あえかな君と共に生き | ナノ

自分の弱さが好きなんだよ


 両腕に少女二人を抱き、呪術高専校舎へと繋がる階段を登り切った夏油を待っていたのは、級友である五条と家入だった。

「おかえり、公開告白男」

 意外な事に、真っ先に声を掛けて来たのは家入で、彼女は教師の目がないのを良い事に、煙草をふかしながら唇の端を吊り上げて見せた。
 公開告白男――なんとも恥ずかしい呼称であるが、実際その通りで否定の言葉なんて口が裂けても言えやしない。これまでの苦しみに加え、抱え続けていた感情全てを吐き出してスッキリした夏油を待っていたのは、途方もない羞恥心だった。
 十七時。待ち合わせ丁度に迎えに来てくれた補助監督は、夏油の様子とその腕に抱かれた少女二人を見た瞬間、文字通り飛び上がって驚いた。早口に、対象呪霊は祓い終えた事、少女二人が村から疎外されていた事、村民を傷つけてしまった事を伝え、車に乗り込んだ後、夏油は頭を抱えた。自分達の恩人が苦しみ出したと思ったのだろう。少女二人は、夏油の腕の中から顔を上げると口々に「だいじょうぶ?」や「いたい?」と心配の言葉を投げた。感動した。なんて優しい子供達なのだろう。その際、教えてくれたのだが、二人は『みみこ』と『ななこ』と言うらしい。

「硝子、この子達の怪我、治せるかな」
「補助監督から話は聞いた。しばらくは入院になるとは思うけど大丈夫。任せな」
「ありがとう。治療室まで運ぶよ」
「いい。見た感じ、この子達軽いみたいだし私一人で運べる。ほら、さっさと寄越せ」
「寄越せって君ね……はあ、眠ってるからそっとね」
「分かってる」

 帰りの車中、安心したのか夏油の硬い膝を枕にすっかり眠ってしまった二人は、家入に抱かれても起きる事はなかった。
 家入の背中が小さくなったのと同時、地面に落とし、踏みつけられた吸い殻を五条が回収する。何時もなら携帯灰皿を持ち歩いている硝子だが、今日は慌てていたのか持っていなかったらしい。吸い殻を紙に包んで乱雑にポケットに詰め込んだ五条は、サングラス越しの美しい瞳を剣呑に細めているようだった。形の良い唇も一文字に引き結び、平素の粗雑さなど一切感じさせない様子に、夏油は多少面食らう。ややあって、夏油は無言のまま右頬を差し出した。そうすると、五条はようやく動き出した。とは言っても、その言動は夏油の予想と大きく外れていたのだが。

「ふざけんな。ンな顔してるお前殴れる程、俺は冷血漢じゃないんだよ」
「……悟」
「なんだよその大人になったね、とでも言いたげな目は! あームカつく。散々俺にクソみたいな正論ぶつけて来てたくせに、なんでお前がそれで人一倍苦しんでんだよ……ったく、こんな心配させやがって」

 右頬へ殴り掛かって来るかと思われていた左手は五条の後頭部へと吸い込まれ、罵声を浴びせるかと思われていた唇は夏油への心配を口にした。それからも一人ぶつぶつと不満を漏らした五条は、やがて吹っ切れるように一度大きく舌打ちをした。髪をかいていた左手の人差し指が寮の方角を指し示す。

「名前に会いに行く前に一回シャワー浴びてこい」
「このまま病室に直行しようと思っていたんだけど、そんなに酷いかい?」
「酷い酷い、見てらんねえ。一応あいつ病み上がりだからな。またぶっ倒れさせたくなければありがたく親友様の助言聞いてろ」

 そう言われれば確かに、散々暴れたせいで服も汚れているし、髪もほつれ、顔は涙でパリパリと乾いている。ここは素直に五条の言葉に従う事にして、寮を目指すため踵を返した夏油は、ハタとして足を止めた。

