あえかな君と共に生き | ナノ

僕らの上には美しい夏空があった


 翌朝、夜蛾先生からメールが届いた。
 無事、学長には許可を貰った旨、夏油君の休学並びに休業期間は今日から一ヶ月間となる事。ただし特級呪術師が必要となる緊急の場合においては直ちに高専へ帰還する事。休学中の全権は二級呪術師である私に一任される事。週に一度は夜蛾先生へ状況を報せるメールを送る事。後は細々したルールが幾つか――当初の想定より遥かに軽く済んだ内容に、私は寝起きの腑抜けた顔のままホッと息をついた。
 昨晩、日付が変更する頃ようやく辿り着いた我が家に上がった夏油君は、大きな身体を小さく縮めてまるで借りて来た猫のようだった。年月を感じさせる座敷に敷いた布団の上、ボンヤリと周囲を見渡した彼に「おやすみ」と告げたのは、もう九時間は前になる。そう、要するに寝坊した。七時にかけたと思い込んでいた携帯のアラームは鳴らず、夜蛾先生からのメールの受信音で目を覚ました私は、うんと背伸びをして漸くベッドから降りた。
 階段を下り一階へ足を踏み入れると、夏油君は既に起きていた。座敷の障子を開けた先、庭に面した縁側に足を投げだして携帯をカコカコと操作しているようだ。

「おはよう。よく眠れた……わけじゃなさそうだね」

 私の気配に気づき、こちらを振り返った夏油君の顔色は、昨晩見た時同様に青白い。勿論目の下の隈もそのままで、彼は困ったように眉を垂れて笑った。

「おはよう。何時もよりかは眠れたからそんなに心配しないで」
「何時に起きたの?」
「六時半くらいかな」
「寝付いたのは?」
「……四時過ぎ」
「そっか」

 起床時間は、寮生活の習慣としても寝付いたのも明け方となると、やはり心配にもなる。私から視線を逸らした夏油君は、外から差し込む陽光に眩しそうに目を細めた。それにより、目の下に浮かんだ隈がより鮮明になって。胸の内側がざわつく。

「起きるのが遅くなってごめんね。朝食食べられそう?」
「うん。貰おうかな」
「時間がないからパンと簡単なのになっちゃうけど、いいかな」
「うん。大丈夫」

 返事が少しだけ遅かった。しかし、夏油君の表情に変わりは見られない。微かな異変を覚えつつ、顔を洗いに洗面所へと向かった。
 急ぎ用意したのはトーストとジャム、目玉焼きと即席のコーンスープ。一応彩りと栄養を考えて冷蔵庫に入っていたトマトとレタスを添えてはみたが、ほぼ無理やり連れて来た手前、もう少しちゃんとした物を用意してやれなかったのかと自分を恥じた。片付けが終わったら買い出しに行こう。夏油君の着替えや生活必需品も買い足さなきゃいけない。
 互いに会話をしない静かな朝食は、十五分程で終わった。夏油君は、コーンスープには口をつけなかった。

「買い出しなら私もついて行くよ」
「夏油君、家でゴロゴロしていてもいいんだよ?」
「昨日と今朝と十分ゴロゴロさせて貰ったさ。それに名前、私の服のサイズ分かる?」

 ぐうの音も出ない。ごもっともである。
 高専から離れた田舎町は、何時だって静かだ。真夏の太陽の照り付けるアスファルトの脇には雑草が生えていて、近所のおばさん達が定期的に草むしりしている。井戸端会議に勤しむご近所さん達に会釈しながら通り過ぎると、彼女達の視線は、この町から浮いている夏油君へと向いた。今頃、井戸端鍵は彼の話題で持ち切りになっているに違いない。田舎の狭いネットワークだ。明日には、苗字さんとこのお孫ちゃんが男を連れ込んでいるなんて言われるのだろう。
 こんな田舎町でも一応大型スーパーなる物は存在する。とは言え、都心で見る大型スーパーに比べれば月と鼈。規模がまるで違うのだが、この町の住人達はある程度何でも揃うこのスーパーを皆重宝していた。カートを引いてまずは、衣服を見に行く。夏油君の言う通り私は彼のサイズを知らないので選ぶのは全て彼に任せた。

「これだけでいいの?」
「ティーシャツ二枚とスウェットに替えの下着。これだけあれば十分だよ」

 夏油君が選んだ服や下着は、全て合わせても五千円でお釣りが来た。給料の桁の違う特級呪術師だし、五条君のようにお高い服を選ぶかと思われていた彼だが、意外とその辺は庶民的らしい。袋詰めされた夏油君の服のサイズはXL。覚えておこう。
 その他、細々した買い物を済ませている内にお互いの両手はスーパーの袋でいっぱいになっていた。現在時刻は十四時を過ぎた。昼時は過ぎたが、朝食も遅かった為お腹の空き具合もまさに今がベストタイミング。冷房の効いたスーパーを出て家とは逆、少しばかり栄えている駅前の方角を指差して夏油君を呼び留める。

