あえかな君と共に生き
五条悟君から電話があったのは二日前の事だ。
東京呪術高専を卒業し、多くの先達と同様に高専所属呪術師としての生活を始めた私は、すっかり後輩の存在を忘れ去っていた。だから携帯の画面に表示された五条君の名前にひどく驚いてしまった。そもそも私、五条君と連絡先交換していたのか。身に覚えはないけれど彼の事だから勝手に登録したに違いない。
五条悟君。呪術界御三家の一つ五条家の嫡男で次期当主。六眼と無下限呪術を併せ持った天才児には、在学中それはもう苦労させられた。当時の記憶を思い出して伸ばした指先が一瞬躊躇する。しかし、着信音は鳴り止まずそれどころか大きくなっているような気もしてきた。さすがに五条君でも人の携帯の着信音を遠隔で大きくする術は持ち合わせていないだろうし、これは確実に私の脳の錯覚である。怯みそうになる気持ちを奮い立たせて通話ボタンを押した。天上天下唯我独尊を地でいく後輩様は、開口一番「おせェ……」とドスの効いた声を発する。今すぐ通話を切りたくなった。
「ご、五条君どうしたの? 私に電話なんて珍しい……と言うか初めてじゃない」
『お前今どこ』
「家ですけど」
『今すぐ高専に来いよ』
「いや、もう夜になるしそれは厳しいかな」
『なら明日は』
「明日は任務が……」
『チッ!』
舌打ちした。しかもこんなに響き渡るほど大きく。隠す気はまるでない。
親指が終了ボタンに掛かる。だが私は耐えた。この場で通話を切れば後が更に恐ろしくなる為だ。
『じゃあもう二日後でいいや。任務で俺いないけど高専来て』
「ええ、その日も夜になっちゃうんだけどな。そもそも何で高専に?」
『いいから傑と会え。そしたら分かる。分からないとまた投げ飛ばす。それだけ。絶対来いよ』
用件を言うだけ言って、私の返事を待つ事もなく切れた通話に唖然とする。私が卒業してから早半年。五条君の傍若無人は、未だ変化がないようである。健やかで何よりだ。
「夏油君?」
そうして言われるまま訪れた母校。事前に告げたように到着したのは、すっかり日も暮れ、世間一般からすれば傍迷惑にも程がある二十二時。明かりも消えて真っ暗になった校舎に探し人の姿は勿論なく、どうした事か当直の先生達も見当たらない。不法侵入は問題だが、一応私も高専所属の呪術師だ。強く咎められる事はないだろう。そう自分に言い聞かせて足を踏み入れた学生寮の廊下。ようやく見つけた後輩の背中は、記憶していたより小さく見えた。
「名前……?」
信じられないものを見たかのような顔をして私を見る夏油君に息を呑む。正直に言おう。窶れた、と思った。顔色は悪いし、頬の肉も削げて、首筋やティーシャツから伸びる腕も少し細くなったように見える。
早足に近づいて、身長の高い彼を見上げる。動揺しているらしい。視線は泳ぎ、乾燥した唇は音を発する事なくはくはくと小さく動いていた。
「夏油君、痩せたんじゃない? 体調悪いの?」
「……いや、あ、その、何で君がこんな所に」
「五条君から電話があってね。何の事か分からないし、こんな時間になってしまったけど……うん、来れてよかった」
少し会話を交わしたが、夏油君の視線は相変わらず泳いだまま私のそれと交わる事はない。それに近づいてみて気が付いた。彼の目の下には薄らと隈がある。睡眠も、まともにとれていないのかもしれない。
その瞬間、昨年在学中、それと半年前の卒業式の日、僅かな違和感を覚えた事を思い出した。気にかける素振りをしておいて何故、今まで忘れていたのだろうか。何故、住所まで渡しておいて、まったく連絡を取ろうとしなかったのだろうか。半年間の後悔が次々と湧いて来る。
この半年間で夏油君に何があったのか私は知らない。それを聞く事も出来やしない。うずまきのようにぐるぐる回る感情に、今度は私の方が口を閉ざす番だった。
「名前、悟に呼ばれてわざわざ私に会いに来てくれたのかい?」
「そう、だよ」
「そっか、ありがとう。でも大丈夫だよ。これは、ただの夏バテだから時期に良くなるさ」
「……うん」
夏油君が窪んだ目尻を緩める。安心させるような穏やかな笑みだったけれど、それは逆に私の不安感を増大させた。
「今日は高専内に泊まるの?」
「ううん、家に帰るつもり」
「なら早く帰らないと。今の時間だと電車もないだろう。タクシー呼ぶから入り口まで一緒に行こう」
「っ、夏油君」
まるで仮面を張り付けているかのよう。本心を隠し私を急かす言葉の数々に、思わず声を上げてしまった。私の声は静まり返っていた廊下に響き渡って、率先して寮の入り口へ向かっていた夏油君の歩みを止める。
