「1/f」 | ナノ


白昼夢であれ


 季節は冬。街は白い雪に包まれていた。サンクトペテルブルグの街は美しいのだが、如何せん生まれも育ちも此処となると飽きも来るものだ。白い息を吐き乍ら、見慣れた運河の脇を直走る。本来なら学校で小難しい授業を聴いている時間だが、今日はサボってしまった。衝動的と云っていい。何故か今日は、学校へ行ってはいけない気がした。
 共に登校する友人の呼び掛けを振り切って走る昼間の街は、見慣れていた筈なのに何だか違う街のようにも感じられる。学校をサボって数時間。幸運にも両親や知人、近所のお節介なおばさん達に会う事もなく、自由を謳歌する少年は、前方から歩いて来る警官に目の色を変えた。補導されるのは真っ平御免だ。急ぎ、角を曲がる。然し、其れが間違いだった。

「きゃっ」
「うおっ!?」

 警官に目が行っていたばかりに前方を注意していなかった少年は、同じように角を曲がって来た誰かに正面から激突した。二人して固く冷たいアスファルトの上に転がる。薄っすらと積もった雪がクッション代わりになって血は出なかったが、打ち付けた額が痛い。たん瘤になっているかもしれない、と片手で擦り乍ら視線を対面へ向ける。其処には、見慣れない異国の少女が座り込んでいた。仕立ての善い暖かそうな白色の外套を着た亜細亜人だ。年齢は屹度同じくらいだろう。同じように額を押さえたまま、涙で潤んだ黒色の瞳で此方を睨みつけている。

「ご、ごめん! 大丈夫か!?」
「?」

 そうか、異国人だから露西亜語が判らないのか。少女の表情にそう悟り、少年は警官の存在を思い出す。補導は勘弁。然し、今の悲鳴を聞きつけた警官は直ぐにやって来る。
 悩んだ末、彼は少女の腕を掴んで走り出した。とにかく今は、この場を離れる事が最優先事項であった。腕を引かれたまま、少女は背後から何事か叫んでいる。屹度自分を批難しているに違いないと少年は思った。街の中を駆け抜けて、裏路地に入って漸く手を離す。少女は肩で大きく息をし乍ら、掴まれていた腕をぷらぷらと揺らした。

「えっと」

 恐る恐ると話しかけると、黒色の瞳に鋭く睨まれる。乱れた黒髪が頬に掛かっていて、昔父に見せられた日本の恐怖映画を思い出した。怯む心を奮い立たせて、懐からハンカチを取り出して差し出す。すると少女は、一瞬目を大きく見開いておずおずと其れを受け取った。何と云っているのかは判らなかったが、多分お礼を云っていたと思われる。

「ごめん。君、向こうに用があったんだよな。戻る道、判る?」
「――? ――――!」
「ええ? なに?」

 ハンカチで額を押さえていた少女は弾かれたように周囲を見渡し、何かを叫び始めた。気が付いたが彼女は多分日本人だ。露西亜語とはまったく違う発音で誰かの名前を叫んでいる。如何やら人と逸れたらしい。気が付くや否や途端に血の気が失せた。自分のせいで、少女は連れと逸れたのだ。然も、日本人と云う事は観光客だろう。知らない異国の地で独りぼっちと云うのは、嘸かし心細いに違いない。

「あ、あの」
「――!」
「ご、ごめん。俺が悪かったよ。だからさ、お詫びと云うか……その」

 今のは、明らかに批難された。今にも飛び掛かってきそうな剣幕に、両手を前方に突き出して耐える。そして身振り手振りで走って来た方角を示して云った。

「俺も捜すの手伝うから!」




 仮令言葉が通じずとも、人間、気持ちとジェスチャーさえあれば何とかなるのだと、性根は今日で学んだ。横を歩く少女は捜し人を見つけるべく、世話しなく左右を見渡していて、少年は元の道を少女に教え続ける。
 少しだけ意思疎通が出来たおかげで得た情報によれば、少女が捜しているのは男性だ。うんと背伸びをして身長を伝えて来たから相当な長身なのだろう。然も、意外な事に相手は露西亜人らしい。日本人なら顔立ちで直ぐに判るし、直ぐに見つかるだろうと高を括っていただけに落胆も大きかった。尚、捜し人の名前は判らない。少女は必死に教えようとしたのだが、発音が下手くそで聞き取る事が出来なかった。

「露西亜人で長身の男だけじゃなぁ」

 そんな人間、この大きな街にはごまんと居る。自分だって年にしては身長も高い方だし、れっきとした露西亜人の男だ。捜し人を唯一知っているのは、迷子の少女だけで、彼女は不安そうな顔をしたまま少年の後を追った。然し、目的地、先程衝突した現場迄辿り着いても捜し人は見つからなかった。その頃、少女の不安は最高潮に達していた。大きな瞳に大粒の涙を溜めて両手で顔を覆ってしまった少女に少年は慌てるしか出来ない。ハンカチは先程渡してしまったし、他に持っている物は――あった。

