あえかな嘘と共に生き | ナノ

二〇〇六年 東京都立呪術高等専門学校



 二〇〇六年 初夏 東京都立呪術高等専門学校 渡り廊下。
 硝子ちゃん曰く現在五条君と夏油君は重大任務の真っ最中らしい。十中八九天元様の初期化の話だろう。彼らは星漿体の護衛を任されたわけである。
 現在、二年生のクラスには硝子ちゃん一人しかおらず広々と使えて良いとは言うが、本当は寂しいのではないだろうか。そう言うと硝子ちゃんは心底嫌そうな顔をした。なんなら親指が下を向きそうな勢いだ。どうやら本当に一人を満喫しているらしい。とんだ失言だ。素直に謝罪しておいた。
 入学から一年が経過し、後輩も出来た彼らは日に日に力をつけていく。特に男子二名は最高学年となった私達よりずっと有能な呪術師となった。この間も二人で特級呪霊一体を祓ったらしく、呪術師の中では彼らの特級推薦の話まで出ていると聞く。そんな彼らに先輩面なんて出来る筈もなく、今となっては五条君の舐め切った口調や軽口に言い返す気力さえもない。歌姫さんには「そんなんじゃ駄目よ!」とお叱りを受けたが、彼女のようなタフネスを私は持ち合わせていないのである。
 同時に私も私で忙しい日々を送っている。二級呪術師らしく二級相当の呪霊を祓い、高専へ戻れば学生の本分に取り組み、また指名があれば任務へ赴く。夏油君の特訓のおかげか、流石に制服を破く回数も減り、二級相手ならば苦戦する事もなくなりつつあった。
 今日もまた補助監督の運転する車に揺られながら、スカートのポケットから取り出した携帯を確認すれば噂の二年生の片割れからメールが届いていた。どうやら彼らは今、沖縄にいるらしい。青い海と白砂浜をバックに笑顔の夏油君とせっかくの美貌を面白おかしく歪めた五条君の写真に思わず吹き出してしまった。二人の更に奥にいる少女が、明日天元様と同化を果たす星漿体だろうか。黒髪の可愛らしい年下の少女がやけに記憶に残った。

「多分、夏油の事だから名前さんにお土産買ってると思いますよ。五条には期待出来ないけど」
「嬉しいな。沖縄行った事ないんだよね私」
「じゃあ今度私と行きましょ。歌姫センパイも誘って女三人で。あいつら絶対悔しがるから」

 翌日、自販機前で会った硝子ちゃんは紙パックのストローに吸い付きながら妙案とばかりに人差し指を立てた。五条君や夏油君がいた方が賑やかではあるだろうけど、確かに女三人旅も捨てがたい。

「そろそろ帰って来るよね。二人とも」
「多分、その筈……」

 瞬間、雑談を遮るように対呪霊用のセンサーアラートが鳴り響いた。申請していなかった呪霊が出現した時にだけ発動されるけたたましいそれに二人同時に身構える。別にこのアラート音を聞くのは今日が初めてではない。以前に何度も聞いた事がある。そう、夏油君が五条君と喧嘩した時に――考えて一気に血の気が引く思いがした。
 悪い予想とは当たるもので、その後一分も経たぬ内に夜蛾先生が硝子ちゃんを探しに来た。大怪我、死、天元様、星漿体、単語の羅列が聞こえるが意味はよく理解出来なかった。
夜蛾先生に連れられ、硝子ちゃんは紙パックを放り投げて走り去った。追いかける事はしなかった。硝子ちゃんのように反転術式を使えない私はただの足手纏いでしかないからだ。それなのに足下に転がる紙パックを拾い上げる私の心臓は破裂しそうな程速く脈打っていた。
 その日の夕方、ようやく話を聞く事が出来た。教えてくれたのは沖縄から戻ったばかりの七海君で、侵入者は星漿体の命を狙い、それに五条君と夏油君が応戦。星漿体の少女は天元様との同化を前に死亡。侵入者も五条君が斃した。星漿体の遺体は高専が処理を終えた。淡々と語られたそれらを反芻し、納得するのに三時間を要した。

「あ」
「あ」

 任務にあたっていた二人は、二十一時を過ぎた頃ようやく寮へ帰って来る事が出来たらしい。
 二十三時過ぎ。何だか寝付けなくて飲み物を買いに談話室の自販機に前に立っていた私の背後に、入浴を終えたばかりと思わしき夏油君が立った。まだ乾かしていないのか、湿った長髪を無造作に纏めた彼は、まさか私がいるとは思わなかったのだろう。切れ長の目を大きく見開くと、無言でこちらへ歩み寄り自販機のボタンを押した。

「今日は奢って下さい。ちょっと疲れたんで」
「いい、けど……その、お疲れ様」
「ありがとうございます」

 ペットボトルを取ろうとしゃがみ込んだ拍子に覗いた夏油君の胸元には薄っすらと傷跡が見えた。大きな十字の傷だ。硝子ちゃんの反転術式を持ってしても残ったそれは痛々しく、けれど視線を逸らす事も出来なくてまじまじと見てしまう。

