「1/f」 | ナノ


酸いも甘いも知り尽くし


 フョードルさんが倒れた。私の目の前で、糸が千切れた人形の如く、パタリと床に倒れ込んでしまった。彼は、微笑んでいる時以外は無表情でいる事が多いから、整った造形もあって人形のようだと思う事が多々あった。だから、今も人形のように見えたのだ。外套よりも紫色の掛かった黒髪が絨毯の上に散らばり、唇は普段よりも更に血色が悪く、白い目蓋はピクリとも動かない。
 けれど私は必要以上に慌てなかった。彼がこの様になるのは、これが初めてでない為である。虚弱な貧血体質。自負し、短所として上げるように、彼が倒れる事は間々あった。取り敢えず、倒れた彼の露西亜帽と外套を取り、胸元の鈕を幾つか外す。普段目に入らない白過ぎる肌が僅かに覗いて何とも云い難い背徳感を覚えてしまった。

 フョードルさんは、男性にしては細いし体重だって軽いけれど、身長はとても高いからベッドまで運ぶだけでも中々の重労働だ。ゴンさんやゴーゴリが居たらお願いするのだが、生憎この屋敷には私と彼以外存在しない。私がやるしかないのである。そう暑くもないのに汗をかき乍ら、どうにか一階の客間のベッドへ乗せると、一気に疲労が襲ってきて、私はベッドの空いたスペースに顔を埋めた。屹度明日は筋肉痛だ。日頃の運動不足が悔やまれる。

「名前?」
「あ、起きた……フョードルさん、低血圧起こして倒れたんですよー」
「ああ、成程。通りで頭が重いと思った……」

 ベッドに寝そべったまま、彼は蓋をするように片手を目蓋の上に置く。其の声は小さく、其れでいて何処か弱々しく、私は一気に不安になった。

「具合悪い? 薬持って来ましょうか?」
「ええ。其れと、何か果物を……慥か林檎がありましたよね。食べたいです」
「判りました。ちゃんと寝てて下さいよ?」

 私の言葉に彼は微かな笑い声を溢すと、少しだけ目蓋を持ち上げた。細められた紫の瞳が弧を描き、私を見ている。

「何時もと逆ですね。偶には貴女に世話されるのも善いものです」

 慥かに私は、フョードルさんに甘えっぱなしだが、そう云われると肯きたくなくなるのは何故だろう。羞恥心か、其れとも密かな反抗心だろうか、頭で考えつつ急ぎ足で部屋を出る。フョードルさんは仰向けに寝たまま、穏やかに呼吸を繰り返していた。





 却説、そう呟いてドストエフスキーは羽毛枕から頭を上げた。一気に血が落ちて行く感覚に多少ふらつくが、頭が回らない訳ではない。これなら『彼』とも会話が出来るだろう。端末を取り出し、昨晩登録しておいた番号へ発信する。数回コール音が鳴って『はい』と向こう側から男の声が響いた。

「こんにちは、太宰くん。昨日はうちの名前がお世話になりました」
『……うげぇ』

 此方は丁寧に挨拶しているにも関わらず、何とも品の無い返事だがこれもまた予想済みとドストエフスキーは笑う。勿論、向こう側の太宰治もこうなる事を予想していたのだろう。特段驚いた様子もなく『それで?』と先を促した。

「あの子、去り際にちゃんと挨拶もしなかったでしょう。何分、箱入りでしてご容赦下さいね」
『別にそんな事気にしてないさ。なに、そんな事を云う為に態々電話して来たのかい?』
「真逆。此処までは前説です。ぼくの用件は、」
『林檎自殺、の件だろう?』
「ええ、その通り。貴方とは話が早く済んで助かります」

 向こう側で太宰が苦虫を噛み潰したような顔をした。君にそんな事を云われても嬉しくない。考えなくとも判る。

「現在この街は、組合との闘諍で忙しい。彼からお呼びが掛かるのはもう少し先でしょうが、どうでしょう。此処は一つ手を組みませんか? お互い守るものもあるでしょう」
『守るもの、ねぇ……魔人の口からそんな言葉が出るとは思わなかったが。まあ、善いよ。乗った』
「ありがとうございます。では、また後日」
『待ち給え』

 終了ボタンに添えていた指を止める。向こう側の太宰は声のトーンを低くして囁くように続けた。

『名前ちゃんと私を引き合わせた理由は、この通話の為だろう。たったこれだけの為に君は、あの子を利用したんだ』

 その問いにドストエフスキーは笑う。至極楽しそうに、親指の爪を噛み乍ら。

「ええ。ちゃんと御使いが出来て偉いでしょう?」

 通話は其処で終了した。事前に回線を操作していた為、逆探知は不可能。無論、太宰も其れは承知の筈で今頃は通話履歴を消去しているに違いない。その様子を思い浮かべるだけで愉しくて、気がつけば指先からは血が滴り落ちていた。どうやら深く噛み過ぎていたらしい。

「ああ……名前に怒られてしまいますね……」

 流した鉄分を舌で舐め取り、また滲んで来た赤色に唇の弧を深める。利用――正にその通り。非道と云われようが、なんという事もない。その分の事後処理はちゃんと行った心算だ。
 廊下から聞こえる早足な靴の音に、ドストエフスキーは枕に後頭部を埋め目蓋を閉じた。矢張り彼とは話が早くて助かる。

 この数日後、ヨコハマの街は更なる戦火の渦に巻き込まれる事となる。機械仕掛けの白鯨が、ヨコハマ港に墜落した時、彼は牧師を背後に薄暗い地下の根城でほくそ笑む。本番は、まだまだこれからだ。

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