あえかな君と共に生き | ナノ

開幕は高らかに


 十年間だ。初めて会った時からも含めれば約十二年もの長い月日を共に過ごしてきた。
 法律上の後見人として、そして気持ちの面でも親として育てて来た娘達が呪術高専への入学を決めた今だからこそのプロポーズだった。出来る事ならもっと華やかに、女性が好みそうなシチュエーションで行いたかったと言うのは本来目立ちたがり屋な夏油のちょっとした後悔だ。しかし、生憎夏油は非術師を嫌うし、名前も派手な物事は好まない。なので自宅のリビングで、美々子や菜々子が入浴や自身の部屋――元は名前の部屋だった――に入っている間に彼女の手を取り、かねてより用意していたビロードのケースを取り出したのだが。

 指輪を左手に、自身の手を右手に握った夏油を前に名前の表情は優れない。やや困ったような様子さえ見せて、頬は紅潮するどころか青ざめている。多分言うべき言葉を探っているのだ。十二年間も共にいたのだから彼女の仕草ひとつでも夏油は瞬時に理解出来る気でいる。
 だからこそ分かってしまう。これは良いパターンではないぞ、と。
 こんな時は、名前が口を開くより先に先手を打つ事が大事だ。握った手を数センチほど自分の方へ引き寄せる。

「十年間だ。名前、君が私を支えてくれてからそれほどの長い時が過ぎた。いい加減、ケジメをつけたいんだ。私を君の正真正銘の家族にしてくれないか?」

 どんな傑物でも焦れば自然とボロが出る。名前の表情が曇り、視線が下を向いた時、夏油は「あ、しまった」と思った。しかし、一度声に出した言葉は、そう簡単に撤回出来るものではない。焦りはさらに強くなり、じんわりと掌に汗までかいてきた。こんな緊張感、ここ十年で一度も感じたことはない。

「……夏油君、あのね」
「いや、いいんだ。混乱させてしまってすまなかったね、名前」

 名前の口から飛び出す言葉は想像がついて、それを聞きたくはなくて、覆い被さるように声を張った。彼女の小さな手を解放し、滲んだ汗を拭いながら席を立つ。
 この場に居られる心の余裕はない。一度、家を出よう。少し頭を冷やせば何かいい方法が浮かぶはずだ。いや、そもそもいい方法ってなんだ。自問自答を繰り返す夏油は、着の身着のまま家を飛び出した。その際、名前に何か告げた気はしたけれど、内容を覚えていない。出掛けてくる、だとかそういった当たり障りのない言葉であった事を願う。

 車の運転なんてする余裕もなくて、暗い夜道で顕現させた飛行型の呪霊の背に乗る。十一月になり、すっかり冷たくなった夜風を浴びながらポケットの中で握りしめていたベルベットの質感を確かめていた。



 うっわ、もう出来上がってんじゃん。居酒屋でよく見る簡素な仕切り障子を開け放って、五条悟は目元に巻かれた包帯を僅かに押し上げた。彼の青い視線の先には、ただでさえ良いとは言えない目つきを更に悪くさせて一升瓶を掴んだ夏油の姿があった。周りには空になった瓶やグラスが散乱し、頬や目元は真っ赤に染まっている。下戸の五条にだって分かる。この親友、自分が来るまでの間にも浴びるように酒を飲み、既に泥酔しているのである。

 呪術高専最寄駅からほど近い小さな店は、彼らより十以上年上の元呪術師が営んでいる。呪術師としての第一線から退いた店主は物静かな人物で、様々な事情の絡む夏油や五条も居心地が良く気に入っていた。特に非術師を嫌悪する夏油にとってこの店は唯一気兼ねなく利用出来る飲食店であり、五条のマンション以外で飲む時は時折利用していた。なので「来い」と一言、あまりにも不躾な連絡が来た時、五条はここだ、と思ったのだ。予想は勿論大当たり。赤く据わった目付きの夏油の前に座り、何時ものようにコーラを頼んだ。

「飲めよ」
「僕が飲めないの知ってるでしょ」

 絡み酒とはなんともらしくない。直ぐに運ばれて来た瓶を傾け、グラスにコーラを注ぐ。しゅわしゅわと炭酸の弾ける音を耳に挟みながら、あまり手をつけられていない料理に箸を伸ばした。どうせここは夏油の奢りだ。こんなに酔っ払っていても完全に理性を手放す男ではなく、しかも義理堅いこの親友は最後には非礼を詫びて、あまり使われてもいない財布を取り出すに決まっている。

「名前にフラれた」

 どうしたの、と聞く暇さえなかった。五条が問いかけるよりも早く本題を切り出した夏油に、思わず箸を取りこぼす。割り箸が机に叩きつけられたのを合図に「はあ?」と頬を引き攣らせた。

「なに、どういう事」
「プロポーズしてフラれた。いや、暗にフラれたと言った方がいいな。最後は私が墓穴を掘った。あんな風に言えば名前が気にするのは分かってた筈なのにね」
「プロポーズ? フラれた? 情報多くない?」
「と言う事で今日は家に帰る勇気がないんだ。朝まで付き合ってくれ」
「ここ一時には閉店ですけど?」

 まさか家にまで押しかける気か。あり得る。
 流石に只事ではないと悟れる親友の様子に、五条は立てていた膝を畳へ下ろして聞く体勢を取った。

「て言うか、なんで今更プロポーズ?」
「美々子と菜々子も高専への入学を決めた節目だし、そろそろいいかなって」
「お前、名前の家に住むようになって約十年だっけ?」
「そうだけど」
「その間、まっったくそう言う雰囲気になったりもしなかったわけ?」
「君の言うそう言う雰囲気が何を指すのかは分かりかねるが……まあ、そう思ってくれていいんじゃないか」

 そう言って夏油はジョッキの中身を一気に煽った。すっかり空になったのを見計らい、追加を注文する。
 平日の深夜帯という事もあって店内の客は、五条らだけで、追加のビールは直ぐに運ばれて来た。普段は非術師生産の酒など飲みもしないくせに、店主――呪術師が用意してくれた物だと自分に言い聞かせて飲んでいるに違いない。それが酔いを加速させているのも事実で、五条はそっと中身が一気に半分以下になったグラスを引いた。

「じゃあさ、傑。ちょっと大掛かりな仕事頼んでもいい?」

 五条の口から飛び出したのは、なんてことない思いつきの一つだ。人を振り回す事に長けている五条の提案。当然、どんなに泥酔していても理性を完全には手放さない夏油は訝しむ。

「いいじゃん。どうせ暫くは名前の顔も見れない状態なんでしょ?」
「君の言う仕事の内容による。なんだい、海外にでも長期出張に行けって?」
「それはまた今後、別の子に頼むつもりだから傑にはいいや。で、本題なんだけど」

 行儀悪く机に肘をついた五条が僅かに身を乗り出すと、夏油は同時に後ろへのけぞる。向かい合った同距離を保ったまま、五条は六眼の青をギラリと輝かせ、形の良い唇を吊り上げた。
 店主にも聞こえないよう声量を落とし、頭に思い浮かべるのは何かと問題のある生徒の一人。類稀なる複雑な境遇ゆえか自信はなくとも実力のある少年は、学生時代より幾度となく苦楽を共にした唯一無二の親友に任せるにはちょうどいい。

「日本で四人目の特級呪術師――乙骨憂太って知ってるよね。彼に憑いてる呪いに興味はない?」

 本格的な冬の足音の聞こえる深夜。二〇一七年十一月の事だった。

20211223