あえかな君と共に生き | ナノ

蜜月へ終わりを告げて


 美々子と菜々子は肩を寄せ合い、堅い息を呑んだ。目の前に広がる光景はあまりにも非現実的で、それを現実だと受け入れたくなかった。
 目の前に広がるのは血、血、血、一面の血液だ。酸化してどす黒く変色した血液が廃屋の床全面を染め上げている。その中心にいるのは男。美々子と菜々子をここへ連れて来た件の不審者は、虚な目をして何かを必死に呟き続けていた。

 家を飛び出した二人は迷う事なく学校裏の路地へと向かった。小学生女子ならでは伝達網で既に男子児童が行方不明になった現場は抑えていたのである。校舎の背を望む路地は薄暗く、秋空の冷たい空気を溜め込んでいた。元々、人通りが少ない道ではあるが土地柄大人の目がない場所ではない。少年とは言え、子供一人を誰に気づかれる事なく誘拐するには不向きな場所だ。
 まず、美々子に比べ身体能力の高い菜々子が足を踏み入れた。アスファルトに転がる小石が靴底で擦れてジャリと音を立てる。すると辺りの空気が一変した。何かが身体に纏わりついたかのように四肢が重くなる。空間が澱んでいるのがまだ幼い二人でも分かった。美々子もまた双子の姉妹を心配し、路地に踏み込む。菜々子は来てはいけないと口にしようとしていた。だが、口が上手く動かせなかった。目蓋を開いている事すら辛くなって気がつくとこの廃屋にいた。正確には廃屋の地下だ。二人の反対側、男の真横を通り過ぎた先にある階段からは光が見える。地上へ繋がっているに違いない。捕まえてやると意気込んでいた二人だったが、明らかに異様な空気に圧倒されてしまったのか指一本動かす事が出来ずにいた。ただ、今はこの場から離れなければと頭の中で警報音がけたたましく響いている。
 すると、ずっとなにかを呟いていた男がピタリと口を動かすのを止めた。勿体つけるような動作で顔を上げる。生気を失った青白い顔が二人へ向けられた。

「分かる……俺でも分かるぞ……呪力だろう? 君達の中にある得体の知れない塊、それが父さんが持っていた呪力なんだろう……?」

 呪力の使い道、またその正確な意味を二人はまだ知らずにいる。夏油から呪力を持っている事、またその使い道を教えてもらってはいたが、西部まで知る由はなかった。
 男は虚だった瞳に光を宿していた。乾き切って切れた唇からは「やっと見つけた」「ずっと探してたいたんだ」と次々と言葉が発せられる。菜々子は震える足に力を込めた。そして美々子の腕を力強く掴む。

「美々子、走るよ」
「な、菜々子」

 二人は確かに恐怖を感じていた。久しく触れなかった感情だったから理解するのに時間を要した。あの村、狭い檻の中、向けられる悪意や暴力。あの頃ずっと身体中を埋め尽くしていた感情に似た何かが菜々子を突き動かす。
 逃げなければならない。この場を蹴って、男の脇を通り地上へ出る。そして誰でもいい。猿でもいいから助けを求める。そうすれば夏油や名前が来てくれるはずだ。こんな男、夏油ならば簡単に斃してくれる。

 男が手前にいる菜々子に向けて腕を伸ばした。それを皮切りに菜々子も動く。座り込んだ美々子の腕を力強く引っ張り上げ、小さな身体を利用して男の脇下を通り過ぎた。やった、いける。一抹の希望が見えた。しかし、二人の足が階段へ届く事はなかった。

「きゃあっ!」

 美々子の悲鳴が聞こえ、彼女の腕を掴んだ菜々子も背後へ引きずられるようにしてその場に横倒しになる。振り向けば、男が美々子の髪を掴み立っていた。最近夏油のように伸ばすのだと頑張って手入れしていた、昨晩も名前に甘えて乾かしてもらっていた自慢の黒髪だったのに。

「逃げるなよォ!! 今まで散々ガキを捕まえて血を採ってぇっ、なのに全然上手くいかなくて!! やっと、やっとお前らを見つけたんだぞ!! なのに逃げるなんてひどいじゃないか!!!」

 あまりの怒声に身が竦んだ。だって、この男は正気じゃない。村にいた屑のような大人達ともまた違う理解の出来ない存在に菜々子の足までもが震え出した。けれど、このまま座り込んでいいはずがない。大切な姉妹を助けなければならない。
 目の前が赤く染まった。怒りが身体を動かしてくれた。ポケットに入れて来た携帯電話を男へ向ける。まだ呪力の使い方を完全に覚えたわけではなかった。夏油からは危険だからと自分や名前がいない所で使用してはいないと言われていたのを思い出す。それでも菜々子は止まらなかった。カメラを起動させ、呪霊のように歪んだ男の姿を捉える。死ね。そう呪力を込めてシャッターを切ろうとした――その瞬間だ。