「せっかくだしお昼食べて行こうか! 駅前に美味しいお蕎麦屋さんあるんだよ。夏油君、蕎麦好きだったよね」

 食欲がない様子の夏油君も好物で、しかも喉越しのよい蕎麦なら食べられるだろう。そう見込んで提案してみたのだが、どうやら外れてしまったらしい。
 自分の必需品と重い荷物を全て引き受けてくれた夏油君は、明らかに一瞬表情を強張らせた。黒々とした瞳が更に暗く見えて息を呑む。それが伝わったのだろうか。彼は、小さく謝罪を入れながら「そうだね」といつも通りの笑みを浮かべた。

「夏油君、無理しなくていいよ?」
「え? そんな事はないよ。君の言う通り蕎麦は好きだし、もうこんな時間だしね。食べて帰った方が効率的だろう」
「でも……」
「いいって。ほら、行こう。方角はこっちで合っているのかな」

 無理をしている。物が減った寮の自室。今朝残したコーンスープ。今し方の強張った表情。全て私の憶測でしかなく、またはっきりと答えが出たわけでもない。けれど、無理をしていると、それだけは理解出来た。

「夏油君!」

 荷物を持った彼の腕を掴む。半年前記憶していたより細くなった腕が、ピクっと小さく震えた。昨晩と同じだ。

「食べたい物なに!?」
「え、名前……どうし、」
「私、そこまで料理のレパートリー多くもないし上手くもないけど、頑張って何でも作るよ! まだスーパーもそこだし足りない物は買い足せるから食べたい物があったら何でも言って」
「……気を遣わせてしまったな」

 振り返った夏油君は、困ったように微笑んでから目蓋を閉じた。すうと息を吸いこんでゆっくりと吐く。深呼吸を一度、それから目蓋を開いた。視線が合う。少し恥ずかしそうに肩を竦めて彼は、今にも震え出しそうな小さな声で答えを返してくれた。

「本当に何でもいいんだ。食欲もあまりなくて。でも、呪術師である、いや、名前が作ってくれた物なら口に出来ると思う。今朝もね、君が用意してくれたから食べる事が出来たんだ」

 そう言って夏油君は、私の腕を引いた。進行方向は変更され、先程通った道を辿り始める。ミンミンと泣き続ける蝉の声を聞きながら必死に昼食や夕食の献立を考えた。

「ねえ夏油君、どうせなら蕎麦打ちに挑戦してみる?」
「ぷっ、ははっ」



 結局、時間もなかったので蕎麦打ちはまた別の機会という事になった。昼食は朝食同様簡単に済ませて――けれど即席の物は出さなかった。さて、次は夕食である。胃に優しく和食にしようと決めていたので早速準備に取り掛かる。

「……」
「夏油君」
「ん?」
「こんな所で私を見ていてもつまらないでしょう? 向こうでテレビ見ていてもいいよ」
「ん。んー、テレビを見る気にもなれなくてね。料理をしている名前を見ている方が何倍も楽しいよ」
「……失敗しても笑わないでよ」
「はは、勿論」

 煮物に入れる野菜に包丁を入れつつ背中に刺さる視線に耐える。しかし、互いに無言ではどうにも居心地が悪い。雪平鍋をかけたコンロに火を点けた後、振り返ってみれば予想通りこちらを見ている夏油君とばっちり視線が合う。至近距離だと言うのに、彼はヒラヒラと片手を振って笑ってみせた。今朝や昼間に見た笑みより幾分か楽になったその表情には安心するものの、居心地の悪さは拭えない。

「夏油君、お味噌は赤派? 白派?」
「うーん、白かな」
「良かったぁ。家も白だから赤味噌派だったら買い足そうと思ってたんだよ」

 あまり使われる事もなく物置となっているダイニングテーブルから夏油君が腰を上げる。コンロの上の鍋を覗き込むように腰を曲げて「美味しそう」と頬を緩めた。

「あんまり作った事ないの。不味かったら無理しないでね」
「そうなのかい? 良い匂いだけど」
「そりゃあ調味料は合っているからね。問題は味付けですよ」

 みりんや醤油、砂糖等、一般的な調味料を入れ終えた鍋に落し蓋を掛けて火を弱める。後は味が染みれば完成だ。他のおかずもほぼ準備は終わっていて、他にする事と言えば味噌汁に味噌を溶く事と途中出た洗い物をするくらい。冷蔵庫から長年愛用している味噌を取り出しつつハッと気が付いた。

