「1/f」 | ナノ


其処にはないよ


 ヨコハマ租界――嘗て大きな爆発が起こり、其の跡地に出来た街、其れが擂鉢街である。

 フョードルさんの後を追っている内に私は、ヨコハマ租界の傍に到着していた。然し、同時にフョードルさんが消えてしまった。角を曲がる迄は居たのだ。彼に遅れて建物を曲がった先、其処から忽然と姿を消してしまったのである。まるで、この霧に消えてしまったかのように。
 一気に全身から血の気が引いた。代わりに、引いたと思っていた涙が溢れ出し、私は挙動不審に辺りを見渡し、彼の名前を叫ぶ。けれど答えて呉れる人は居ない。声が裏返った。喉に焼けるような痛みが走って、背中を丸めて咳込む。すると、私が通って来た道の方角から複数の足音が響いて来た。若しかしたら、淡い期待に顔を上げ、直ぐに後悔をする。駆けて来たのは、少年が二人だった。白と黒、対局のような二人の内一人が私に気づき何かを叫ぶ。

「っ、来て!!」

 傍に来て気が付いた。白い少年は、ヨコハマの街で出会った中島敦であった。彼も私が誰であるか、気が付いたのだろう。一瞬目を見開いた後、力強く私の腕を引く。黒衣の青年が中華料理店の扉を開き、厨房の奥へ走り込む。そして包丁を振り上げ、壁へ突き刺すと、大人が数人入れる程の大きさの昇降機が現れた。中島敦は、私を箱の中へ押し込み、ついで飛び込んで来た少女の名を叫ぶ。昇降機の扉が閉まる瞬間、見えた白い異形は、何だったのだろう。

「名前さん、ですよね」
「……そっちは中島敦、だよね」
「はい。何故此処に?」
「家の、大切な人が居なくなって……追いかけてたら、いつの間にか」
「そう、ですか」

 中島敦とは、ヨコハマの港で出会った。私の叔母夫婦から依頼を受けた探偵社員で、私を彼らに会わせる為に奔走していた少年だったと思う。慥か、そう。記憶が曖昧であまり詳しくは思い出せないけれど、彼と会ったという事だけは慥かな筈だ。
 中島敦は、何か云いたそうに視線を彷徨わせると黒衣の青年――芥川と云うらしい、と鏡花と呼ばれた少女との会話を始める。私は独り、何処へ向かうかも判らない昇降機の壁に沿って座り込んだ。霧の正体、龍の吐息、様々な言葉が頭上を飛び交う。彼らも擂鉢街の中心地を目指しているのだろうと会話から察せた。すると、中島敦が突然叫ぶ。

「……太宰さんを殺させたりしない!」

 太宰、其の名に覚えはない筈なのに頭の中に知らない男のシルエットが浮かんだ。思い出そうとしても霧が掛ったように其の顔や声は思い出せなかった。
 モヤモヤとして気分が悪い。耳を塞いで体を縮ませていると昇降機が止まった。まだ下はあるのに、芥川と呼ばれた青年は此処で降りるらしい。数回の応酬。その後、黒髪の可憐な少女が箱を降りた。残された中島敦は、隅で座り込む私に揺れる視線を向けた。声のないまま唇を動かして、声を掛ける。感情を押さえているのだろう。声は震えていた。

「君も一緒に行かない?」
「……遠慮します」

 多分、擂鉢街の中心地に建つあの塔により近づく為には、この昇降機に乗っていた方が善い。首を横に振った私に、彼は小さく会釈をすると二人の後を追って通路に消えて行く。昇降機の扉は直ぐに閉まり、機械音を立てて、また下降を始めた。
 チン、音を立てて開いた先は深い闇の広がる一本道であった。灯りもない道を覚束ない足取りで独り歩む。座り込んでいた御蔭か、少しは体力が回復していた。十分。其れ位が経ったように思える。道は突然止まり、広いホールに出た。中央に大きな螺旋階段がある、青白く輝く神秘的な場所だ。窓の外を見た。建物の外は、擂鉢街が広がっていた。雰囲気がまるで違う高層建築物、屹度これが屋敷のパソコンで見た塔に違いない。

