あえかな君と共に生き | ナノ

夕暮れ、影を捜して


 二〇一四年。美々子、菜々子にとって小学校最後となる夏休みを過ぎ、季節は秋を迎えた。二人が気に入っていた夏服は名前によって箪笥の奥へと仕舞われ、すっかり秋らしくなったクローゼットの中から薄い生地の上着を取り出す。
 現時刻は十六時。そろそろ小学校の下校時間である。放課後、友人達と遊ぶ児童たちも多い中、美々子と菜々子は大抵真っ直ぐ帰宅していた。同級生に誘われる事はあるようだが、決して首を縦には振らないらしい。長い六年間を経てもなお、二人の中にある非術師に対する憎悪の感情は消えていないのだ。それを夏油は勿論、名前もあの子達の選択ならば、と黙って見守っている。
 夏油は、長い黒髪を上着の外へ出しながら台所を覗き込んだ。ちょうど夕飯の下拵えをしていたのだろう。エプロンをつけた名前が視線をこちらへと向ける。

「それじゃあ、美々子と菜々子の事迎えに行ってくるよ」
「うん、ありがとう。ごめんね、本当なら私が迎えに行ってもよかったんだけど」

 タオルで濡れた手を拭きながら近づいてくる名前に、夏油は苦笑を浮かべた。本来であれば謝罪など必要ないのに、彼自身の事情が彼女からその言葉を引き出している。それを知っているから夏油は「いや」と緩く首を振って名前の垂れた前髪を耳にかけてやった。

「帰りにコンビニに寄ってくるよ。名前、何のアイスが食べたい?」
「なんでもいいよ。結局最後はあの子達が分けてって言って来るんだし、二人にお任せしますって言っておいて」
「それもそうだね。分かった。じゃあ、行ってきます」

 すっかり子供の我儘にも慣れたと言わんばかりの名前の様子に、今度は別の意味合いで苦笑が浮かぶ。不思議そうにこちらを見る彼女の視線から逃れるように口元を片手で押さえたまま、速足に家を飛び出した。
 上着を着ていても僅かに肌寒い空の元、二人の通う小学校までの道のりを進む。これまでに何度か通った道なので既に慣れたものだ。同じように子供の迎えか、両手を擦り合わせながら通り過ぎる妙齢の女性と会釈を交わしつつ、歩くスピードを速めた。

 二人の通う小学校の区内で最近不審者が目撃されている。
 先日、菜々子に比べ真面目な質のある美々子が夜にそっと差し出して来たプリントの内容を思い出していた。三日前、下校途中の男子生徒が知らない男に声を掛けられた。男子生徒は咄嗟に逃げ出して難を逃れたが、その翌日も、今度は別の女子生徒が不審者と遭遇。偶然通りかかった近所の男性がそれを発見した事により、女子生徒は無事保護された。女子生徒いわく不審者の男は、理解不能な言葉を次々と投げ掛けて来たらしい。その内容は書かれてはいなかったが、分かる事が一つだけあった。その不審者は現在も野放しにされており、今も虎視眈々と下校途中の生徒たちを狙っている。

「美々子、菜々子」

 小学校まであと数分の距離で見慣れた黒髪と色素の薄い髪色の頭が見えたので、夏油は歩みを止めた。どうやら集団下校に切り替わったらしい。他にも数人の児童たちとPTAと思われる保護者の姿が見える。教祖業で培った作り笑いを浮かべて保護者に挨拶をすると、児童の列から美々子と菜々子が嬉々とした様子で顔を出した。

「お父さん!」

 学校内や教師、他の生徒、保護者達の前では夏油の事は『お父さん』と呼ぶように。そう、入学の際に言いつけた。当初は恥ずかしそうにしていた二人も、六年間ですっかり呼び慣れたらしい。家では相変わらず夏油様のままだが、時と場合に応じた呼び分けが出来るようになっていた。

「おかえり、二人とも。迎えに来たよ」
「やったぁ」
「今日はもうお仕事ないの?」
「うん。さ、日が暮れる前に早く家へ帰ろう」

 両手にしがみ付いて来た二人を交互に見遣り、夏油の迎えにほっと胸を撫で下ろしたかのような表情をした保護者と向き合う。PTAの役員らしく身なりに気を遣った妙齢の女性は「枷場さん達よかったねぇ」と微笑んだ後、背の高い夏油を見上げた。

