あえかな君と共に生き | ナノ

椎心泣血


 男子児童が一人行方不明になった事により、翌日は急遽休校となった。美々子と菜々子はまるで興味がないと言うような態度をとってはいるが、本心では不安を感じているのだろう。家にいる間も夏油か名前のそばを離れようとしなかった。そんな二人の様子に夏油は勿論、名前もまた背景にいるであろう呪詛師に対し怒りを募らせていた。彼にとって家族を害する相手は猿と同列、否それ以下の存在でしかない。
 昼には警察を始めとする保護者達による男子児童の捜索が始まった。捜索には名前が、家には夏油が残る事となった。理由は二つ、非術師の集団に夏油が入ることを名前が配慮した事、そして美々子と菜々子が、夏油がそばにいた方が安心するだろうと考えた為だ。夏油としても名前が出向く事になにも思わないわけではない。呪詛師が絡んでいると知っている以上、彼女を危険に晒したくはない。けれど名前の言葉はもっともで、彼は苦肉の策として彼女に呪霊を一体つける事にした。美々子、菜々子の登下校を見守っている飛行型呪霊である。もっとも名前相手ならば呪霊の存在を隠す必要もなく、呪霊は静かに彼女の肩へと落ち着いた。呪霊に気づいた美々子と菜々子が物言いたげに夏油を見上げる。どうやら呪霊の存在にちゃんと気がついていたらしい。人知れず成長している二人に苦笑を返して言い訳を考えている間に名前は家を出てしまった。

 テレビと雑誌に夢中になっている美々子、菜々子、二人が視界から外れない位置に陣取り、五条から送られて来ていた情報を簡潔に纏めることにする。今は便利になったものでスマートフォンに搭載されている機能はパソコンと遜色ない。ふざけた文言には目もくれず、共に添付されていたファイルを開き内容に目を通す。そして夏油は、露骨に顔を歪めた。

(これを二級に……? あの爺共、とうとう頭でも沸いたんじゃないか)

 今回の案件の首謀者である呪詛師の目星は既に大方ついているようだ。写真はピントが合っておらず顔の判別がつかないが性別は男、年は多分夏油や名前よりも幾つか若い。
 呪術師と呪詛師、反する二つの存在だが持ちいる力や業、道具はさして代わりはない。呪術師の中にも五条悟のような由緒正しい家系の出がいるように、呪詛師にも長年呪詛師を排出してきた家系があるのである。男の出は、その一つだった。正確には父親が呪詛師家系に連なっており、数年前に自害している。なるほど、怨恨か。夏油は、親指で額を擦り人知れず溜息を吐いた。

「夏油様?」
「頭痛いの?」

 男がどれほどの呪力を有しているかは定かでない。だが、万全を期すのならば二級ではなくせめて準一級、もしくは一級呪術師をあてるべきだ。高専上層部は相変わらず年若く経験の浅い呪術師を駒のように扱い無惨に散らせているらしい。実際、頭だって痛くなる。

「天気が崩れそうだからね。少し気分が悪いんだ」

 心配そうにこちらを見る大きな瞳に微笑みかければ、二人は誘導されたように窓の外を見た。厚い雲のかかった灰色の空は今にも泣き出しそうで、捜索に出たきり帰って来ない名前が心配になったのだろう。お互いの顔を見合わせて、それから物音の一つもしない玄関の方向へと視線を向けた。
 十二歳になる二人は、育った特殊な環境ゆえか同年代の子供達に比べ達観しているし聡い。呪霊をつけていた事にも薄々気付いていたようだし、夏油の頭痛の意味にだって察するところがあるだろう。だからと言って二人をこの件に巻き込む気はさらさらない。理想を言えば、こうして気づく間もなく終わらせたかった。きっとそれは名前だって同じのはずだ。

「男の子、見つかったんだよ」

 名前が帰宅したのは夕日も暮れようとする十七時過ぎのことだった。流石に疲れたのか顔色を悪くさせた彼女は、片腕にしがみつく美々子の髪を撫でてやりながら安心したように呟く。
 これに驚いたのは夏油で、彼は内心まさかそんな筈は、と思った。呪詛師に何の思惑があるのかはまだ分からない。しかし、児童に声をかけ誘拐まで実行したからには何か理由があるはずだ。児童が自ら脱出したのか、否、男子児童の年齢は美々子や菜々子よりも下だ。聞けば大人しい少年だったと言うしその線は薄いだろう。

「名前、ちょっと」

 不思議がる美々子、菜々子を置いて廊下に出る。身長の高い夏油は腰を曲げて名前の耳元へ口を寄せた。

「その子、見つかった時なにか言ってなかったかい?」
「ううん、なにも。見つけたのは警察で、少し怪我はしていたけどあとは本当に何も言わなかったらしくて」
「何も? 行方不明になっている間の事をなに一つ話さなかったって言うのか」

