「1/f」 | ナノ


郷愁は巡りて


「名前、明日から日本へ行きます」

 フョードルさんの提案と云う名の決定事項の通達は何時だって唐突だ。今日だってゴンさんに焼菓子の作り方を習っている所だった。オーブンにセットしたタイミングを見計らったかのようにキッチンに現れた彼は、何時も通りの薄っすらとした笑みを浮かべたまま「善い香りですね」なんて呟いている。
 待って、待ってほしい。何故日本に。然も明日からなんてあまりにも唐突過ぎやしないか。否、彼が唐突なのは今に始まった事ではないのだけれど、其れでも今回は特に非道い。
 放り投げたエプロンはニコニコ笑顔のゴンさんが受け止めてくれた。体当たりの要領で胸元に縋りついた私に、フョードルさんが一瞬嫌そうな顔をした。勢い余って痛かったのかもしれない。一先ず引き剥がされない事を確認して私は震える手で彼の細い体を揺さ振った。

「な、ななななな何で突然日本なんて! そんな話してた!? 若しかして私が寝惚けてる時にしました!?」
「していませんねぇ。ああ、それと侍従長とプシュキンさんも連れて行きます。それとうちの構成員ではありませんがゴーゴリさんも」
「はあ!?」

 ゴーゴリ、ゴーゴリだと。プシュキンも割とショックだけれどあの道化師を連れて行く方が衝撃的だった。何と云ってもあの道化師、会う度私を揶揄っては、反応を見て嗤うのである。君は面白いね、名前。善い暇潰しになるよ。その後に続く彼の独特な笑い声を思い出すだけで腸が煮え繰り返る思いがするのだ。
 衝撃と怒りで震え出した私の異変に気が付いたのだろう。フョードルさんは笑みを深めて、自身の胸元を掴む私の両手をそっと取った。そして優しく引き剥がすと、私に目線を合わせる為に腰を屈める。

「意地悪をしました、ごめんなさい名前。勿論貴女も連れて行きますよ。まあ、貴女が行きたくないのなら置いて」
「行きます!!」
「ええ。そう云ってくれると信じていました」

 さあ、後はゴンチャロフさんに任せて貴女は荷造りをして来なさい。そう云って微笑んだ彼に背中を押される形で私は二階の自室に駆け込んだ。クローゼットの中からスーツケースを引っ張り出し、まずは衣服を詰め込む。私の服は黒もしくは白が多い。その内の大半がフョードルさんやゴンさんが選んで呉れた物で、たまにある奇抜な服はゴーゴリが揶揄い半分でプレゼントしてくれた物である。屹度一生着る事もないような派手な柄のワンピースをベッドへ放り投げる。却説、服や下着は揃えた。他に必要なものは――周辺を見渡し、ふと棚に目を留める。
 私の部屋に置かれた物はどれもが海外製の物ばかりだ。大半は露西亜、他だと仏蘭西や伊太利亜だったり、手に取った縫いぐるみもタグに仏蘭西語が書かれている。

(流石に縫いぐるみは持っていけないなあ)

 六年前、約束をした後に彼が初めて買い与えてくれた物。思い入れはあるけれど、態々異国、否母国に持っていく物ではない。そっと棚に戻して、今度は本に目を遣る。当然のように並ぶのは異国の言葉ばかりで日本語の書籍は存在しない。
 そうだ、私はもう長い事日本の物に触れていない。それに彼について海外へ行く事は今までにもあったけれど、日本へ戻るのは六年ぶりだ。そう、あれから六年も経ったのだ。
 スーツケースを持って一階に戻るとダイニングでは、焼き上がった菓子が置かれていた。ゴンさんが淹れてくれた紅茶が優しい湯気を上げている。先にティーカップを傾けていたフョードルさんが私を見て、にこりと微笑んだ。

「名前」
「はい」
「貴女、家出でもする心算ですか?」

 私が手に持つのは大きなスーツケースが一つ。小旅行用のスーツケースがもう一つ。それとリュックが一つだ。彼の言葉に立ち竦む私の背後にゴンさんが立った。勿論、荷物はあっさりと没収された。

 国外への移動手段は多々あれど、鼠としての活動時、彼は密輸船を利用する事が多かった。飛行機より時間は掛かるけれどリスクは少なくて済む。こんな時、私はそう云えばこの人は犯罪者だったなと認識する。屋敷に居る時の彼は、穏やかで私を大事にしてくれるお兄さんでいる事が多いから、こういう時は少しだけ心がざわつく気がした。
 夜の闇の中、港を出た船は一面の黒の上をゆっくりと進んで行った。窓の外を見ても何もない。屹度私が初めて露西亜へ来た時もこんな景色だったのだろう。眠っていたから本当の事は判らないのだけれど。

「名前、夜の海をそんなに見つめるものではありません。いい加減、此方へいらっしゃい」

 ずっと窓の外を眺める私を背後からかかった声が現実に引き戻す。振り返り、急ぎ足で簡易的な寝台に腰かけたフョードルさんの傍に寄った。真っ黒な海を見つめすぎていたせいか薄暗い室内ですら少し眩しく感じてしまう。手を引かれ、横に座ると彼は横の台の上に置かれた小瓶を指先で摘まみ上げた。

