「1/f」 | ナノ


青い証明


 真夜中の静けさを断ち切るような足音、否走る音が屋敷の廊下に響いていた。ダダダダダ、ドン――ダダダダダ。あ、今転んだな。そんな事を考え乍ら、ドストエフスキーは読んでいる本から目線を外す事なく上体を上へずり上げた。羽毛の枕に背中を預け、来訪者を待つ。
 来訪者は彼の予感通り、其れから十秒後に部屋へ到着した。素早いノックの後、ドストエフスキーの返事を合図に扉を開く。余程焦っている事が気配から窺えるが、其れでもマナーを守った事を取り敢えず褒めておくべきだろうか。否、つい先日同僚に甘やかし過ぎはよくないと苦言を呈されたばかりだ。ああ、でも日本では褒めて伸ばせとも云うし、却説如何したものか。悩む事僅か三秒。腹部と胸に衝撃が走り、ドストエフスキーは小さく唸った。遠慮のない突撃に、虚弱な体は悲鳴を上げていたが、本を落とさなかっただけまだマシと言えよう。褒めるのは辞めにした。だが、この数年に身に付いた習慣か、彼の左手は上に乗り上げてしがみ付く少女の背中に回されていた。

「こんな夜更けに如何したのです。ぼくの胸にしがみ付いているだけでは何も判りませんよ」
「……で、出た」
「何が?」
「幽霊……」
「はあ?」

 あまりに突飛な返答に、思わず背中を摩っていた手を止めた。額をグリグリと押し付けて来る名前は、消え入りそうな声で何度も幽霊、出たと繰り返す。
 右手に持っていた本を閉じる。分厚い其れを傍に投げ、視線を落とせば震える黒い頭頂部が目に入った。しがみ付く指先は痙攣を起こしたかのように小刻みに震え、触れる体温も何時もより低い。如何やら本当に怖がっているようだ。

「人は皆、死ねば神の御許に召されます。幽霊など存在しませんよ」
「で、でも居たんです! 私の部屋に、か、髪の長い白い服を着た幽霊がぁ……!」
「……」

 此処は露西亜なのに、何故日本の恐怖映画に出てくるような幽霊が居るのだ。幽霊等この世には存在しないのに、只でさえ低い信憑性が更に低くなる。
 論理的に否定してやるのは簡単だが、怯える名前は納得しないだろう。現在の時刻は日本で云う丑満時。なんとも王道なシチュエーションだ。つむじから目線を離し、宙を睨む。元々眠れず、読書で暇を潰していた所だ。名前が居るからと云って状況が悪くなる訳でもない。

「名前、もう夜も遅い。今夜はこのまま此処で眠りなさい。幽霊は屹度ゴーゴリさんの悪戯です。明日には消えていますよ」
「本当に?」
「ええ。若し、それでも不安なようであれば明日は貴女が寝付く迄傍に居ます。如何です? 其れなら安心でしょう」

 胸に押し付けられた頭が、数秒の間を置いて小さく縦に揺れる。其れを確認し、名前の体を抱いたまま体を横に倒せば、自分から腕の中に潜り込んで来る。ピッタリ張り付いて抱き枕状態になった名前の頭に顎を乗せ、目蓋を閉じるが矢張り睡魔は訪れそうにない。まあ、いい。どうせ徹夜には慣れている。





「え? 私、昨日は仕事で露西亜に居なかったのだけど」

 翌日、都合よく朝から屋敷を訪れたゴーゴリはドストエフスキーの尋問にあっさりと口を開いた。同僚の道化師は嘘が上手いが、ドストエフスキーの頭脳があれば見抜くのは容易い。だからこそ判る。彼は、嘘をついてはいない。
 そうなると不安になるのは他ならぬ名前だ。昨晩の恐怖体験からすっかりくっつき虫になった彼女は、しがみ付いたままのドストエフスキーの腕を力の限り揺らした。「ほらー!!」同意を求める声と視線を受け乍ら、振動のままグラグラと頭を揺らし考える。幽霊等この世に存在しない。そうなれば残る選択肢は――