「名前」

 螺旋階段の上から聞こえた声を私が間違う筈がない。中華料理店の傍で消えたフョードルさんが上階から私を見下ろし、手招きをしていた。云いたい事は山ほどある。けれど、先ずは追いつかなくてはならない。私は手摺に指を掛けて階段を駆け上がった。
 階段は非道く長かった。どれだけ急いでもフョードルさんには矢張り追いつけない。ぐるぐると登り続け、脚が棒になった頃、また広い空間に辿り着いた。此処が最上階のようだった。大きな扉がある。フョードルさんは、にっこりと笑って扉を指差した。開けろ、と云っているようだった。
 扉の片側に手を置いて力を込める。蝶番の音が響いて、ゆっくりと空間の入り口が開かれた。其処は大きな広間になっていた。折れた柱が散乱した先に、円卓がある。其処に座るのは三人。真っ直ぐ直線状に全身が真っ白な男性、左側に蓬髪の男性、そして右側に――

「フョードルさん……」

 見た事のない白い服を着た彼は、フョードルさんで間違いない筈だ。けれど可笑しいのは、今扉を開けるよう指示をした彼と服装が違うという点だ。振り返る。然し、其処にフョードルさんは居ない。円卓に座った彼が居るだけだ。
 私の震える声に三人が一斉に振り返った。白い彫刻品のように美しい男性が詰まらないと云うように一つ瞬きをして、蓬髪の男性が秀麗な顔に驚愕の色を乗せる。フョードルさんは、艶やかな黒髪を揺らして少しだけ驚いた表情をした後に、薄い唇に弧を描いた。そして呼ぶのだ。「名前」と優しく私の名前を。

「よく此処へ辿り着きましたね。大変だったでしょうに」
「フョードルさん」

 光に吸い寄せられる虫の如く、私はふらふらと歩みを進める。三段程の階段を登り、円卓の前に立つ。フョードルさんが、受け入れるように両手を広げた。けれど私は、其処へ行けない。脚が震えて、動けない為だった。フョードルさんが小首を傾げる。

「どうしました?」
「だってフョードルさん、触れちゃいけないって」
「え? ああ、成程……」

 フョードルさんは、開いていた両手を一度合わせて頷く。彼は、申し訳なさそうに眉を下げて立ったままの私を見上げた。紫水晶の瞳が青白い光に照らされ、妖しく揺れる。

「名前、もう善いのです。疲れたでしょう。よく顔を見せて下さい」
「でも、フョードルさん私を置いていったじゃない」
「そうですね。ごめんなさい、名前。貴女はよく眠っていたから、ぼくが戻る迄起きないと思っていたのです。ですが予想は外れてしまったようですね……目が覚めた時、ぼくが居なくて嘸かし不安だったでしょう。本当に申し訳なく思っています」

 フョードルさんの白い手は、今手袋の中に隠されていた。手袋越しに私の指先を握る。触れている筈なのに、彼の冷たい温度を感じる事が出来ない。其れが非道くもどかしい。
 彼は、もう一度私の名前を呼んだ。上目遣いに、長い睫毛を震わせ乍ら、触れた指先を弱々しい力で引く。

「いらっしゃい」

 じわり、と目蓋が熱くなって、次いで喉が震える。声にならない言葉を発して、私は導かれるまま倒れ込むように彼の体へしがみ付いた。椅子に腰かけた状態の彼は、私の背中と後頭部に手を添えて優しく撫でる。すみませんでした、もう大丈夫ですよ。何度も同じ言葉を繰り返し、ふと私を抱く腕に力を込めた。少し苦しくて、けれど嬉しくて。私もしがみ付く力を強めると正面から声がした。多分、蓬髪の男性だ。

「見せ付けて呉れるねぇ……魔人のラブシーンなんて見たくもないってのに」
「おや、嫉妬ですか? ぼく達は何時もこうですよ」
「あっそ。聞きたくもない情報をどうも」

 クスクス笑うフョードルさんと、冷たい男性の声が交互に鼓膜を震わせる。すると黙っていた白髪の男性が、フョードルさんを呼んだ。

「この霧の中、此処に辿り着いたという事は、彼女は」
「ええ。貴方の想像通りです。善い子でしょう? ぼくが恋しくて必死になって追いかけて来た。とても健気な可愛い子です」

 大方私の機嫌を取る為だろうが、先程から言葉の一つ一つが何時も以上に妙に恥ずかしい。最早、顔を上げる事も出来なくてズルズルと床に座り込んだまま、フョードルさんの腰に腕を回した状態で其の膝に顔を埋める。するとカツン、と靴音がして私の横に何方かが跪いた。視界の端に、私に程近い肌の色が見える。蓬髪の男性は、大きな温かい手で私の頬に掛かる髪を撫で上げる。あまりに突然の接触に、避ける事も心の準備も出来ていなかった私は、思わず彼の顔をまじまじと見つめた。甘い、端正な顔立ちの青年だ。柔らかい微笑みは、フョードルさんのものと色がまるで違う。そして彼は、囁くように呟く。「久しぶりだね、名前ちゃん」親しみを込めて、私の名前を呼んだ。

