「1/f」 | ナノ


帰り路はまだ知らない


 波乱の多い人生だ。中島敦はこの数ヶ月毎日のように溜息をついている。
 孤児院を追い出され、流れるまま住み着いたヨコハマの街は未だ何処か余所余所しく、吹き付ける風は非道く冷たい時がある。武装探偵社に届いた依頼の為、ヨコハマの街を一人歩いていた敦は、港に差し掛かった道で足を止めた。客船が停泊している大きな港は、今日も観光客で溢れ、楽しそうな笑い声が何処からともなく響いていた。
 つい先日、敦はこの海の向こうでポートマフィアと死闘を繰り広げた。何故自分が彼らに狙われたのか、それは未だに判らない。同僚で恩人である太宰曰く、彼らに依頼した黒幕が居るとの事だが、今一それもピンと来なかった。中島敦は、幼い頃から置かれた過酷な環境のせいで、自己肯定感がとても低い人間として育った。故に何故自分がこんな目に合っているのか、其の理由に皆目見当がつかなかった。

 却説、今日の依頼であるが所謂人探しであった。手に持つ写真に写るのは、中学生くらいの少女が一人。日本人らしい黒髪と黒い瞳をした幼い少女は六年前、忽然と姿を消した。両親は、惨たらしい遺体で発見され、娘の生死も知らぬまま今は共同墓地で眠っている。
 依頼主は少女の親戚筋の夫婦だった。六年間、自分達も必死に捜したが万策尽きて、武装探偵社に頼る事にしたのだと云う。写真の少女に似た目元に涙を溜めて必死に頼む彼らの依頼を探偵社は受け、其の依頼が病み上がりであまり動く事の出来ない敦に回って来た訳である。

(とは云っても)

 判っているのは、少女の名前、六年前の写真だけとなると出来る事は限られる。六年前はヨコハマに居たとして、親戚夫婦がどれだけ捜しても見つからなかったのだからもうヨコハマには居ないと考えた方が妥当ではないのか。抑々こうして地道に捜索せずとも、超推理を持つ乱歩ならば一瞬で少女の場所を割り出すのでは。そう考えて敦は、また溜息をつく。
 こんな事を考えている暇はない。それに、この依頼を自分に任せたのは、乱歩に太宰だ。あの二人の事だから屹度何か考えがあっての事に違いない。そう云い聞かせて歩みを再開しようとした時だった。

「い、た……」

 前方約十米。写真より六年分成長してはいるけれど、顔立ちはこの少女のそれに酷似している。肩より少し長い黒髪がヨコハマの風に揺られ、彼女が角を曲がった。この先は繁華街。人混みに紛れてしまえば捜し出すのは不可能。人違いかもしれない、けれど今見失ってはまた手掛かりが零になってしまう。
 敦は彼女の背目掛けて駆け出した。運善く信号に捉まる事もなく、彼の手は彼女の二の腕を掴む事に成功した。彼女が驚いたように声を上げ、振り返る。大きな黒い瞳が真ん丸に見開かれて、薄く開いた唇が怯えたように震えていた。

「ご、ごめんなさい! 僕、今君に似た女性を捜していて」

 全速力で駆けたせいで息が上がってしまっていた。大きく肩で息をし乍ら、敦は彼女の二の腕を離そうとはしなかった。気が付けば辺りで異常を察した人々が輪を作っていた。其処でハッと気が付く。今の敦は怯える女性を無理やり引き留める変質者にしか見えない。今、軍警を呼ばれれば、事情を説明するのに苦労するし、何より探偵社に迷惑を掛けてしまう事になる。迷いに迷って、彼は懇願するように彼女の腕を引いた。

「怯えさせてしまってすみません。怪しい者じゃないんです。僕は武装探偵社の中島敦と云います。少しお話をさせて貰えませんか?」

 彼女は、苗字名前は視線を彷徨わせた後、敦の懇願に小さく頷いた。




 却説、如何して私はこんな所でクレープを食べているのだろうか。穏やかな昼下がり、露西亜とは違う温暖な気候、露西亜に似た海風。紅色のベンチに腰掛けて、苺と生クリームがたっぷり入ったクレープに齧り付きながら横の少年を見遣る。
 私より数個下に見える不思議な前髪をした可愛らしい少年は、先程から見るからに侘しい財布を見つめては目尻に涙を溜めている。何だか非常に罪悪感を覚える。別に私がクレープを強張った訳ではないのだけれど。