「ほら、飴。食べなよ」
「……」
「嫌い? イチゴ味なんだけど」

 同級生から貰っていた飴が鞄のポケットに入ったままになっていた。両手から顔を上げた少女の瞳が、掌の上に注がれる。差し出した手を揺らせば、少し困った様子を見せて飴を受け取った。飴を恐る恐ると口に運ぶ少女は、シマリスのような小動物にも見えた。日本人は体も小さいし、少女の弱り切った様がそう見せるのだ。

「美味い?」
「……だー」
「あ、其れは判るんだな」

 覚束ない露西亜語で返事をした少女のあどけない微笑みに、強張っていた体から力が抜ける。屹度其れは少女も同じだったのだろう。やっと笑った彼女は、寂しさを滲ませ乍らも先程よりは落ち着いた様子を見せていた。だが、問題は片付いてはいないのだ。捜し人は見つからず、他に出来る事と云えば警察に頼る事しかない。
 補導されるのは嫌だ。学校に連絡されてしまうし、両親からはこっぴどく叱られるだろう。友人にだって揶揄われるに違いない。けれど、もうそうも云っていられなくなった。少女が捜し人と逸れたのは、自分の責任だ。最後まで面倒を見るのがせめてもの償いとなる。

「行こう」

 少年は、もう一度少女の手を引いた。少女は拒否する事もなく、不思議そうに自身より長身の少年を見上げ、意味も判らぬままに頷く。そして少年は歩き出す。警察署は、この通りを抜けた先に在る。先ずは其処迄行こう。そう腕を引いた時だった。

「名前」

 音も気配もなかった。引いた少女の手を奪うように、彼女の背後から伸びた青白い指が少年の手を引き剥がした。其の冷たさにハッとして振り返る。其処には長身の露西亜人が立っていた。血の気のない青白い肌をした細身の男だった。肩程迄の黒髪。俯ついているせいで顔は見えない。飛び込んできた少女を両腕で確りと抱き留めた男は、彼女の耳元で、日本語で何かを囁く。少女がうっとりとした表情をして、男の背に腕を回したのが見えた。心がざわつく程、見ている此方が恥ずかしくなるような親密さだ。少女の背中に両腕を回したまま、男が顔を上げる。男は、死人のような顔をしていた。顔立ちは端整なのに、まるで生気が感じられない。以前葬式で見た亡くなった親戚がちょうどあんな顔をしていたように思う。

「ありがとう。この子を保護して呉れたのでしょう?」

 露西亜人にしては小さな声は、やけに頭の中に響いた。こくりと一度首を縦に振る。男はしがみ付く少女の背を撫でたまま薄っすらと微笑んだ。

「学生ですか。貴方、学校は?」
「……あんたには関係ないだろ」
「ええ、そうですね。失礼しました。ですが一介の大人としてサボりは感心しませんね。今からでもいいから学校へ戻りなさい。この子を助けて頂いたお礼に今日は見逃して差し上げますから。ね?」

 死人のような男の口から次々と零れ出す正論に言葉が詰まる。男の注意は、もう少年へは向いていなかった。腕の中の少女の目線に合わせるように腰を折って、白い手で泣きじゃくる少女の頬を撫でている。男が幸福そうに目を細めて、少女の目尻に唇を寄せた。飴を舐めていたあどけない少女の表情が変わる。まるで見せ付けるような其の光景に、一気に頬が熱くなった。
 云い様のない感情に突き動かされるように其の場を駆け出す。鞄を大きく振り乍ら目指したのは学校でなく自宅だった。両親に叱られるのは覚悟の上だ。ただ男の云う通り、学校に行くのは嫌だったのだ。

 然し、未だ昼間だと云うのに帰って来た息子を、両親は怒らなかった。其れ処か目に涙を溜めて強く抱き締めて来る始末である。なんだ。異様な空気に少年は、母の腕の隙間からリビングのテレビを見た。そして気が付く。テレビには、少年の学校が映っていた。生中継された現場からはモクモクと黒煙が上がっていて、記者が早口に現状を伝えている。突然の爆発により校舎は大破。死者行方不明者は――血の気が失せる。体から力が抜けて、少年は床に崩れ落ちた。

 あの男だ。

 直ぐに少年は気が付いた。あの生気のない男からは、火薬の臭いがしていた。離れた自分ですら気が付いたのだから抱き込まれた少女も気が付いていた筈だ。其れなのに何の疑問も抱かず、男に縋りついていたのか。心臓が暴れて呼吸も覚束ない。途方のない絶望感に少年は頭を抱えて蹲る。心配する両親の声が遠くに聞こえていた。
 若し、あの時学校へ戻っていれば自分は死んでいた。男は、自分を殺す心算で学校へ戻るように云ったのではないか。何故、何故。自分が、学校の生徒や教職員が何をしたと云うのだ。混乱する頭で考えたって判る事はない。ただ、唯一判るのは、自分はもうあの男にも少女にも会う事はない。会わないように、生きて往きたいと。生中継の声を聞き乍ら、そう願っていた。

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