなさい。ずっと傍にいますから」

 おやすみ、名前。

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