「あの……」
「はい」
「苗字名前さんで、間違いないですか?」

 苗字を呼ばれたのは久しぶりの事だったから、一瞬誰の事を云っているのか判らなかった。ああ、そうだ私は苗字名前だった。内心一寸驚きながら頷くと、少年中島敦は安心したように肩から力を抜いた。「よかった〜」なんとも泣きそうな頼りない声だ。

「僕、貴女の叔母に当たるご夫婦から依頼を受けているんです。六年前、行方不明になった姪っ子を捜して欲しいと……でも善かった。ヨコハマに居たんですね」

 叔母夫婦――はて、私にそんなものが居たのだろうか。

「そうですか」

 両親の事ですら思い出す事もない今の私がそんな存在を覚えている筈もない。捜していたと云われていても、如何返事をしたら善いものかも判らない。クレープの最後の一口を放り込み、味わって咀嚼する。少年は、私の短い返事が衝撃的だったようで蜂蜜色の瞳を見開いて凝視して来る。少し居心地が悪かった。
 ああ、早く屋敷に帰りたい。抑々私が街に降りて来たのは、フョードルさんが日本食を食べてみたいと云ったからで、その食材を購う為だった。こうして気ままにクレープを食べる為では断じてない。

「おやおや敦君、随分と可愛らしい女性を連れているんだね」

 そろそろ帰ろうかと腰を上げる瞬間を見計らったようだった。背後から聞こえた成人男性の声に背筋が粟立つ。少年が「太宰さん」と声を上げた。
 太宰――そう呼ばれた男性を見ようと首を曲げる。紅色のベンチに両腕をついて目を細める蓬髪の男性に見覚えはない。

「写真の子、六年前のあの夜、行方不明になってしまった名前ちゃんだね」

 それなのに男性は判っているかのように優しく私に話しかけて来る。端整な顔立ちに温和な笑みを浮かべて、語り掛けて来る。然し、その笑みはまるで逃がさないと云うかのように私の行動の自由を奪っていた。

「却説、名前ちゃん」

 太宰、そう呼ばれた男性は、ベンチを回り込み、ゆっくりとした動作で私の前に片膝をついた。そして膝の上に置いた私の手を取る。キリッそんな効果音がつきそうな真剣な表情と共に。

「私と心中しては呉れないだろうか」

 とんでもない事を云われてしまった。心中、誰と誰が。私と彼が、か。

「どうだろう。私と心中した方が君は幸せに成れると思うけど」

 私は咄嗟に太宰の手を振り払った。瞬間、横で呆けていた中島敦が慌てたように間に入って来る。

「残念、フラれてしまったようだね」
「なに云っているんですか! 捜索対象と心中しようなんて普通考えます!?」
「えーだってー、彼女と心中出来たら嘸かし愉しいだろうなーって思ったんだもーん」

 中島敦に襟首を掴まれ揺さぶられ乍らも、太宰は飄々とした態度を崩さない。それ所か、なんとも身勝手な理由まで語る始末である。
 何なんだこの人達。最早私の頭の中に先程聞いた叔母夫婦の存在はなく、二人が話している間にこの場を退散しよう、そう決めるのに時間は掛からなかった。物音を立てぬようそぅとベンチから立ち上がり、公園の出口を目指す。然し、二歩程歩いた所で大きな手が私の首根っこを掴んだ。

「こらこら、待ち給え」

 あまりに予想外の出来事だったので手提げ袋の中身を危うく零しそうになった。私の首根っこを掴んだ太宰は、至極愉し気に笑って元座っていたベンチに私を連れ戻す。そして私の横に座り込むと、世間話をするようなトーンで再度語り出した。

「仕方がないから心中は一旦諦めよう。但し、此の侭逃がしてはあげないよ。何と云っても私達武装探偵社は君の叔母夫婦から依頼を受けている。君を探偵社に連れ帰り、叔母夫婦と再会、感動的な終焉を見届けるのが今の私の使命だ」
「……」
「其れとも、叔母夫婦と逢いたくない理由でもあるのかい?」