「これから先、航路が荒れると船長が云っていました。酔い止めを飲んでおきなさい」
「……ええ」
「なんです、その顔は」
「まずそう……」

 彼の細い指先が抓む透明な瓶の中で茶褐色の液体が揺れた。見ただけで予想がつく。こういう薬は大抵苦くてまずいのだ。

「良薬は口苦し、と云うでしょう? まあ、本来は違う意味なのですが」
「はい?」
「何方にせよ、今の貴女には当て嵌まる。さあ、飲みなさい。善い子ですから」

 本当は嫌だけど、このまま拒否して呆れられるのはもっと嫌だった。意を決して小瓶の蓋を開け、一気に飲み干す。案の定、顔を顰めてしまう程の苦みが口内に広がった。口元を両手で覆って唸り声を上げる私と対照的にフョードルさんは、涼し気な顔をして「よくできました」と拍手をしている。今度ばかりは褒められているのにあまり嬉しくない。
 すると本当に船が揺れた。窓に雨粒が叩きつける音が響き、揺れが段々と大きくなる。波の上を進んでいるからだろう。内臓が大きく揺れる感覚に体から血の気が引いていくのが判る。フョードルさんの云う通り酔い止めを飲んでよかった。

「さあ、横になって。先程の薬の中には睡眠導入剤も含まれています。目を閉じていれば直ぐに眠れる筈ですよ」
「……フョードルさんは?」
「ぼくは平気です。大丈夫、ちゃんと傍にいますよ」

 掛けられた毛布は少し埃っぽくて、寝転んだ寝台は固い。露西亜の屋敷、私の部屋の物とは雲泥の差だ。心細さが増大して、背中を撫でてくれる彼の体に擦り寄った。ああ、でも薬の効果は絶大だ。意識がふわふわして来て、目蓋を閉じれば直ぐにでも眠れそうだ。

「おやすみ、名前」




 目を覚ますと知らない部屋にいた。寝転んでいたのは寝台ではなく、ベッドに変わっていて掛けられた毛布はふかふかで善い香りがする。白いゆったりとしたワンピースのパジャマをぼんやりと見下ろして、次いで辺りを見渡した。
 此処は何処だろう。露西亜の部屋ではない。そうだ、日本に来たんだった。あれ、でも私自分で船を降りた記憶がない。ゴンさんが運んで呉れたのかな。だったらお礼を云わないと。ベッドからカーペットの上に足を下ろす。ベッドの傍には薄いベージュのスリッパと、その横の椅子に同色のカーディガンが掛けてあったので拝借した。
 どうやら此処は日本で間違いないようだ。部屋を出た先の窓から望んだ景色は木々が大半を占めていたけれど、遠目に見える街並みは日本の其れだ。ふらふらと揺れる頭を片手で押さえながら階段を下りる。玄関ホールに出ると、左右に廊下が分かれていた。却説、先に何方を見て回ろうか。ゴンさんはキッチンに居るだろうけれど、フョードルさんは何処だろう。一先ず左側へ向かおうとすると、右手奥の方角から扉の開く音がした。体を向き直れば、一番奥の扉が開かれ、其処から帽子と外套を脱いだフョードルさんが姿を現す。

「フョードルさん!」
「おや、漸く目が覚めましたか。ああ、そんなに走らないで。四日も眠っていたのですから立っているのもやっとでしょう」

 真逆四日間も眠っていたとは思わなかった。あまりの長さにあの酔い止めの効果の恐ろしさを思い知る。階段の手摺に寄り掛かる私の元へ歩み寄ったフョードルさんが垂れた前髪を横に流してくれた。冷たい指先が気持ちいい。

「ゴンさんは?」
「侍従長はいません」
「? 購い物ですか?」
「いいえ。この屋敷には、侍従長は勿論、プシュキンさんもいません。ぼくと貴女、二人だけです」
「はい?」

 衝撃的な事実、二つ目だ。多分間抜けな顔をしていたのだと思う。私の頬を両手で包んで指先で撫でるを繰り返していた彼は、クスクスと笑い声を上げて大袈裟な程に肩を揺らした。

「ふふ、予想通りの反応です。可愛らしい反応をありがとう」
「へ? は? どう、も?」
「侍従長たちは別の潜窟に居ます。指示は此処からも飛ばせるので心配は要りません。それに今のヨコハマはぼくら鼠が動くには少々騒がしい。暫くは大人しくしていた方が善いでしょう」
「はあ……」
「先程から心此処に在らず、と云った様子ですね。そんなにぼくと二人は嫌ですか?」

 そう云って、其の美しい顔を悲しそうに歪めるものだから、仮令何時もの意地悪だと判っていても反応せずにはいられない。咄嗟に頬を包む両手を掴んで、急いで首を横に振った。慌てたものだから自ら頬を潰す形になってしまったが、其れにすら彼が愉しそうに笑うのでまあ善とする事にした。

「家事全般は貴女に任せます。必要な物は全て揃っていますが、何か他に要るようであれば云って下さい。ぼくはあの右手奥、地下に続く扉の先にある部屋に居ますから寂しくなったら何時でもいらっしゃい」
「判り、ました」
「善い子ですね。夕飯、楽しみにしていますよ」

 最後に一度、私の目尻を親指で撫でて、フョードルさんはまた扉の奥へと消えた。
 残された私は広い屋敷を見渡し、途方に暮れる。露西亜とは違うけれど古い屋敷だ。古めかしい家具は所々埃を被っているし、まずは掃除から始めるべきだろうか。カーディガンが肩から落ちそうになる。掃除も大事だが、それより先に身支度を整えよう。手摺に確りと掴まって私もまた、元来た道を戻るのだった。

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