「1/f」 | ナノ


君を殺す夢を見た


「ニーカ、ねえニーカってば! 起きてよ、ニーカ!」

 あまり呼ばれ慣れない愛称を高い少女の声で叫ばれたものだから転寝から飛び起きてしまった。ダイニングチェアから落ちそうになり、寸前で脚に力を入れ踏みとどまる。頬杖をついていた手は間抜けにも其の儘に信じられない思いで視線を前方へ向けると、其処には信じられない存在が在った。

「やっと起きた……私の話、聞いてなかったでしょう?」

 何処だ、此処は。此処は僕の部屋だ。この古いダイニングテーブルも、置かれたマグカップも、小さなテレビも、数ヶ所革の破けた黒色のソファだって全部記憶にある。ならば異質な存在は? 目の前に居る少女だけだ。

「御免御免、何の話だったっけ?」
「もう、ちゃんと話聞いてよね。明日、お祭りでしょ? 連れて行って呉れるよね?」
「祭り? ああ、マースレニッツァか」

 少女、名前は親友とはまた違う日本人らしい黒髪を揺らし乍ら満面の笑みを作って大きく首を縦に振った。変だ。何が変って凡てがだ。先ず、名前が此処に居る事が可笑しい。何故って、名前はこの家を知らないのだ。何時だって彼女に会うのは、親友であるドストエフスキーの屋敷であったり、他の潜窟であったり、街の中であったり。とにかく彼女を自分のプライベート空間に入れた事は今迄一度もなかった。それに自分も可笑しい。何故、自分は名前に疑問をぶつける事もなくにこやかに会話等しているのだろう。マグカップには珈琲が入っていた。お国柄、紅茶を飲む機会の方が多いけれどゴーゴリは珈琲も嫌いではない。白い陶器を傾けると独特の風味が口内に広がる。何てことはない。何処にでも売っている即席珈琲である。
 名前は、笑顔を崩す事なく椅子から立ち上がるとゴーゴリの背後に立った。彼の下ろしたままの銀髪はふわふわと揺れて、カーテンの隙間から差し込む陽光に中てられて美しく光っていた。今は道化師の恰好もしておらず、ただの黒のシャツを着ているのみだから結ぶ必要もないのだが、機嫌のよい名前は代わりに結ぶ心算だった。自分のものとは違う、女性的な細い指で繊細に梳かれ、丁寧に三つ編みを結う。

「ニーカの髪、ふわふわでいいなぁ……すごく豪華じゃない?」
「そう? 癖が強くて手入れが大変なのだけど」

 うん、矢張り可笑しい。名前がこうして懐くのは、自分ではなくドストエフスキーの筈だ。然も、愛称で呼ばれる程心を許してもいない筈。はて、ならばこれは夢か其れとも何らかの異能か。はたまた別世界にでも迷い込んでしまったのか。とんでもない想像を膨らませている内に髪は綺麗に結い終わった。然し、如何にも違和感がある。後ろに手を回して愕然とする。三つ編みは背中に垂れていなかった。後頭部で綺麗に纏められた自身の髪に「名前〜」と批難めいた声を上げる。

「ニーカ、綺麗な顔してるし絶対似合うと思ったんだもん」
「だからってこれはないでしょ。女の子みたいじゃないか」
「似合うよ」
「……其れはどうも」

 にっこりと微笑んだまま、少女の両腕が首に回り、背後から抱きつかれる形になった。思えば自分のものとは違う体温に触れるのは久しぶりの事だった。暖かくて心地が善くて、其れでいて落ち着かない気持ちにさせる。ゴーゴリは内心溜息を吐いて、首に回った二本の腕を取り、体を反転させた。椅子に腰掛けたままだったので見上げる形になった名前の目には慥かな信頼と安心だけがある。

「名前、ドス君は?」
「ドストエフスキーさん? 一昨日会ったばかりじゃない」
「んん? 君、ドス君の処に住んでいるんじゃないの?」
「何云ってんの。私の事、拾ったのはニーカでしょう。ちゃんと責任取ってよね」
「ええ……」

 如何やら今の問い掛けで名前の機嫌を損ねてしまったらしく、彼女は絶やす事のなかった微笑みを消すとリビングを出て行ってしまった。なお、籠った先はゴーゴリの住むアパートに一つしかない寝室である。成程、一緒に寝ているわけね。まるでドス君と名前みたいに。嗚呼、成程、成程…否、無理だ。混乱する。
 背もたれに額を打ち付け、頬を叩いてみるが夢が覚める気配はない。却説、この状況どうしたものか。




「さあ、名前! とても善い朝だよ! 出かけよう!」

 一晩悩んだ末、ゴーゴリは現状を愉しむ事に決めた。ゴーゴリだって常人より頭はよかったけれど、親友たるドストエフスキーのような超人的な頭脳は持ち合わせていない。途中、その親友に相談してみようとも思ったが止めた。どうせなら愉しもう。ユーモア溢れる実に道化師らしい思考が、彼の純然たる理性に勝ったのである。
 一晩開かずの間と化していた寝室を開けると名前は毛布に包まったまま、不機嫌そうな眼差しをゴーゴリへと向けていた。目の下に隈がある。若しかしたら寝ていないのかもしれなかった。

「ほら、名前。早くベッドから出ないと祭りが逃げてしまうよ。ブリヌイ食べるんだろう?」
「……うん」
「じゃあ、ええっと……あ、この服可愛いじゃない。これ着てよ」
「其れ、この前ドストエフスキーさんに貰った物だよ」
「へぇ……じゃあ辞めた。此方は?」
「ゴーゴリが一年前に購って呉れたワンピース。真逆、忘れたの?」
「ハハハーハハ! 忘れるわけないじゃないか。嫌だなあ」
「忘れてたんだね」
「名前、妙な所で鋭いよね。私、悲しい」
「はいはい」

