あえかな君と共に生き | ナノ

大人のふりをする


「そう言えば金髪で上半身裸の男……っぽい人、あれって誰なの?」

 それは高専へ向かう車中で落とされた一種の爆弾だった。怪我が深刻な夏油に代わり、珍しく名前が運転する車は思いの外静かに田舎町の車道を走っている。家を出てしばらく。もう少し走れば高専敷地内へ入る。
 後部座席でうとうとと微睡んでいた菜々子と美々子は互いを。助手席の夏油は窓の外を眺める。三人とも考えていることは同じだ。ラルゥのこと、なんて説明しよう。

「彼、いやかの……ううん、ラルゥは教団のメンバーでね。女性の感情にも敏感なものだから、なにか言われたかな?」
「あー、まあ、ぼちぼちと」
「よりによってラルゥとぶち当たるとか名前運悪ーい」
「菜々子、正直すぎ」

 聞こえてるからね、二人とも。と言うかぶち当たるよう最初から仕向けられてたようだったけど。思わずハンドルを握りしめる手に力がこもる。それに気がついたのは、助手席からずっと名前を見ていた夏油だけで、彼はハッとしたように後ろを振り返ると細く息を吐きながら娘達に人差し指を立てた。

「いらっしゃーい。二人とも一夜明けたご感想は?」

 学長室に並んで座る夏油と名前は、やけにテンションの高い五条に鼻白んだ。しかし、それを一々気にするような殊勝さなど五条悟という男は持ち合わせていない。五条に遅れて学長室へ入って来た夜蛾も同じだろう。夜蛾は両手を振る五条の横を通り過ぎて学長席につくと長く重い息をこぼした。流石にこれには背筋が伸びる。とは言え、実際居住まいを正したのは名前だけで、夏油は五条と「身体中痛いんだけど治療費って君が出してくれるの?」だの「僕にたかる程困ってないだろお前。自腹だよ自腹」だのと何時もの様子を崩さない。

「傑、名前」
「はい、学長」

 そんな親友二人のじゃれ合いに終止符を打ったのは夜蛾の一言だった。先程までの態度はどこへ行ったのか、緊張はしていない様子ながらも真摯な態度で夜蛾へ向き合った夏油は、これから何を言われても受け入れるつもりでいる。開いた膝の上で両手を組んで切長の目をスッと細くした。

「今回の一件、悟と組んでの暴挙だと聞いているが異論は?」
「ありません。楽しくなり過ぎました」
「名前、お前もどんな理由があったにせよ任務を途中放棄したことは間違いないな」
「そうです、はい」

 夜蛾の言う通りだ。どんな事情があったにせよ、名前が与えられた任務を放棄したことに変わりはない。罰せられたとしても従うつもりでいた。だが夜蛾は再度、さらに重いため息をついて頭をかいた。いつまで経っても処分内容を話そうとしない。

「学長、今回の件ですが名前や他の術師は関係ありません。罰するのなら首謀者である私と悟だけにしていただけませんか」
「え、なにしれっと僕入れてんのこいつ」
「夏油君! なんでまた一人で背負いこもうとするの!」
「いや、僕も入れられてんだけど。聞けよ、おい」

 まるで学生時代のこいつらを見ているようだ。夜蛾の頭痛がひどくなる。両手で額を支え「そこまで」と声を張った。すると夏油も名前も、横で不満を口にしていた五条も止まる。全員の視線が夜蛾へ注がれていた。

「心配しなくとも名前に降格や減給処分はない。勿論、身体的な処罰もな」
「当たり前でしょう。そんな事したら上層部の爺共の首を取りますからね、私」
「傑、口を閉じろ。余計な処分まで増やされたくはないだろう」

 昨日の乙骨との戦闘で手持ちの呪霊は使い果たしたはずが、どういう訳か現在、夏油の背後からは鋭い爪の生えた手が伸びている。

「道中で拾ました」

 とうの夏油は悪びれもせずこれなのだから、他の面々は揃って肩を落とした。ここまで共に来た名前も気がつかなかった。とんだ早業である。

「個人的に言いたいことは山ほどあるが、上からの処分を伝えるぞ。悟、お前もだ」

 一呼吸置いて、夜蛾は続ける。

「まず、今回の被害についてだ。紙に纏めてあるからザッと目を通せ。損害額は確認したな」

 夏油が書類を受け取り、五条と名前がそれを覗き込む。そして、名前はギョッと目を見開いた。目玉が飛び出るほど高額であるとは予想していたが、それでも想像より桁が一つ多い。
 夏油が百鬼夜行を仕掛けたのは京都と新宿、それと呪術高専。名前は当初、新宿にいたのでその被害の大きさは目に焼き付いている。なるほど、それが三つ分。ならばこの金額も致し方ない。問題は、夏油と五条の反応だ。名前は恐る恐ると二人を見上げ、スッと目を細めた。