「夏油君、今日のメイン鱈の西京漬けなんだけど食べられる?」
「え?」
「その、手作り出来たらよかったんだけど時間もなくてさっきスーパーで買った物になっちゃうから……」
「そこまで気を遣わなくていいのに」

 夏油君の前、弱火ぐつぐつと煮ている野菜や鶏肉は私の手作りと言っていい。味噌汁もそう。米も、まあ丁寧に洗って焚きはしたから許してもらいたい。けれど今日のメインである鱈の西京焼きは違う。グリルに掛けるのは私だが、味付け等手間はかけていない。
 夏油君は、スーパーの前で呪術師である私の作った物なら口に出来ると言った。それは即ち、非術師である人間の作った食べ物――そう、即席料理等は口に出来ないという事だ。理解した気でいて、今の今まですっかり失念していた自分が嫌になった。無理やりこの家へ連れ帰って夜蛾先生に夏油君の事を頼まれたくせに、詰めが甘いと言うかなんと言うか。冷蔵庫の中身を確認しつつ、今からでも別の料理が作れないか頭の中の引き出しを探り続ける。煮物に入れた鶏肉のあまりがある。西京焼きは私が食べるとして、彼にはこれを焼くか。漸く完成した脳内の献立に、急ぎ取り掛かる。

「名前、本当に良いんだよ。そんなに気を遣わないでくれ」
「大丈夫! それにね、夏油君。私、気を遣っているわけじゃないからね」

 鶏肉に火が通りやすいように切り込みを入れた後、下味をつけて油をひいたフライパンに掛ける。皮の焼ける音が響き、食欲をそそる香りが漂い始めた。焦げる事のないようにフライパンから視線を逸らさぬまま続ける。

「今の君は休学中で休業中。それでいてここに連れて来たのは私。だから年頃の男の子らしく我儘を言ってもいいんだよ。私に出来る範囲でなら叶えられるよう努力する。気を遣っているわけじゃないよ。ただ、私がそうしたいだけだからそこは間違えないでね」

 数秒の後クッションの沈む音がした。夏油君が椅子に腰掛けたのだろう。想像していたよりも大きな音だったからフライ返しを持ったまま思わず振り返る。
 夏油君は、テーブルに肘をついて大きな掌で顔を覆い隠していた。黒いピアスのついた福耳が赤い。どうやら、彼らしくもなく照れているらしい。

「名前……君、私に甘すぎるよ」

 一応の納得はしてくれたようだ。二年間共に高専で過ごしてが来たが、こんな姿の夏油君はレアだ。何だか可愛らしくって肩を震わせて笑い声を押し殺していると指の隙間から物言いたげなジトっとした眼差しが突き刺さる。と、鼻孔を嫌な香りが擽った。

「ああ!?」
「え!? なに?」

 一気に料理へと意識が引き戻される。慌てて返した鶏肉の片面は、美味しそうなきつね色を通り越して僅かに黒くなっていて、油を吸ってぷすぷすと音を立てていた。
 用意出来た夕食は根菜と鶏肉の煮物と味噌汁、ご飯、私の不注意で少し焦げてしまった鶏肉のソテー。それと私用にスーパーの魚屋さんお手製の鱈の西京焼きである。想定より黒くなった鶏肉に夏油君は何も文句は言わなかった。煮物も味噌汁もご飯も綺麗に平らげて、彼は「美味しかった」と笑う。

「名前、その……明日のご飯リクエストしてもいいかい?」
「っ、うん、勿論!」

 共同生活一日目。夏油君は二十三時には布団へ入った。全ての片づけを終えて二階に上がる間際覗いた座敷に灯りは点いておらず、彼が被った布団はゆっくりと上下を繰り替ええしている。それが私には、とても嬉しくてたまらない。熱くなる目蓋を冷ますように首を振って急ぎ足に自室へ飛び込む。すると夜蛾先生からメールが入った。
 傑の様子はどうだ。明日高専へ戻るのか。そんな内容の文面に、先程入浴を終えてから交わした会話を思い出しながら文章を作成する。

「名前が良ければ、もう暫くここに居てもいいかな」

 不安そうな、それでいて少し恥ずかしそうな言葉に対する私の返事は勿論最初から決まっていた。

 もう暫く私の方で様子を見させて下さい。

 送信を終えて布団に転がる。目覚ましのアラームはセットした。明日は、ちゃんと起きて朝食を用意出来そうだ。

20210606