「だれ?」

 反射的にそう返すと男性の表情が強張り、私からフョードルさんへと視線が移る。釣られて私も頭上のフョードルさんを見上げた。彼は、薄っすらとした笑みを乗せたまま男性を「太宰君」と呼んだ。太宰、そうだ。中島敦が会話の中で出した名前だ。あの時浮かんだシルエットが目の前の蓬髪の男性とピタリと重なった。だからと云って、何処で会ったのか、其の時の会話等は全く思い出せない。霧が掛ったように、また意識がボンヤリとする。

「随分と悪趣味じゃないか……」
「そう怖い顔をしないで下さい。名前が怯えてしまいます」

 太宰の低い囁きに返答をしたフョードルさんは、少し身を屈めて私の頭を大切そうに抱えた。手袋の感触が頬を、耳朶を滑り、最後には髪を撫でる。

「おやおや、もう限界ですね。澁澤さん、ソファはあります? どうやら名前は眠いようでして」
「彼方を使い給え」
「ありがとうございます。さあ、名前。立ちなさい。床で寝てはいけませんよ」

 広間の隅に置かれたアンティーク調の長椅子に腰掛けると、フョードルさんも横に座る。そっと彼の片手が私の側頭部を押して、促されるまま膝に頭を置いた。既に目蓋は、半分程しか開いていなかった。ぼやける視界に、円卓に座ったままの澁澤と呼ばれた白い男性と、太宰の姿が見える。太宰は、非道く冷めた目で私達を睥睨していた。けれど、私が怯える必要はない。だって、今私の傍にはフョードルさんが居て呉れる。私の不安を取り除いで呉れると約束をしたのだから、屹度今回だって同じだ。
 黒い手袋が、私の目蓋に蓋をした。耳元で、子供を寝かしつけるお母さんのような優しい声がする。「おやすみ、名前」意識はぷつり、と途切れた。




 すっかり眠りに落ちた名前の頭を撫で乍ら、ドストエフスキーは「却説」と呟いて前方を見据えた。円卓に腰掛けたもう二人の異星人は、片方は興味なく、もう片方は冷めた表情を浮かべ、一様に此方を観察している。けれどドストエフスキーが其れに委縮する事は決してない。なだらかな笑みさえ浮かべ、彼は片手を肩程の高さに上げてみせた。質問があるのならどうぞ。そんな囁きと共に。

「随分と大切にしているのだね」

 まず、問いを投げたのは澁澤龍彦だ。促されたから取り敢えず、本心はまるで興味がないのだ。この娘は、彼の退屈を紛らわせる輝きには成り得ない。組んだ指の中心に顎を乗せて、赤色の瞳を物憂げに揺らす。ドストエフスキーは、にっこりと微笑んで問いに答えた。始めから用意していた通りに、一言一句違わず云ってのけた。

「ええ、とても。この子はぼくの宝です」
「ふうん……名前ちゃん、そろそろ二十歳、だよね。其れにしては、随分と」

 澁澤の問いを引き継ぐように太宰治が睥睨する。矢張り、ドストエフスキーは笑みを崩さない。此方にも用意していた返答を述べる。

「ぼくが拾って未だ六年ですから」

 太宰の柳眉が不快気に顰められた。だからドストエフスキーも貼り付けていた笑みを消す。無表情。お互い、同じ顔をして互いを見る。観察をする。認めたくはないが、似た者同士な二人だ。考えている事は手に取るように判る。
 先に視線を外したのは、太宰の方だった。諦めた、と云うよりも呆れかえったと云う方が正しい。ドストエフスキーの青白い顔から、円卓上の林檎へ視線を移した太宰は、刺さっていたナイフを手に取り、弄ぶ。

「彼女を救う勇者や正直者は、一生現れないとでも思っているのかい?」
「愚問ですね。抑々この子が望んでもいないのにどうやって連れて来ると云うのです」
「悪趣味め」
「御褒めに預かり光栄です」

 太宰は、弄んでいたナイフを、もう一度林檎へ突き刺した。林檎の腐臭が甘ったるく周囲に広がる。微かに鼻孔を擽る、其の香りにドストエフスキーは光悦の表情を浮かべて、細い指先で名前の頤を撫でた。
 先ずは、余興だ。澁澤に促され、名前の頭を大切にソファに置く。広間の奥、サーカスの天幕のような、異様な物体。蒐集家のコレクションルーム――ドラコニア。棚に所狭しと並べられた異能結晶体を見渡し、空いた空間に彼はうっそりと嗤った。

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