 黒い影が男の側頭部へ吸い込まれるように視界を横切った。男が短い悲鳴を上げ、緩んだ手から美々子の髪が開放される。咄嗟に駆け寄って姉妹を抱きしめた。そうして、ようやく見えた影の正体に二人は込み上げるものを抑えることが出来なかった。

「げとうさまぁっ」

 長い足で男の側頭部に蹴りを入れた夏油は、倒れ込んだ男の胸倉を掴み上げていた。その目は暗がりでも分かるほど冷たく、彼の顔にいつもの笑みはなかった。

「二人共、言いたい事は山ほどあるけれど全部後にしようね。目を閉じて耳を塞いでいなさい。私の言いつけが守れるね?」

 二人は何度も首を縦に振り、言われた通り目を閉じて耳を塞いだ。それでも完全に音は遮断されない。聞こえてくるのは男の啜り泣く声のみ。夏油の声は全く聞こえなかった。だから不思議に思って目を開けてしまった。夏油が本当にそこにいるのか確かめたかったのかもしれない。しかし、それが悪手だった。その拍子、目を開けた菜々子に気づいた夏油の腕が僅かに緩んだ隙を見て男が階段へ向けて走り出す。

「猿め……!!」

 夏油が低く唸ったと同時、彼の背後から呪霊が顕現し長い腕を伸ばした。だが、男が階段に辿り着く方が早かった。逃げられる。周囲の焦り、異変を感じた美々子も目を開けて身を乗り出した。
 結論から言って男が階段を上がる事は出来なかった。階段を駆け降りて来たもう一つの影、名前がその場を見て、己の術式で全てを把握し目の色を変えたからだ。

「うちの子達になにしてくれてんのよ!!」

 名前の振り上げた足が男の顎に直撃した。今度は悲鳴を上げる事すらなく、男が後頭部から床へ倒れ込む。あまりに短く、また衝撃的な出来事に誰もが言葉を失っていた。多分、名前がその場に座り込んだのが早かったと思う。その中でも真っ先に動いたのはやはり夏油で、彼は美々子と菜々子二人を両腕に抱え上げると座り込んだ名前のそばへと駆け寄った。

「名前! 大丈夫かい?」
「う、うん。それより美々子、菜々子も怪我は?」

 夏油の腕から降りて、力無く首を横に振る。それしか出来なかった。名前は、なにかを耐えるように固く唇を結んで、それから力が抜けたように緩やかに笑った。幼い二人にも分かる。名前は、叱りたい気持ちを抑え込み、怯え切っている二人を安心させようとしているのだと。

「言いたい事、沢山あったけど……なんか力抜けちゃって、なんだったかなぁ」
「勝手に自分達だけで飛び出すんじゃありません、じゃないの?」
「あー……多分それ?」

 夏油は名前の背を支えながら、呆然とする二人を見下ろした。名前とは対照的に、彼にしては珍しく少し怖い顔をしているものだから美々子が目に涙を滲ませる。

「今回はね、流石に私も怒ってるんだよ」
「ごめんなさい……」
「ごめん、なさい」
「はい、よく言えました。私もごめんね。怖い思いをさせてしまった」

 違う、夏油様はなにも悪くない。名前だって悪くない。一番悪いのはあの男で二番目くらいに私達が悪いのだ、とそう口にしたいのに飛び出して来るのは嗚咽だけだった。まず美々子が泣き出して、それにつられるように菜々子も大粒の涙を流した。悪い事をしたと自覚している手前、夏油達にしがみつくわけにもいかず身を小さくさせていれば暖かな腕に引き寄せられる。名前の胸からはいつもの香りに加え汗の匂いもした。こんなに汗をかくほど駆け回り探してくれたのだと嫌でも分かる。だからもう我慢も出来なくなって全身の力を振り絞るようにしてしがみついた。年相応に泣き声を上げる二人の頭を夏油が撫でる。「無事でよかった」そう口にした彼の声は、いつもの優しさに戻っていた。

「それでさ……大変申し訳ないんだけど、私腰抜けて立てそうにないんだよね」
「ぷっ、はは。名前、最高」



 呪詛師の目的は自害した父親の仇打ち。夏油の読み通り怨恨の類であった。呪力を持つもの、それも非力で呪術をまともに扱えもしない自分でも捕らえる事の出来る子供の血液。それを利用すれば自分も膨大な呪力を得られるに違いない。なんとも馬鹿らしく愚かな話だ。二級呪術師に任せるよう上層部が命じたのも頷ける。

「いやぁ、お疲れお疲れー」

 廃屋の前に停まっていた黒塗りの車から降りて来た五条悟は、形の良い唇を綺麗につりあげて夏油らを出迎えた。
 支えていた名前を美々子と菜々子に預け、ツカツカと距離を縮める。そして五条の額に向けて全力で頭突きをくらわせた。

