最近のフョードルさんは、地下に篭ったまま余り地上に出て来ない。鼠の住処は地下なのだから、と云えばまあその通りなのだが、この広い屋敷で独りぼっちと云うのは中々に寂しいものがある。暇を殺す為に毎日磨き上げた柱はピカピカに輝いているのに、其れをフョードルさんに褒めて貰えないのでは何の意味もない。
ヨコハマの街は今、危険なのだと云う。危ないからぼくが善いと云う迄、外に出てはいけませんよ、とフョードルさんは云った。私は迷う事もなく頷いた。彼の云い付けを破る度胸は無かったし、何より外に行く理由もない為だった。何処から取り寄せたのか、数日分の物資の詰まった倉庫は、未だ隙間も見当たらず充実したまま其の形を保っていたのだ。然し、だからと云ってこうも放置されると悲しい。一度地下室へ行ってみようかと思い立ったものの、扉を開けようとした所で怖気付いて止めてしまった。何となく、今は私が立ち入っていい雰囲気ではないと肌で感じた為だった。
「今日も美味しかったですよ。名前、ありがとう」
容姿の与える印象通り小食なフョードルさんは、最低限の量しか乗っていないお皿を空にして微笑みを残しダイニングを後にしてしまう。
褒めて貰ったのにあまり嬉しくないのは、今日の料理が上手く作れなかったからだ。口に運んだスープは少しだけ味が薄い。フョードルさんと話す機会が減った。一緒に食事を取るのだって、今日が久しぶりの事だったのに、彼は会話をする事もなく、現在私の向かい側の席は空である。
「寂しい」
寂しいと云えば抱き締めて呉れると云ったのは彼本人だったのに。拗ねて子供染みた独り言は大きく響いてしじまに消えた。
ああ、こんな事なら兎の縫いぐるみを持って来たらよかっただろうか。なんて、随分子供還りしてしまったものだと自嘲してしまう。辺りは木々に囲まれて、薄暗い寝室は何処か異空間のようで心細くなる。せめてベッドがもう少し小さければこんな思いをせずに済んだのだろうか。頭まで毛布を被って身を縮ませ、ジッと朝が来るのを待つ。どんなに不安でも、寂しくとも、シンと静まり返った空間と暖かな寝具があれば睡魔は訪れる。次第に遠のく意識に任せて、全身から力を抜いた。
すると、私は夢を見た。目の前には眠っている私が居る。体から意識が切り離されたような状態は、明晰夢にも似ている。とは云え、体や夢の内容を自分で操作する事も出来ず、私はただ呆然と目の前の光景を眺める事しか出来ずにいる。
私、意外と寝相善いんだな。よかった。共寝して貰う時、フョードルさんに迷惑掛けてるんじゃないかって少し不安だったのだ。呑気な事を考えていると、窓辺に誰か別の人物が居る事に気がついた。月明かりに照らされて顔が判る。フョードルさんだった。寂しさのあまり、夢に見てしまったらしい。納得していた私は、次の瞬間飛び上がる事となる。フョードルさんの横には、もう一人、別の人物が立っている――私だった。
可笑しな状況だ。今、この場には私が三人居る。寝ている私は相変わらず目を覚ます様子もないし、私は脚も声も出せない。三人目、フョードルさんの隣に立っている私は、にこにこと嬉しそうに笑って彼の腕にしがみ付いている。羨ましくて少し歯噛みした。フョードルさんは、三人目の私を連れて眠っている私に近づくと、そっと腕を離した。にこにこ笑ったまま、私が私に更に近寄る。そして、呼吸をするように、自然に溶けて消えた。
「ひっ」
文字通り私は飛び起きた。夢の内容は鮮明に覚えていて、あの光景を思い出すだけで軽く吐き気を催す。フョードルさんが出てきたのは、恋しかったからとして、残りの私二人は何だ。ナルシストの気はなかった筈だが。頭を抱え乍ら、サイドボードの時計を見る。寝ついてから、未だ一時間も経っていない。
睡魔はすっかり遠退いてしまっていて、もう一度目蓋を閉じても音沙汰はない。陰鬱な気持ちでベッドから降りた私は、先ずフョードルさんが使っている寝室の一つを覗いた。予想通り其処は使った形跡もなく、次いで地下室への扉を開く。何処となく空気が重い。暗い階段を一歩一歩慎重に降ると、パソコンの明かりが見えた。けれど、椅子に目的の人物は居ない。いよいよ可笑しいと勘付き始めた私は、慌てて元来た階段を駆け上がった。洗面所、台所、玄関ホール、庭に至る迄凡ての場所を駆け巡った。然し、矢張りフョードルさんは居ない。この屋敷の何処にも、彼の姿はない。
こんな所は初めてだった。フョードルさんは頭目として、慌しくしている事も多く、目当ての品を求めて海外へ行く事があった。そんな時、私は大抵泣きつく。フョードルさんと数日、若しくは数週間、一番非道ければ一ヶ月以上会えないなんて耐えられないと、子供のように彼にしがみ付いて離れない。すると最初は諭していた彼も、最後には「仕方のない子ですね」と溜息混じりに同行を許可して呉れるのだ。間違っても行き先を云わずに私を置いて行ったりなど一度もしなかった。