「やだなぁ、どこ見てるんですか。セクハラですよ」
「なっ!? ち、違うよ! 傷跡が痛そうに見えて、それで」
「大丈夫です。硝子のおかげで傷は塞がりましたから。傷跡を残したのは……私の勝手なエゴなので」

 顔を上げた夏油君は何時も通り笑う。ペットボトルを手に年相応の笑みを上手く貼り付けていた。

「そうだ。お土産を買って来たんです。明日、渡しますね」

 夏油君と別れた後、部屋へ戻ってから私は少しだけ泣いた。情けない話だし、きっと本人が知れば怒るだろうが、私は夏油君と五条君に確かに同情していた。抱えた膝に顔を埋め、嗚咽を呑み込む。何時だって心の声だけは素直だ。



 二〇〇七年 三月 東京都立呪術高等専門学校 卒業式。
 こんな特殊な学校でも一応行事は存在するようで、先輩達を見送る事三年。とうとう今年は私が見送られる側になってしまった。
 手に持った卒業証書の入った筒を肩に乗せお世話になった学舎を見上げる。思えば長いようで短い四年間だった。明日から私は一人前の呪術師として任務をこなす事となる。この学校には任務以外で立ち寄る事もなくなるのだ。そう思うと一気に寂しさがこみ上げるのだから不思議だ。あの古い学生寮と称したアパートにも、もう足を踏み入れる事はない。

「卒業おめでとうございます」

 桜の木から散った花弁が視界を遮っていたが、誰の声かは直ぐに分かった。先程お別れしたばかりの夏油君は両手をボンタンのポケットに突っ込んだまま口ばかりの賛辞を述べた。彼の後方ではクラスメイトが在校生や教師陣との別れを惜しんでいる。何故か、その輪に加わる気は起きなかった。晴れて五条君と共に特級呪術師となった夏油君がこうして見送りに来てくれたのだし、それだけで十分なように思えた。

「ありがとう。色々とお世話になりました」
「私の台詞ですよ、それ。名前さん私に甘かったから」
「そう? そんなつもりはなかったんだけどなぁ」

 恥ずかしさと寂しさを逃すように後頭部を掻きながら夏油君を見る。たった半年、されど半年。数多くの苦難を超えた彼はまた少し大人びたように見えた。思い返せば、あの星漿体の任務以降、彼らと関わる機会は激減した。呪術師最強への道を歩みつつある五条君は、自己研鑽に勤しむ事が増え、夏油君もまた呪霊操術と言う特殊な術式を買われ、一人で任務に赴く事が増えつつあった。実際、こうしてまともに顔を合わせるのも一ヶ月ぶりである。
 浮かんだ笑みに年相応の無邪気さはなく、与えられる任務の過酷さか何処か疲れた雰囲気さえ覗かせている。あと、ほんの少しだけ痩せた気がした。
 ほつれ落ちた黒髪を耳に掛けてあげようと手を伸ばしかけて寸前で止めた。代わりに少しだけ悩んで、私はポケットから一枚紙切れを取り出した。同時に鞄からペンを取り出し、記憶を頼りに書き殴る。

「はい、これ」
「……住所?」
「うん。私、卒業してからはここに住む予定なの。何かあったらおいでよ」

 一人前の呪術になるにあたり、祖母から譲り受けた一軒家は東京都内から外れた田舎町に在る。家は古いが、環境は悪くない。人もあまり多くはない小さな町は、特に私のような術式を持つ人間にとっては打って付けの場所である。
 夏油君は走り書きした汚い紙切れを食い入るように見つめていた。私の声なんて聞こえていないように、ジッと記憶に焼き付けるかのような熱視線を手元に送り続けていた。
 何だか居心地が悪くなって卒業証書の筒で彼の腕を小突く。弾かれたように視線を上げた夏油君の表情には、先程より年相応の少年らしさが見えた。

「あとさ、前から言おうと思ってたんだけどもう卒業したし敬語使わなくていいよ。無理に使ってるの分かってたからね」
「バレてたか」
「そりゃね。私の術式をお忘れかな?」
「そうだった……そうだったね」

 そんな会話をしている内に後方の話も終わったらしい。最後に記念写真を撮ろうと呼びかける夜蛾先生の声に片手を上げて応える。

「ほら、行こう」
「名前」

 前に立つ夏油君を越えて先に皆の元へ歩み寄ろうとしていた足は、夏油君の声に止められてしまった。呪言師に操られてしまったかのように身動きが取れなくなる。
 まさか、こんなにも早く呼び捨てにされるとは思わなかった。そんな本音を抱えてぎこちなく振り返った。夏油君は先程渡した紙切れを持ち上げて笑う。

「必ず会いに行くよ」

 身体の横に垂らした手を大きな手に拾われるまで、私は何も言えなかったし動けなかった。腕を引かれ、夏油君の大きな背中に導かれるように皆の輪に加わる。「なに、手ェ繋いでんだよ」なんて絡む五条君をあしらう夏油君を横目に挟みながら見た一眼レフのカメラ部分が歪んで見えた。
 夜蛾先生が駆け寄って加わるのと同時にシャッター音が鳴り響いた。せっかくの記念写真なのに多分、私は上手く笑えていなかった。

20210223