「名前、重いです」
「だってー!」

 背中に張り付いた名前は、ドストエフスキーがとれだけ優しく諭そうと離れようとはしなかった。事情を知ったゴーゴリが面白がって怪談話を聴かせ脅かした為である。悪ふざけの過ぎる道化師には一先ず帰宅して貰い、ドストエフスキーは彼にしては珍しく少しばかり努力して名前を宥めようと必死になった。震える背中を撫でてやり、それでも駄目なら抱き締めたまま暫く暖炉の火に中ったし、それも駄目ならもう気の済む迄好きにさせようと決めた。其の結果が今のこの状態である。
 途中、流石に見兼ねた侍従長が異能を使い引き剥がそうとしたのだが、離れたら離れたで今にも死にそうな顔をして見上げて来るのだ。そうなると、世間一般からすれば異常だろうと彼女の事を慥かに愛しく思っているドストエフスキーは腕を差し伸べざるを得ない。昨晩にも似た衝撃と共に飛び込んで来た少女の体を、しかと両腕で受け止め乍ら自分自身に云い聞かせる。未だ二年。名前を拾って未だ二年しか経っていないのだと。

 流石の名前も十五時を過ぎると落ち着いたのか背中から離れるようになった。とは云っても誰かが傍にいないと不安なようで、日が暮れると其れは更に強くなる。夕食は無事取ったものの、入浴となると水場と云う事もあり名前の怯えようは非道かった。ドストエフスキーが入浴している間はゴンチャロフの傍を離れず、自身の番になると少しの物音で悲鳴を上げた。
 入浴を終えた頃になると、状況は朝へと逆戻りした。濡れた髪を手ずから整えてやり、揃って名前の部屋のベッドへ入る。すると今日一日ずっと気を張り詰めていたせいか、彼女の目はとろんと溶けて、直ぐに寝入ってしまった。

「却説……」

 眉間に皺を寄せたまま寝息を立てる名前の背中から手を離し、辺りを見渡す。勿論幽霊の姿等何処にもない。部屋にはドストエフスキー自らが選び、与えた物ばかりで、異物は一つも存在していなかった。
 怯える名前曰く、幽霊は窓辺からベッドに転がる名前を見ていたのだと云う。恨み辛みの篭った視線はとても恐ろしく、今にも射殺さんばかりで、生命の危機すら感じたと云うのだから驚きだ。彼女が幽霊を目撃した丑満時迄あと三時間弱。昨日途中にしていた読書をして待つ事にした。

 チクタクと時計の音が響く。長針が零を指し示し、時刻は丑満時――午前二時となった。ドストエフスキーは本を閉じ、溜息混じりに枕の下へ片手を入れた。目的の物は直ぐ指に触れた。
 部屋の空気が変わる。正確には窓辺の一角が、重苦しくなった。空間が歪んで、ドストエフスキーよりも更に青白い腕が闇の隙間から覗く。彼はにこりと唇に弧を描くと、寝入ったままの名前の体を片手で引き寄せた。愚図り声を上げるが耳元でしーっと囁くとやがては落ち着いた寝息に戻る。彼女が眠っている事を確認し、片耳を自身の胸へ、もう片耳を左手で塞いだドストエフスキーは握り締めた小型拳銃を窓辺へ向けた。

 消音装置は装着している。迷う事なく引き金を引けば、銃口から飛び出した弾丸が半分はみ出した『幽霊』の蟀谷に吸い込まれる。悲鳴を上げる事もなく、壊れた電動人形のように顔を上げた其れは血の滲んだ唇で何かを紡ぐ。然し、ドストエフスキーは其れが声になる前に塞ぐ事にした。続いて二発。鮮やかに放たれた弾丸が、名前を怖がらせた『幽霊』に喰い込む。矢張り予想は的中した。

「成程……幽霊、慥かにそうだ」

 地に伏した其れはもう動く事はなかった。ドストエフスキーが数日前始末した男のように事切れた体が床に崩れ落ちる。主を亡くしてもなお動き続けた、対象者の恐怖を体現する独立型の異能――『幽霊』は、主の最後の命令を果たす事なく消滅した。
 『幽霊』が倒れていた絨毯に血溜まりや痕跡が存在しない事を確認して、ドストエフスキーは名前の頭を羽毛枕へと戻す。凡てが終わっても眉間の皺は消えていない。夢の中でも幽霊に脅かされているのかもしれなかった。ドストエフスキーは解きほぐすように、眼前の眉間に唇を降らせた。もう大丈夫、貴女を脅かすものは何もない。ゆっくりとしたリップ音が室内に響き、毛布の中にくるまった体を寄せ合う。丑三つ時は過ぎた。朝日が昇るまで後数時間、名前の悪夢は終わりを告げた。

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