「よかったー、思ってたより少ないじゃん」
「半額ずつとして、預金の三分の一ってところかな……うーん、菜々子たちの今後を考えるとあまり使いたくはなかったけど仕方ないね」

 特級呪術師二人の狂った金銭感覚にはついていけない。夜蛾も同じ気持ちだったようで米神に青筋が浮かび上がった。それに呼応するように大人しく机上に座っていた夜蛾お手製の呪骸が飛び上がる。まずは無下限を解いていたらしき五条の腹に一発を、次いで夏油の頭頂部に拳を振り下ろした。一見、柔らかなぬいぐるみであるが夜蛾の呪力が込められた彼の拳は想像を絶する威力を誇る。パンダが良い例だ。そう言えば、パンダも大怪我を負ったと聞いていたがもう直してもらえたのだろうか――と名前が考えていると「続けるぞ」と地を這うような低い声で夜蛾が呟く。

「損害額の支払いは当然として、処分に関してだが……傑、お前には高専所属の呪術師となってもらう」
「嫌です。耐えに耐えてやっとの思いで卒業したんだ。また猿共のため命を賭けるなんて死んでもごめんですね」
「お前の事情は理解している。だがな、お前はそれだけの処分が下されることをしたんだ。危険分子は組織で管理する。至極真っ当な理由だと思うが」

 夜蛾の言葉は耳が痛くなるほど正論で、夏油は口を噤むしかなかった。しかし、その表情は不服そのもので、横で会話を聞いていた名前は一人胃を痛める。後頭部で腕を組み、明後日の方角を向いている五条がなんとも恨めしい。

「そして、名前」
「は、はい」

 いつの間にか話題は夏油から名前へ移っていて、胃を押さえていたせいか反応が遅れてしまった。弾かれたように顔を上げると、夜蛾の真剣な眼差しに射抜かれる。いざ処分内容を聞くとなると、緊張してしまうのは根が小心者だからなのか、それとも人間の性か。固唾を飲んだ名前に呼応するように夏油も夜蛾へ視線を向けた。

「お前の処分は――」

 そして、処分内容が発表された次の瞬間、高専学内に特大の警報音が鳴り響いた。



 帰宅は、昨日と同じ午前零時をゆうに超えた真夜中となった。近所迷惑にならないよう、そして何よりあらぬ誤解を招かぬよう、細心の注意を払い車を停めて、まずは後部座席でグスグズと鼻を啜る菜々子たちを家へ押し込む。玄関に突っ立ったままの二人に靴を脱いで早くシャワーだけでも浴びてくるように伝え、もう一度自宅横の駐車場へ戻った。

「夏油君、そのムスッてした顔いい加減やめてよ。菜々子たちも気にしてるから」
「だって君ね」

 出発した時と同じように助手席に座ったままの夏油は、腕を組んだまま剣呑な眼差しを名前へ向ける。彼は心底苛立っていた。決して名前に対してではない。夜蛾に対してでも、多少腹は立つが五条にでもない。高専上層部に対する怒りであった。
 遡ること数時間前、夜蛾の口から告げられた名前の処分は本人にとって、そして夏油にとっても予想外のものだった。
 名前には、憂太と共にしばらく海外へ行ってもらう。
 まさか、そんな処分が下るなんて誰も思わなかった。降格、もしくは二ヶ月分の減給、そのくらいが妥当だと考えていただけに、その内容はあまりにも予想外で衝撃的なものだった。
 そして、夏油はキレた。本人は驚きのあまり返事も返せないでいるというのに、横で聞いていた彼の方がいち早く内容を理解し、怒りを露わにした。
 どうやら道中取り込んだ呪霊は一体だけではなかったらしく、合計三体もの呪霊を顕現させた夏油は禍々しいオーラを放ちながら学長室を飛び出した。否、飛び出そうとした。あれは上層部へ乗り込むつもりだった。本当に首を刎ねてやるつもりでいたに違いない。大音量の警報音が鳴り響く中、五条が夏油を羽交締めにし、外にはいつの間にか美々子、菜々子を始めとした在校生のギャラリーが出来ていた。
 思い出すだけでも胃が痛む。穴が開きそうだ。事情を察知した美々子が泣き出し、つられて菜々子も泣いて、名前は混乱のまま二人を宥めるのに必死になった。背後で喧嘩を始めた夏油と五条の仲裁は、大ベテラン夜蛾に任せることにした。