「親友なのか、まだ」

 先程の電話のせいか、今の夏油は随分と素直になってしまっていた。以前ならば熟考して言葉を吐いていた筈なのに、思いつくままポンポンと言葉が出てくる。対して言葉を選んでいる節のある五条も、流石に今の発言は頂けなかったらしい。五条は「はぁー!?」と大声を上げて、武者震いするように両肩を大きく揺らした。

「お前、マジ覚えとけよ。明後日、いや明日はさっきの右頬殴ってやる。この俺を心配させた挙句傷付けた罰だ」
「え、さっき殴らなかったんだからもうチャラだろ。痛いの嫌だよ私」
「フッっっざけんな! いいか! 明日のために今日はシャワー浴びて名前に会ってちょっとイチャついてさっさと寝ろ! 俺も、もう部屋戻る!」
「じゃあ同じ方向だし一緒に行こうか」
「うざ!」

 指示す対象を寮から夏油へ変更した五条は、天を仰ぐように一言叫ぶ。そして怒りを収められぬまま、大股で寮へと向かい歩き出した。肩を震わせつつ、その背を追う夏油は、すっかり黒く染まった空を見上げてゆっくりと息を吸った。熱く重い緑の混ざった慣れ親しんだ匂いがした。

 五条が酷いと何度も繰り返したように、夏油の顔は窶れ切っていた。寮の自室までの道中、不満タラタラに語る五条曰く、名前が医療棟に運び込まれた時には既にこの顔だったそうだ。
 確かにこの顔を見せれば、余計な心配までかけてしまう。念入りに全身を洗い、清潔な服へ着替え終えた夏油は、人知れず寮を抜け出した。
 校舎から離れた位置にある医療棟の正面扉は、既に施錠されてしまい、そこから入る事は出来ない。エイに似た姿をした飛行型呪霊を使役する事にした夏油は、その背に飛び乗ると名前の病室の窓を目指した。
 少し距離を離して室内を覗き込む。窓辺のカーテンは開かれていて、室内は暗く、ベッドサイドからは微かに灯りが漏れていた。起きているだろうか。こんなところまで来て今更不安になる。もし、眠っているようなら寝顔だけ見て今日は寮へ戻ろう。そう心に決め、窓の鍵が開いているのを良い事に病室へ侵入を果たした。それでも、やはり出来る事なら直接名前を呼んでもらいたくて。開いた目蓋の下、丸い瞳が見たくて。半ば祈るような気持ちで、ベッドサイドのカーテンをゆっくりと開けた。そうして見えたその顔に、夏油はくしゃっと表情を歪めた。約束は既にしている。だから迷いなく両腕を伸ばす。

「おかえり、夏油君」

 腕の中に収まった名前の身体は、以前より細くなったように思えた。頼りなく細くて、それでも呪術師らしく固くなった両掌が、震える夏油の背にしっかりと回される。

「……っ、名前、名前……」

 力の限り抱き締めさせてくれ、なんて言ったくせに、実際はまともに力も入らないのだから恥ずかしくて泣けて来る。それでもしっかりと腕の中に囲い込んだ名前の肩に顔を埋め、何度も彼女の名前を呼んだ。その度、名前は返事を返し、夏油の背を優しく叩く。

「名前、顔をよく見せて」

 いい加減枯れたと思っていた涙を目尻に溜めたまま、名前の頬を両手で包んだ。視線がうろうろと彷徨い、頬が僅かに赤らんでいる。何より、掌に伝わる温もりに心底安堵した。

「良かった……本当に名前だ」
「なに、偽物だと思ったの?」
「自分に都合が良すぎる夢でも見ているんじゃないかと思ってしまったんだよ」

 もう二度と名前を呼んでくれないかもしれないと幾度となく恐怖した、あの悪夢が消えて行く。
 視線を合わせ、鼻先を触れ合わせるように額を擦り付ける。それからまたガラス細工に触れるように、慎重な手つきで柔く抱き寄せた。
 名前の身体はすっぽりと夏油の腕の中に収まった。今度は名前が夏油の肩に顔を埋める形になり、頬にあたる側頭部に顔を寄せる。シャンプーと名前本来の香りを鼻で感じ取り、夏油は細く長い息を吐いた。