先程と同様、ゆっくりと振り返った夏油君は、片手で顔面を覆って項垂れていた。噛み締めた薄い唇からは今にも血が滴りそうで見ているだけで痛々しい。来たら分かる。五条君の言う通り、否、それ以上だ。多分必要とされていたと思う私の術式を使う必要もなかった。
「提案、なんだけどさ」
夏油君は、私の伸ばした手を避ける事はしなかった。けれど掴んだ大きな掌は、力なく開いたまま小刻みに震えている。らしくない。弱りきった姿だ。だから代わりに私が握りしめた。
このまま帰ったら、私はきっと心底後悔する。あまりにも向こう見ずな行動になるけれど、やらないよりは絶対にマシのはずだ。何より五条君が与えてくれたこの機会を無駄にはしたくない。
緊張で声が上擦る。自分を落ち着かせるように呼吸を整えて、彼の手を有りっ丈の力で引いた。初めて夏油君が私と視線を合わせた。
「夏油君も家に帰ろう!」
「は?」
そこから私の行動は早かった。どうやら一度口にして後戻りが出来なくなった事が幸いしたらしい。
「待ってくれ」とか「説明を」と待ったをかける夏油君の言葉を聞きながら、連絡先から探し出した夜蛾先生へと電話を掛ける。三コールの後に電話に出た夜蛾先生は、突然の電話に動揺はしていたけれど私の行動を止めはしなかった。一番反対されると心配だった学長にも夜蛾先生が口利きをしてくれる事となり、正式な連絡は明日貰うように決まった。
後、するべき事は――寮の夏油君の部屋の場所は覚えている。斜め前の部屋から恐る恐る顔を覗かせる七海君に挨拶しながらお邪魔した部屋は、案の定生活を感じさせず、物も減ってひどくこざっぱりして見えた。
「名前、頼むから説明してくれ。何故私が君の家に……それに任務だってあるんだ、簡単にここを離れる訳にはいかないだろう」
「うん、分かってる」
「分かってるって……悟や君が私を心配してくれている気持ちは良く伝わったよ。けれど、私は、呪術師として己の責務を……」
「うん。とりあえず携帯だけ持って行こうか。後は全部私が用意するからね」
「っ、名前、いい加減にしてくれ」
物が減った。好きだった筈の海外バンドのCDや雑誌漫画本、あれだけ読んでいた文庫本だって減ってしまっている。ベッドは寝た形跡もなく、備え付けの簡易キッチンに置かれているのはコップだけ。以前はあった筈のお酒に合いそうなスナック菓子の袋だってない。
それら全てが私にとって堪らなかった。この半年間、それより前からの彼の生活を垣間見たような気がして息が詰まった。同情なんて優しい言葉では表せない。もっとドロドロと煮詰まった感情が頭の中を支配して、私を後戻りさせまいと全力で背中を押していた。
「お願い、一日だけでもいいから一緒に来て。それでも夏油君が高専へ戻りたいって言うのなら、責任持って明後日ここまで送るから」
「滅茶苦茶だよ、君……」
「うん、ごめん、本当にごめん。でも、こうしたいって本気で思ってる」
引っ張り続けていた大きな掌が、やがてゆっくりと自分の意志で動き始める。私の指を引き離す為ではない。柔い力で握り返す為に、戸惑いがちに指先が動いていた。それがあまりにも優しい触れ方だったから、今度は目蓋まで熱くなった。繋いでいない方の手が、涙の溜まる私の目尻を撫でる。
「私は、君に泣かれるのは嫌なんだ。だからいいよ。名前、私を連れて行って」
在学中からそうだった。夏油傑と言う二つ年下の少年は、とても私に甘かった。時には同い年、それ以上、年上のようにも感じる日もあったと思う。今日も同じだ。彼は、こんな我儘でさえ優しく聞き入れてくれる。
許可を得て、もう一度腕を引く。夏油君は拒んだりしなかった。足が、全ての詰まった寮の部屋を出た。事前に呼んでおいたタクシーは直ぐに来て、誰に引き止められる事もなく高専敷地内を後する事が出来た。揺られる車内。母校がどんどん小さくなって行く。三年間眺め続けてすっかり見慣れた田舎町を見つめていた夏油君は、思い出したように私の方へ首を曲げた。
「言い忘れていたよ、名前。あのね」
夏油君は一呼吸置いて、今にも泣き出しそうに笑った。それは、無理に大人びてなんていない。年相応の笑みだった。
「きっと、私も君に会いたかったんだ」
その言葉に、私はまた少しだけ泣いた。罪悪感で重くなる私の胸まで軽くしてくれる。彼は、本当によく出来た後輩だ。
夏油君は、小さく笑って握り合ったままの手に今度こそ強く力を込めた。互いの手は、私の家に着くまで片時も離れる事はなかった。
二〇〇七年八月某日。この時、私は十九歳。夏油君は十七歳。日付が変わる頃、束の間の共同生活が幕を開けた。
20210604