「えっと、お父さん、先日お配りしたプリントの方は」
「ええ、拝見しました。不審者が出たとか。怖いですね」
「まったくです。今日また新しいプリントを配ってはいるので、また目を通していて下さい」
「新しく……? なにかあったんですか」

 夏油の腕に隠れるように背に回った美々子と菜々子が顔を見合わせたのが分かった。視線は保護者から離さないまま、指先から黒い靄のような呪霊を出して「ダイジョウブ」といつかのように安心させる。
 保護者は、僅かに顔色を悪くさせて視線を右往左往へと彷徨わせた。あまり聞かれたくない内容なのだろうか。秘密事を話すように片手を立てたので、夏油は嫌々ながら腰を少し折って耳を傾ける事にした。

「子供達が怖がるのであまり大声では言いたくないんですけど……出たって言うんですよ」
「出た? なにがです」
「……幽霊が」

 その言葉を聞いた途端、夏油は美々子と菜々子が顔を見合わせた理由を悟った。保護者は半信半疑と言った様子で唇を歪め眉根を寄せている。子供の言う事だから、と付け加えられた言葉を聞き流しつつ、夏油は内心大きく息を吐いた。
 なるほど、今回の不審者騒動にはどうやら呪霊が絡んでいるらしい。



 町唯一のコンビニで買ったアイスはとっくに空になっていた。夕食も取り終わり、デザートも綺麗に平らげた美々子と菜々子は、すっかり感じていた不安から解放されたらしい。揃って入浴している子供達の声がたまに聞こえるリビングで、夏油は電話向こうの五条に「で」と先を促した。

「君、あえて私にこの事を黙っていただろう」
『悪かったって。ま、どうせ傑の事だから遅かれ早かれ知って首を突っ込んで来るとは思っていたけどね』
「当たり前だ。美々子と菜々子の通う小学校での話だぞ。猿の子はともかく、あの子達に害があったらどうしてくれる」
『それはないと思うよ。今回の任務は二級相当。特級のお前にわざわざ依頼を出すほどの物ではないと上が判断したんだ。それにあの子達、自分の身くらい自分で守れるように多少は教育してんでしょう、お父さん』
「二級相当ねぇ……それなら名前に任務が来てもおかしくないはずだが?」

 台所で洗い物をしている名前も、先程プリントの内容と夏油の話を聞いてから、ずっと頭を悩ませている。ひとまずは毎日送り迎えとしようと決めたのは、つい十分前の事で、こうして空いた時間に五条へ連絡を取った夏油は、額を親指で擦りながら小さく舌打ちを零した。上層部がわざわざ町に在中している名前や夏油でなく、わざわざ遠方に住む他の二級呪術師を派遣するなんておかしな話だ。あまりに効率が悪すぎる。
 きっと、それは五条も承知の上なのだろう。聞いてもいないのに情報をペラペラと語ってくれる親友は、一頻り電話の向こうで陽気に笑い声を上げた後、声のトーンを切り替えた。

『正直さ、僕としても今回のコレは二級じゃ手に余るんじゃないかって思ってるわけよ。しかもあえて、名前やお前を無視してるなんて誰が聞いたっておかしな話だろう』
「そう思うならさっさと私に情報を明け渡してほしかったな」
『ハハ、無報酬なのに?』
「家族のためだからね、仕方がないさ。今回はボランティアと言う事にしておこうか」

 美々子と菜々子の笑い声が大きくなった。どうやら風呂から上がったらしい。リビングへ戻ってくるのは時間の問題で、早々に通話を終える必要があった。

「そろそろ切るよ。必要な情報は、あとで纏めて送っておいてくれ」
『了解。じゃ、よろしくねー』

 通話を追えると、ちょうど洗い物を終えた名前もリビングへ顔を出す。洗い物をしながら夏油達の会話を聞いていたのか、彼女の表情はあまり晴れない。

「心配させてしまったかな」
「そりゃあね。この事、あの子達に知らせるの?」
「やめておくよ。ただ、明日からは監視用に呪霊を一体つける。冥さんのように視界を共有する事は出来ないけれど、何かあった時は教えてくれるからね」