「海外だよ、海外。分かってる? 国内とは訳が違うんだよ。距離だって馬鹿みたいに離れてるし時差だってある。気軽に連絡だって取れなければ、挙げ句の果てに乙骨と一緒だって。こんなふざけた話はないだろう」
「……あのねぇ、夏油君」

 重いため息を吐いて片手を額へ当てた。どうやらまだ家へ入れそうにはない。

「海外へ行くって言っても、後任が見つかるまでの期間限定。携帯だってあるんだから連絡はいつでもつくでしょう」

 そう、何も永遠に海外へ行くわけではないのだ。何かと不安定な乙骨のサポートがメインで、呪霊を祓うことが目的ではない。名前の術式を文字通り有効活用しようとしただけであって、夏油に対する嫌がらせなどでは断じてない。なんなら後任者が見つかれば直ぐに日本へ帰国だって出来るよう、あらかじめ夜蛾が話をつけてくれていた。向こうへの滞在期間はどんなに長くとも三ヶ月ほど。春には必ず戻って来ることが出来るだろう。
 それでも夏油は不服なようで、ただでさえ切長の目を更に細くさせて口もへの字に曲げてしまっている。このままでは埒があかない。名前は、半ば強制的に夏油を車から下ろすと、大きな背を押して玄関へ押し込んだ。
 廊下奥の浴室からはシャワーの流れる音がする。美々子と菜々子は、名前の言いつけを守り早速二人で入浴を済ませてくれているらしい。

「寂しいんだ」

 先に靴を脱ぎ、リビングへ入ろうとした名前はその言葉に動きを止めた。あまりにも直球で正直な感情を吐露した夏油へ首を回し、パチパチと瞬きを繰り返す。

「夏油君」
「なに」
「昨日から、素直だよね」
「私はいつでも素直だったよ、先輩」
「わあ、嫌味っぽい言い方」

 夏油は玄関に立ったまま、いつまで経っても靴を脱ごうとしなかったので名前が腕を引きに行ってやるしかなかった。大怪我を負った彼の右腕はずっしりと重たく、外気に触れてすっかり冷たくなっていた。
 熱を刷り込むように手の甲を撫でる。すると夏油は瞳を揺らして、名前の肩へ額を埋めた。

「行かないでくれよ、やっと君に想いが通じたのに離れ離れなんて寂しすぎる」

 普段格好つけなのに、こんなにも明け透けに本心を語るなんて、本人でも無意識の内に相当弱っているんだろうな。
 立派な体躯に似合わぬ弱々しい仕草にそんなことを考える。そっと右手を離して、代わりに背を抱いてみた。すると、ゆるゆると腰に腕が回されて距離は更に縮まった。

「私だって寂しいよ。夏油君や美々子や菜々子と離れるのって初めてだし、多分向こうで泣いちゃうかも」
「なら行かなきゃいい」
「うん、でも行かなきゃなんだよ。分かるでしょう」
「……分かりたくないな」
「その言葉は分かってる証拠だね」

 撫でた背中はゴツゴツとしていて、短期間とは言え少し痩せたように思えた。これから名前は家を開けることになるので、彼はますます痩せるかもしれない。学生時代の頃のように、とまではならないだろうがそれでも心配だ。

「連絡するから。ちゃんとここに帰ってくるよ。ね、だから笑顔で見送って」

 不安なのはこちらも同じ。ここ数日、泣いてばかりの美々子たちも気がかかりだ。
 それでも不安に蓋をして、そっと強がりを囁いてみる。そうすると夏油は、人の機微に人一倍敏感で、何より優しいので、もうそれ以上反対することはなかった。代わりに複雑そうに小さく微笑んで「ズルいな」と名前の頬を撫でた。
 年明け、名前はここからいなくなる。お互い一先ず寂しさを隠して、必死に大人のふりをした。

20230708