 名前は神妙な面持ちで頷いた。美々子、菜々子の手前安堵した様子のみを見せていた彼女もまた、男子児童の発見時の様子を訝しんでいたからだ。

 翌日には学校が再開された。相変わらず集団登校が続き、帰りは保護者が迎えに行く事となっている。警察の見回りも強化され、次第に不審者の情報を耳にする事もなくなった。
 行方不明になった男子児童の母親に話を聞けたのは事件から三日後の帰り道だった。その日は夏油、名前揃って二人を迎えに行っていたので、同じく迎えに来ていた男子児童の母親にも話しかけやすかった。母親の口から語られる発見当時の様子は、名前が聞いて来たものと違いはない。なにも覚えておらず、身体には複数の切り傷があった。心的外傷による一種の防衛本能が働いた結果だろうと医師は判断したらしい。
 男子児童とその母親に別れを告げて家へ戻る。美々子と菜々子が宿題をしている内に名前のそばへ寄った。夕飯の支度に取り掛かっていた彼女も夏油を待っていたらしい。あの日のような神妙な面持ちで重たい口を開いた。

「本当に何も覚えてないみたい。その日の記憶だけすっぽり抜け落ちてるみたいに」

 名前の術式をもってみて確信を得た。呪詛師の男は、男子児童を誘拐、目的を果たした後なんらかの呪術を用いて記憶を消している。
 ほら、やはりただの二級呪術師には適していない任務だ。呪詛師捜索は振り出しへと戻り、夏油は苛立ちを隠す事なく手持ちの呪霊を町へ放った。手荒な真似はしないと約束したが、相手が厄介な呪術を使うならばこちらも最良の手を使うまでだ。全ての呪霊にはただ一つ命じてある。

 呪詛師の男を探せ。息さえしていれば五体満足でなくとも良い。



 枷場美々子、菜々子は二人顔を見合わせ決意したように頷き合う。
 最近、夏油と名前の様子はどこかおかしい。こそこそと内緒話をする事が増えたし、元々過保護な面があるとは言え夏油は自分達に呪霊をつける始末だ。夏油は隠し事が上手い。名前もまあまあ上手い。大丈夫と言う聞こえの良い言葉の裏に本音を隠して何かが動いている。幼いながらも同世代に比べ聡く達観している二人は、育ての親を取り巻く不穏な空気に勘付いていた。

 件の不審者が原因に違いない。だって夏油様と名前が隠し事をするようになったのはあの頃からだったもの。

 そう口にしたのは頭の良い美々子で、彼女はいつものぬいぐるみをぎゅうと抱き締めて表情に苛立ちを乗せた。なお、その苛立ちの矛先は夏油でもなければ名前でもない。彼女が憎悪を向けるのは夏油と名前の関心をひいている不審者に対してである。夏油も名前もいつだって美々子達を優先してくれた。心底愛してくれていると分かっている。だからこそ許せない。赤の他人、しかも大凡猿である不審者の男が、本来ならば自分達で埋まるはずの場所を占領しているのは我慢ならなかった。菜々子もそれに同意見である。だから二人は考えた末、決断した。
 不審者の男を自分達で捕まえよう。二人は両手を取り合って隙を見て家を飛び出した。



 やられた。呪霊の報せを聞いた夏油は、己の不注意を心底恥じた。甘やかして育てたせいか何かと我儘――素直に育った娘達が暴走してしまった。
 弾かれたように玄関へ駆けて行った名前が、二人の靴がない事を確認して怒声を響かせる。とは言え、ここにそれを聞かせたい二人の姿はなく、夏油は痛み出した額を押さえながら呪霊を定位置、美々子と菜々子の元へと戻した。

「名前、私があの子達を連れ戻して来るよ。君はここで待っていてくれ」
「いや」
「……ん?」

 急ぎ靴を履いた夏油は、まさか空耳かと背後を振り返る。だが、そこに名前の姿はない。急ぎ今度は前方を見た。夏油より先に靴を履いた彼女が玄関の硝子製の横開き扉を力いっぱい開いていた。ガシャンと嫌な音が響いたから硝子にヒビが入ったのかもしれない。

「あの子達を見つけるまで私も帰らないから!」

 以前、名前は自分は何の肩書きもないからと口にした事があった。それに夏油はなにを言うのかと、君も家族なんだと反論した。その当時を思い出す夏油を置いて名前の姿は町中へ消えた。すっかり冷静さを欠いた名前が施錠し忘れた玄関に鍵をはめ、夏油は小さく肩を震わせる。

 中々どうして母親というものは恐ろしく強いものだ。

20211106