 着替えるから出て行けと部屋を追い出されて十分。女性にしては短時間で身支度を済ませた名前が部屋から顔を出す。記憶にはないが以前、ゴーゴリが与えたと云うミントカラーのワンピースを纏った名前は、緩く結んだ黒髪を揺らして少し気恥ずかしそうに横に立った。「可愛い、似合ってる」素直に褒めれば肩を叩かれた。褒めたのに何故。

 マースレニッツァは、冬を送る祭りとして露西亜で長年親しまれてきた。広場に飾られたマースレニッツァ人形を見て、ブリヌイを食べ、最終日には冬の象徴として人形を燃やす。そんな祭りに出向いたのは、実に久しぶりの事だった。
 冬も終わりが近いとは云え、まだまだ寒い。ワンピースの上に外套を着て、帽子で耳を隠した名前は実に楽しそうに人形を見て回っている。其の後ろで両手をポケットに突っ込み乍ら歩くゴーゴリは、薄く開いた唇から白い息を吐き出して小さく笑った。
 其れから名前曰く行きつけだと云う店でブリヌイを食べた。名前は甘い物を、ゴーゴリは食事としてサーモンとイクラが乗った物を注文した。昼時を過ぎているからか、店に客は疎らで、彼らの周りには誰もいない。向かい合って食後の紅茶を楽しんでいると窓の外を眺める名前の目に微かな光を見た。何を見ているのか、そう視線を巡らせると其処には観光客だろうか。亜細亜人の親子の姿があった。カップをソーサーへ戻す。そして、すっかり温もった手で、机の上で組まれた彼女の両手を取った。

「寂しいかい?」
「ううん、だって私にはニーカがいるもの」

 矢張り名前の目には、慥かな信頼と安心が見える。其れがゴーゴリの理性をじりじりと焼いた。まるで燃え尽きるマースレニッツァ人形の気分だ。
 ゴーゴリは、名前の手を引いて店を出た。今度は広場とは逆方向、人通りのあまりない道に入っていく。名前が不安そうにまたゴーゴリを愛称で呼んだ。丁度行き止まりの路地に差し掛かり、漸く脚を止める。

「ねえ、名前。何故僕の事をニーカと呼ぶんだい?」
「え? だってコーリャだと在り来たりだし、ニーカって可愛いから」
「そう……君は、僕の事を好きでいて呉れているんだね」
「そうだよ。当たり前じゃない」

 僅かに残っていた理性がじりじりと焼き切れる。異能ではない唯の変哲もない外套の中からナイフを取り出した。振り向きざまに疑う事を知らない少女の胸を狙い、突き立てる。名前は甲高い悲鳴を上げて其の場に崩れ落ちた。脂汗が滲んだ額に黒髪が張り付いて、黒い瞳が今にも泣きだしそうな程に歪む。「なんで、なんでなのニーカ……私のこと、嫌いなの……?」声は既に泣いている其れだった。

「駄目だよ、名前。これは悪い夢なんだ」

 代わりにゴーゴリは嗤った。綺麗に微笑んでみせて、荒い息を吐き出して倒れ込んだ名前の上に馬乗りになる。やめて。桃色をしていた筈の名前の唇が痙攣を起こしたように小刻みに動く。可哀想だ。名前も、僕も。こんな悪い夢の中で逃げられなくなるだなんて。ナイフをもう一度振り上げる。ぐさり、肉を切る感触。赤い血飛沫を吐いて、少女は雪の其れと同じになった。




 以上、随分と胸糞悪い話を聞かされてドストエフスキーは、彼にしては露骨に不機嫌を顔に乗せた。途中迄、馬耳東風と云うように聞き流していたのだが途中からは集中して話を聞いていた。おかげで現在、彼の機嫌は急降下の一途をたどっている。
 対して道化師は、さも面白い話をしてやったとでも云うように軽快に笑い声を上げている。「いやあ、まいっちゃうよね。私、実は名前の事欲しいのかも」なんて冗談を口に出してみるが火に油を注ぐ結果となった。対面する親友の目は、夢で振り上げたナイフよりも鋭い。

「ところで名前は? この話を聞いた彼女の反応が気になるのだけど」
「名前は一階で侍従長とお菓子作りをしているので貴方と会う事はありません。向こう一ヶ月は会わせる事もないので其のお心算で」
「ええ、そんなあ!」
「何とでもどうぞ。人のもので勝手な夢を見た罰ですよ。これでも甘いくらいです」

 すると見計らったように階下からドストエフスキーを呼ぶ少女の声が響き渡った。紫色のナイフが途端に甘い其れになる。「はいはい」そんな呟きと共に部屋を出て行く背中をそっと追いかければ、階段の踊り場で黒焦げの物体を抱えた名前がドストエフスキーに泣きついているところだった。如何やらお菓子を焦がしたらしい。ドストエフスキーが何らかの言葉を掛けて、彼女の手から皿を受けった。其れをいつの間にか控えていた侍従長が受け取り、すっかり自由になった彼らは身を寄せ合いひしと抱き締め合う。名前の鼻を啜る音と宥めるドストエフスキーの声が響く階段で、ゴーゴリは帽子を押さえ乍ら天井を仰ぎ見た。
 夢の中では、自分がドストエフスキーの立場だったが、果たして自分は、ああやって上手く宥める事が出来たのだろうか。そんな夢のような話を想像し、道化師は外套を翻した。

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