私は、覚束無い足取りでもう一度地下室へ脚を踏み入れる。フョードルさんの痕跡を捜すけれど、彼の冷たい温度を感じられるものは何もないように思えた。
「……あ」
一つだけ彼の行き先を示すものが在った。開いたままのパソコン、ページに表示されているのはヨコハマの端。ヨコハマ租界、擂鉢街。街の中に異様な姿で聳え立つ高層建築物。夜の闇に浮かび上がる高い塔が、まるで此処においでと誘導しているようだった。
私は思う。若し、彼が過去に私を自身の元へ導いたように凡て仕組んでいたのだとしたら何とも非道い話だ。けれど、私は怒り、反発するよりもただ彼の傍に居たい。置いて行かれる事、独りになる事。其れが一番嫌いだ。
急いで身支度を整えて屋敷を飛び出す。深い闇の広がる森を私は駆けた。
屋敷は森の中に建っており、麓には小さな町が存在する。ヨコハマの街へ私が行ったのは、日本にやって来て直ぐの一度きり。食料品や日用品の補給は凡て、この町で行っていた。故に私は、町の地理を理解している心算だ。だからこそ判る。今、この町は可笑しい。
音がしないのだ。灯りはついていて、先程まで誰かが居た痕跡があるのに人間だけがスッポリと抜けてしまっている。異様な雰囲気の町を私は、駆け足で通り抜けた。
バスは屹度来ない。バスで片道三十分の道のりを私はこれから歩かなければならなかった。ふと、昔観た映画を思い出した。主人公は、宵闇の町を独り彷徨い、異形の存在に襲われる。果たして彼女は無事、あの町から抜け出す事が出来ただろうか。
(そう云えばあの映画……)
そうだ。あの映画、元はゴーゴリが持ってきた物だった。「これ面白いから見てみなよ」と差し出された其れを、未だ十代半ばだった私は容易く信じた。思えば、あの頃の私は純真無垢な子供だった。寒い冬で覆われた露西亜の大地の古い屋敷の中で、ぬくぬくとフョードルさんに甘えていれば善い、其れだけの子供だったのだ。まあ、今もあんまり変わらないよね。頭の中で嗤う道化師を振り払い、歩みを進める。もう走る体力はなくて、ほぼほぼ歩いているようなものだった。
そう云えば、あの映画を観た時フョードルさんも一緒だった。そんなに面白いなら、と何処か不満そうに見える彼の腕を引いて円盤をセットした私は、予告映像が終わり流れ始めた本編に、直ぐに後悔する事となったのだ。中盤からは、もう観ていられなくて彼の膝に頭を置いて、薄いお腹にしがみ付いていた。「ほら、矢張りこうなった」あの時聞いた呆れ切った言葉が頭の中で再生される。結果として寂しさが倍増した。
今にも緩みそうな涙腺をなんとか引き締めて、私はもう一度駆け出した。ヨコハマの街はまだ遠い。
そうしてようやくヨコハマの手前に辿り着いた時、前方に見知った後ろ姿を認めた。白いふわふわとした露西亜帽とファーのついた黒い外套。長身痩躯の男性。振り返り、ゆったりとした動作で手招きをする。フョードルさん、其の人に違いなかった。
「フョードルさん!!」
静まり返った道に私の叫び声が響き渡った。最早感覚すら怪しい脚を必死に前へ出して、彼の背を追いかける。けれど、どれだけ走っても其の背に追いつく事は出来なかった。おかしい、何で。待って呉れないの。此の侭置いて行ってしまうの。気が付けば涙が頬を伝っていた。息が切れて、其れでも脚を止めなかったのは、本当に此の侭置いて行かれたくはなかったからだ。
漸く辿り着いたヨコハマの街は、屋敷の麓と同じ状態であった。運転手のいない車が道路に無造作に停められ、横のファーストフード店は食べ掛けのハンバーガーが客の荷物と共に放置されていた。息が切れて脚が震える。フョードルさんは、私と一定の距離を保った場所で静かに私を見守っていた。此処で私は、少しの安堵を覚えた。多分、置いて行ったりはしない。追いつかせては呉れないけれど、彼は私が見える距離にずっと居て呉れる。だから、やっと脚を止めた。壁に手をついて呼吸を整える。靴の音が響いて、落とした視線の先に革靴が見えた。ハッとして顔を上げる。フョードルさんは、静かな目をして私を見下ろしていた。
「フョードル、さん……」
「触れてはいけません」
伸ばしかけていた手をピタリと止める。静かな、有無を云わさぬ言葉に私は信じられない思いで彼の顔を見上げた。ポツポツと点る街灯に照らされた彼は、薄く笑ってまた先を行く。穏やかに手招きをし乍ら、より深い闇の奥へと歩みを進めた。
私はその後を追いかける。光に吸い寄せられる虫の如く、ふらふらと。其の背を見失わないように。