 理由、そう云われても思い浮かぶものはない。何と云っても私の記憶に叔母夫婦は存在していない。思い出さないように記憶の奥深くに沈めていた両親は、私に親戚の話をしなかったし、屋敷に親戚が訪ねて来た記憶だってないのだ。
 叔母夫婦に逢いたくはない。今直ぐに私は屋敷へ帰りたい。ただ其れだけが今の私の望みだった。

「判った。では、こうしよう」

 両手を叩いて太宰は、懐から一枚のメモ紙を取り出した。差し出された其れを反射的に受け取ると、メモ紙には携帯番号が書いてあった。十中八九太宰の番号だろう。彼は私の視線を肯定するようににこりと甘く笑う。

「君にも何か事情があるようだ。今日は一先ず諦めて私達は帰るよ。但し、明日必ず一度は私に連絡してほしい。出来れば善い返事だと嬉しいのだがね」
「……いいんですか」
「ん?」
「私がこのまま連絡しない可能性の方が高いでしょう」
「そうだね。若しもの場合はまた捜すさ。其処の敦君は凄腕だよー」

 飄々とした態度を崩す事のない太宰と対照的に、中島は動揺を隠しきれない様子で視線を右行左行と彷徨わせていた。一瞬、迷いが生まれる。此の侭本当に私は帰っても善いのだろうか、と。先程まで帰りたくて仕方がなかったのに可笑しな話だが、太宰の雰囲気に私は完全に飲まれていたのだ。蟀谷に汗が伝うのが判った。悲しくもないのに目蓋が熱くなり、呼吸が覚束ない。脚が震えて、ベンチから立ち上がる事さえ困難になっていた。

『名前、約束をしましょう』

 ふと、脳裏に声が響いた。穏やかで、決して大きな声ではないのに脳髄に響き渡る低い声が現実に私を引き戻す。膝に抱えた手提げ袋が風に吹かれてカサ、と音を立て、其れが引き金となった。

 ベンチから立ち上がった私は、もう振り返る事もなく公園を走り去った。太宰は勿論、中島敦も追って来なかった。バスに乗って揺られる事三十分、其処から徒歩十五分。約四十五分もの時間を費やして帰って来た屋敷は、既に夕焼けに包まれていた。
 蝶番を鳴らしながら玄関扉を開く。ステンドグラスから橙色の差し込むホールは、しんと静まり返っていた。けれど、彼は其処に居た。まるで私が帰って来る瞬間を判っていたかのように階段に腰掛けて、疲れ果てた顔をした私に緩やかに両手を広げ待っていた。

「おかえりなさい、名前」

 ただいまを云う余裕さえもなく、私は腕の中に飛び込んで薄い彼の体にしがみついた。階段の下で転がった手提げ袋から食材が転がり出たのが視界の端に留まる。拾わなければ、そう判っているのに体は動こうとはしなかった。露西亜よりも気候の善い日本に居ても低体温なフョードルさんの両手が私の体を優しく包み込んでいたからだ。
 私の頭頂部に頬を預けるようにして体を寄せた彼は、心臓の音を聞かせるように私の頭を自身の左胸に寄せた。母親が子供を安心させるように片方の手が優しく私の髪を梳く。

「よしよし、大丈夫ですよ名前。ぼくの傍に居れば恐ろしい事は何もありません。安心なさい。今日はずっとこうしていてあげますから」

 気が付けば、差し込む日差しは橙色から闇色へ変わろうとしていた。フョードルさんの声と心臓の動く音だけが私の鼓膜を刺激する。それが非道く心地よくて、離れがたくなってしまった。落ち着く。頭がボンヤリとする。すっかり脱力した私の体を抱きしめ乍ら「疲れたでしょう、今日は夕飯の支度は結構ですよ。おやすみなさい」と彼は云う。
 ふと、薄れる意識の中、フョードルさんの細い指先が私の外套から一枚のメモ紙を取り出したのが見えた。中に書かれた番号を見て紫水晶のような瞳を細めた彼は、小さな嘲笑と共にメモ紙を握り潰す。はて、そのメモ紙は一体誰から貰ったものだったのだろうか。

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