「ダメだな。悟にも今日は早く寝ろって言われていたのに、君の顔を見たら寮へ戻りたくなくなってしまった」
「明日また会えるじゃない」
「うん、分かってる。でも、あともう少し。あと十分だけでいいから、このままでいさせてくれないか」

 段々と呼吸が整い、僅かばかりの余裕が出来る。その余裕分の隙間に顔を出したのは我儘だった。名前は、夏油の我儘を無碍にはしない。小さく頷いて再度背中へ回された腕に心底歓喜し、自然と笑みが溢れる。元々あまり人のいない医療棟の病室はとても静かで、邪魔するものは何もない。そんな些細な幸せを感受している内に、目蓋はすっかり重くなってしまった。

「夏油君、もうすぐ十分経つよ。そろそろ寮に戻ったら?」
「やだ」
「やだって君ね……」
「やっと会えたのにもう帰れなんて寂しい事言わないでくれよ」

 額を擦り付け、細い背中に回した腕に力を込める。苦しかったのだろうか、名前が身動ぎした。

「ごめん。苦しいかもしれないけど少し我慢して」
「そ、れはいい、けど……でも、そろそろ寝ないと」
「なら私もここで寝るよ」
「ええ……」
「この六日間、私全然眠れていないんだ。多分、今日も君と離れたら眠れなくなってしまう」

 我ながら狡い言い回しだとは思うが、嘘は全くついていない。六日間まともに睡眠を取れなかったのも事実で、名前と共に横になれば眠れるのもまた事実であった。現に先程重くなった目蓋は今にも下目蓋にくっつきそうで、夏油は細い糸を掴むように、やっとの思いで意識をここへ留めている。

「ダメかな?」

 寝惚けながらの問い掛けは、自分で思うより遥かにあざとい響きになってしまった。
 学生時代を経て、この一月の間に随分とまた夏油に甘くなった名前は、散々迷った末、首を縦に振った。了承を得た夏油は、唇を緩めると名前の身体を抱いたままベッドに横になる。病院特有の消毒剤の匂いが鼻腔を擽り、それを逃すように名前の髪へ顔を埋めた。すると、意識は瞬く間に夜へと沈んだ。きっと、横で縮こまる名前が眠るよりも早く、そして穏やかに。



「まさかとは思ったけどお前とうとうやりやがったな」

 寝起き一発。家入の絶対零度の眼差しに見下ろされ、夏油は寝起きの腑抜けた顔で首を傾げた。
 名前の様子を見に来た家入に叩き起こされたのがつい三分前。共に起きた名前は気まずそうに頬を赤らめて、家入は勿論夏油ともまともに顔を合わせようとしない。

「名前さんは病み上がりプラス夜も遅いから面会時間は十五分間だけって五条から聞かなかった?」
「いや、そんな事、一言も聞いてないな」
「チッ、あのクズ」

 不機嫌さを隠す事もなく盛大に舌を打ち鳴らした家入は、テキパキと準備を始め、俯く名前の腕を取った。そのままカフを巻き、血圧と脈拍の測定を終える。家入は結果を記録簿に記入して、また夏油の前に立った。眉を顰め、腕を組み、不機嫌さを隠す様子もない。

「級友の助言を有り難く聞けクズその二。昨日の少女二人の怪我は綺麗に治した。お前に会いたがってたから後で顔を見せてやれ。あとクズその一がお前の事探し回ってたからじきにここまで来るぞ。以上、分かったらさっさとベッドから起きて顔洗え」
「ありがとう硝子、安心したよ」
「ん。で、なんでお前はベッドから立ち上がらないわけ」
「どうせ悟はこっちへ向かっているんだろう? なら、ここで待っていた方が早いし、あの子達の顔も見たいからね」