 勿論、呪霊には二人が不審がらないように遠くから見守らせるつもりだ。何かあった時には、盾くらいにはなれる強度を持っているし、万が一祓われたとしても夏油にはそれが分かる。それでもなお、名前の表情は浮かない。視線を俯かせたまま、唇の端を小さく噛み締める姿は、何かを耐えているようにも見えた。

「名前、言いたい事があるなら言ってごらん。なにが不安なんだい?」
「……不審者なんでしょう。人間の男の人」
「そうだね、相手は呪詛師だろう」

 名前は片手で額を押さえて、耐えるように細い息を吐いた。名前の不安は分かる。相手が呪霊であれば祓うだけだが、呪詛師相手となるとそうはいかない。人間は一番厄介な生き物だからだ。数年前まで呪詛師相手の尋問官として上層部に利用されていた彼女は、それを痛いほど分かっている。
 夏油は、無言のまま片手を伸ばして項垂れる名前の頭を自身の肩へと引き寄せた。細く揺れる睫毛を視界の端に収め、彼女の側頭部に頬を預ける。何度かその背を摩って、かけてやる言葉は、美々子や菜々子へ告げたものと変わらない。

「大丈夫だよ、名前。美々子と菜々子は、絶対に危険な目には合わない。そうなる前に私が呪詛師を排除するからね」
「あまり大事にはしないでね」
「努力します」

 穏便に済ますようこの場で名前と約束した以上、手持ちの呪霊で怪しい人物をしらみつぶしに捕らえるわけにもいかなくなった。さて、まずはどうしたものか――思考の海へと今にも潜らんとする夏油を現実へ引き戻したのは、背中にしがみ付く小さな温もりだった。入浴を終えてリビングへ戻って来ていた菜々子が髪を濡らしたまま夏油の背にしがみついていたのである。横を見れば同じように美々子が名前の背に抱き着いている。肌に張り付く感触に、二人は咄嗟に背に張り付く子供達を引き剥がす。子供特有の細い髪から垂れる水滴が夏油と名前の服に大きな染みを作っていた。

「もう、髪は乾かして来なさいって言ってるでしょう!」
「名前やってー」

 先程の不安気な様子は何処へ消えたのか、目くじらを立てた名前が慌てた様子でリビングを飛び出してドライヤーを持って戻って来た。まずは背中に張り付いていた美々子から乾かすようで、櫛を片手に慣れた動作で髪を梳かしていく。時折挟まる「あつい」という文句が何だかおかしくて思わず笑ってしまった。

 翌日は夏油が登校を、名前が下校の迎えを行う事となっていた。朝、なんの不安も感じさせず明るく正門を潜った二人を見送り、夏油は更に町中へと歩みを進めた。真っ直ぐ家へ戻るつもりはなかった。名前の不安、美々子と菜々子の安全。全てを鑑みた結果、今回の件は多少手荒であっても早々に片付けた方がいいと判断したのだ。
 夏油の背後から数体の呪霊が顕現する。目線だけで指令を下し、それらが飛び立ったのを確認し終えると、彼は不審者を目撃したと言われる場所へと向かった。そこは、住宅街に差し掛かる十字路で、人通りも少ないわけではない。呪詛師の狙いが何であるのかは未だ不明だが、子供を狙っての行いであれば、あまり適した立地でない事は明らかだった。
 残穢はない。何かここで事を起こそうとした痕跡すらもない。むしろ綺麗すぎるくらいだ。十字路、全ての路へ視線を配り、踵を返す。各方面へ散らせた呪霊からは何の通達もなく、夏油は眉根を寄せてどこにいるかも分からない呪詛師を睨んだ。

 夕刻、二人を連れて帰った名前の表情は血の気が引いたように真っ青だった。美々子と菜々子も表情が浮かない。彼女は、心配する夏油へ一枚のプリントを手渡す。白黒の文面に視線を落とし、やがて目を見開いた。そこには『男子児童一名、行方不明』と記されていた。

20211024