「イッーー!! こンの石頭!」
「頭突きで済んだだけ有り難く思えよ! 今回の件でどれだけ私が肝を冷やしたと思っているんだ! 私や名前の寿命が縮んだら悟、君のせいだからな!」
「はあー!? なんで僕のせいになるんだよ? 理不尽すぎんだろ!?」

 喧嘩する二人の横で、呪詛師の男を拘束した伊地知が車に乗り込む。その際一礼を欠かさないあたり出来た後輩だと名前は、現実から逃避するように目を細めた。
 なおも夏油と五条の言い合いは続く。このままでは埒があかない。名前は、久々に身体を動かしたせいで震える足に力を込めて夏油の背後に立った。そのまま、彼の長い髪を掴む。

「いい加減にして。美々子と菜々子も疲れてるんだから早く帰るよ」

 二歳年上の名前の怒りと言うものを五条は勿論夏油もまともにくらった事はない。静かに怒りを押し込めたような声色に大の男二人は即座に口を閉ざした。

 美々子と菜々子は五条が車で送ってくれる事となった。夏油と名前が車に乗らなかったのは、なんとなくだ。五条と車内で二回戦をキメる可能性があったからとも言える。また後でと走り去った車を見送り、夏油は名前の腰に腕を回して歩き出す。足に違和感を覚える彼女に合わせてゆっくりと暗くなった町を進んだ。

「先日行方不明になって発見された男の子。あの子が助かったのはある意味、美々子と菜々子のおかげだね」
「どういうこと?」
「あいつは呪力こそないが、親の遺伝か呪霊の存在を感知するほどの勘の良さはあった。私が美々子達につけていた呪霊の存在にも気がついていたんだろう」

 夏油の背におぶさったまま、名前は声に出さずに納得を示した。男はあえて少年を放したのだ。呪力を持つ子供、美々子と菜々子を誘き寄せるための餌として利用したに違いない。言い方を変えれば確かに美々子と菜々子のおかげで開放された事になるのか。心配する身としては複雑な限りだが。

「名前、すごく格好良かったよ」
「言わないで。無我夢中だったんだから……しかも終わってからこの様じゃね」
「いいさ。君があの子達のために無茶をしてくれたおかげであの呪詛師を捕縛出来たんだ。帰り道は私がちゃんと支えるから安心してよ」

 突然、名前は夏油の腕に手を添えた。そのまま足を止めて俯いてしまう。

「ごめん、安心したら涙出てきゃった」

 夏油を支えにする手とはもう片方の手で自身の目を拭う名前の声な柔らかく震えていた。緊張の糸が解れ、ようやく真の意味で子供達の無事を受け入れたのだ。彼女の目尻を伝い、顎へ落ち、地面を濡らす水滴はやけに美しく見えた。そう、あの日――医務棟でずっと一瞬にいてほしいと抱きしめた時の事を思い出す。

「名前、大好きだ」

 だから彼女の両頬を包んで、濡れた目尻に唇を寄せたのは自然な事だった。愛おしかった。娘達のために無我夢中で駆け回り、危険に臆する事もなく身体を動かす姿も、安堵して涙を流す姿も、全てが何よりも愛おしく思えた。
 名前は恥ずかしそうに視線を泳がせて、頬を緩める。「ありがとう」と彼女の唇から発せられたお礼の言葉は、ほんの少しだけ夏油を寂しくさせた。



 季節はめぐる。美々子と菜々子は揃って小学校を卒業し、家から更に離れた中学校へ通うようになった。卒業式、入学式と感動の涙にくれる名前の肩を抱く夏油も、娘達の成長に内心感極まっていた。だからこそ、いい加減この生活、関係に節目をつけようと決心した。

 二〇一七年十一月。冬休みを一ヶ月後に控え、街中がクリスマスムードに染まりつつある冬の始まりの日。
 美々子、菜々子はすでに二階の名前の部屋を自室としていて今この場にはいない。テレビから漏れる光と原稿を読むニュースキャスターの声に耳を傾ける名前の横顔に夏油はそっと声をかけた。

「大事な話があるんだ」

 首を傾げて振り返る名前の手を自身の手で覆い隠すようにつなぎ合わせる。指と指とを絡ませて、彼女が痛くない程度、けれど強く力を込めた。意識をこちらへ繋ぐために。
 らしくもなく緊張していた。こんな事、人生で初めてなのだから仕方ない。そして、今回が最後になるとも分かっていた。名前の黒目を真っ直ぐに見つめる。背後から取り出した小さな箱に彼女が目を見張った。その意味が、きっと望んだ答えであると信じて繋ぎ合わせた手に唇を寄せた。

「私と結婚してくれないか」

掌編/20211123