 助言と共に降り注ぐ家入の絶対零度の眼差しをものともせず、夏油が名前のベッドから立ち上がる気配はない。家入の米神がひくついた。夏油はすました笑みを崩さない。代わりに名前が顔色を悪くして夏油と家入を交互に見渡した。
 すると、まるで空気を読んだかのように病室の扉が開け放たれる。入って来たのは勿論五条で、彼はベッドに腰掛けた夏油を見た瞬間、サングラス越しの青い瞳を大きく見開いた。そのまま長い足でズカズカとベッドに歩み寄れば、呆れた顔をした家入が身を引き、代わりに五条が彼女の立ち位置に収まる。そして、五条は長身を屈ませると、不良さながらにそのまま下から夏油を睨み上げた。

「おい傑。俺、名前に会いに行ってちょっとイチャついてさっさと寝ろって言ったよなあ?」
「言われたね。でも仕方ないだろう。眠くなってしまったんだ」
「ふーん、じゃあ睡眠も取れて体調は万全って事だよな。表出ろよ」
「そうしたいのは山々だけど、私はこの通り寝起きでまだ顔も洗えていなくてね。それに昨日のあの子達の様子も見に行かなくてはならないんだ」

 明らかにメンチを切っている五条に対し、すまし顔で煽りをきかせる夏油。たとえ片方は座っているとは言え、日本人の平均身長を大きく上回る男二人の睨み合いに、名前は更に顔色を悪くさせた。縋るように家入へ視線を投げるが、彼女は無言で首を振るのみで止める気はまるでない。
 二人に鉄拳を下せる夜蛾がこの時間に医療棟に顔を出すとも思えない。となれば、今にもアラートが鳴り響きそうな殺伐とした空気を打破出来るのは名前以外いなかった。

「えっと、一つ聞いてもいいかな? あの子達ってどの子達?」

 寝起きかつこの状況で混乱しきった頭の中、繰り出した質問は、言葉選びがお粗末で一気に場の空気を白けさせた。
 だが、それが功を奏したようである。こちら側へ意識を戻された夏油は、真横で縮こまったままだった名前へ身体ごと向き直る。そして彼女の手を優しく握り締め語りかけた。

「昨日の任務地でね、村人達からひどい虐待を受けていた子供達がいたんだ。今は、硝子のおかげで傷も癒えて別室で休んでいるよ。後で私と一緒に顔を見に行ってくれないかな」
「それは、勿論いいけど……あの、夏油君、背後の五条君の目が怖いんですけど」

 病室の壁と同化しそうな程、白い髪の下、青い六眼が剣呑に細くなっているのが見える。
 元々五条悟はそう気が長い男ではない。天上天下唯我独尊。世界は自分を中心に回っていると言わんばかりの横柄な振る舞いは、入学当初より多少マシになりはしたものの未だ健在だ。
 夏油は、名前からの指摘に眉を顰めつつ再度五条へと振り返る。「悟」五条を呼ぶ声は、名前との会話時より遥かに低い。

「君は待ての一つも出来ないのか?」
「こちとら他人に振る尻尾は持ち合わせていないんだわ」
「表へ行こうか」
「ハッ。俺は端からそのつもりだったって言ってんだろ」

 そう言って五条は夏油へ向けて中指を立てた。立派な挑発、戦線布告である。
 夏油傑と言う男は、五条ほどではないにせよ気が長くはない。それに付け加え、売られた喧嘩は買い取った後倍にして返す主義である事を自分自身は勿論、親友である五条もよく理解していた。
 ゴングが鳴り響く。両者睨み合ったまま、どちらからともなく示し合わせたかのように病室入り口まで移動した。まず五条が部屋を出て、ついで夏油がきちんと扉を閉めて病室を後にする。
 しばらくして、開け放たれた窓から聞こえる騒音と罵り合いに、名前と家入は顔を見合わせて溜息を吐いた。二人が戻って来るまで、まだまだ時間が掛かりそうだ。

20210628