二〇〇五年 東京都立呪術高等専門学校
「お前、弱すぎ!」
二〇〇五年 四月 東京都立呪術高等専門学校 校庭。
無様にも地面に頬を押し付けたまま見上げた後輩は、端正な顔に挑発的な表情を乗せてそう言った。ご丁寧に片手であしらう仕草までつけて。あんまりだと思う。私は三年、彼は一年。先輩と後輩。女と男。文句は山のように浮かぶ。それなのに私は、腹が立つと言うよりは呆気に取られてしまって何も口に出す事が出来なかった。
後輩、五条悟君は、御三家の一つであるあの五条家の嫡男という事もあり入学当初から注目されている少年だった。一年生でありながら既に並みの術師では適わぬ程の強大な呪力と才能を持つ彼は、ついこの間もたった一人で一級の呪霊を祓ったとか、上手い事立ち回ったとか。さて、そんな噂の五条君だが今日は、三年生の先輩――丁度暇をしていた私に稽古をつけてもらおうと思ったらしい。何故そうなる。何故こんな時に限って私のクラスメイトは皆任務に出ていて担任まで不在なんだ。
いい加減、地面に頬をつけているのも苦しくなって来た。地面についた両手を支えに顔を上げる。新品だったジャージはボロボロになってしまって身体中のあちこちが痛いからきっと怪我もしている。先輩とは言え、一応女相手なのだから手加減しろ。と言うか私は、手合わせするなんて一言も言ってない。人の自主トレ中に乱入して来るのはお行儀が悪いと思わなかったのか。言いたい事は山ほどあったが今度も口には出さなかった。誰だって心の声は正直だ。この五条悟君、本当に微塵にも悪いと思っていなかったのである。
「とりあえず、手かして貰えます? 保健室行きたいんで」
「えぇー、制服汚れっしヤダ」
「えぇー、って君ね」
そもそもこうなったのは君の責任なのである。手くらいかしてくれてもバチは当たらない。いい加減怒りで蟀谷がひくつくのが自分でも分かっていた。だが、どれだけ待とうと五条君は手をかしてくれそうにない。諦めを溜息で零し、震える膝に力を入れて立ち上がろうとした時だ。横から大きな手が伸びて来た。
「先輩、良ければどうぞ」
怒りを冷ますかのような涼やかな低音だった。逆光で顔はよく見えなかったけれど、手の主は笑っていたと思う。泥だらけになった無様な私を見てなのか、それとも同情なのかは分からない。けれど、なんとなく悪い人ではないのだろうな。そう思って自然とその手を取っていた。
これが私の夏油君との出会いである。
「うわ、名前。またボロボロにやられてやんの」
二〇〇五年 十月 東京都立呪術専門高等学校 学生寮談話室。
任務帰りの私を出迎えたのは彼らが入学して以来何かと関わる事の多い一年生の三人組だった。
「三級一体って聞かされてたのに二級の間違いだった……」
「ぷぷっ、二級に負けるか普通」
「負けてません、制服を犠牲に祓いました」
三人の横、正確には硝子ちゃんの横の空席に座り机に頬を押し付ける。この学校に在籍している以上いくら学生とは言え呪術師の端くれだ。この業界は何時でも人手不足で三年にもなればしょっちゅう任務に駆り出される。おかげで怪我は絶えないし、今年駄目にした制服だってこれで三着目である。おかげでこれだけ任務をこなしているのに貯金はあまり増えていない。千切れた袖を見せるように右手を振ると斜め正面から五条君の笑い声がした。好きなだけ笑え。下手に同情されるよりずっと良い。
「名前の術式、戦闘向きじゃねえもんな」
「そうなんだよねぇ」
五条君が笑い声混じりに口にしたそれに同意を示す。ちょうど前方に座る夏油君が「悟、名前さんの術式知ってるのか」なんて驚いている声が聞こえた。以前、手合わせと言う名の先輩イジメの際に聞きだされたのである。
「私も後輩諸君みたいに役に立つ術式持ってたら良かったんだけどね」
そう、例えば五条君のように高い呪力を持っていたなら、硝子ちゃんのように高度な反転術式が使えて機転が利く頭を持っていたなら、夏油君のように呪霊操術が使えたならば。意味のない『たられば』を考えては不甲斐ない現実に落ち込む。筋トレ量を増やそうか、そう考えていると斜め前の五条君がこちらを見ている事に気が付いた。「なに?」首を回して問い掛ける。彼は頬杖をついたままサングラス越しの綺麗な瞳を逸らす事なく告げた。
「お前、やっぱ呪術師向いてねぇよ。その術式活かしてカウンセラーでも目指せば?」
途端、夏油君の五条君を叱り飛ばす声が響く。硝子ちゃんは我関せずとして私の頬の傷を治してくれた。
なんて事を言うんだ。謝れ。上手い事諭したつもりなのかもしれないが言い方があるだろう。
いや、君も中々ひどいからね夏油君。頭上で繰り広げられる応酬は何時しか私の事から離れ、ただの喧嘩へと発展している。だが、怒ってくれた夏油君には悪いが決して私は怒ってもショックを受けてもいない。
「まあ、本当の事だしねぇ」
「ん?」
「カウンセラー、意外といいかもなって」
確かに五条君は性格に難があるし口は悪いが、実力に関して嘘は言わない。少なくとも私には。誰に止められるでもない二人の喧嘩はどんどんヒートアップしていき、殴り合いにまで発展していた。五条君が夏油君の胸倉を掴んだ。夏油君が足技を繰り出す。五条君が避けたせいで倒れた椅子がひどい音を立てた。備品を壊したら弁償だが分かっているのだろうかこの二人。
硝子ちゃんの肩を借りてそさくさと談話室を出る。廊下で重々しい雰囲気を纏った夜蛾先生とすれ違った。先生の教育と言う名の拳骨が降るまで後数秒。
二〇〇五年 十一月某日 ○○県北部山林。
ケタケタと嗤い声を上げる呪霊の煩わしい事よ。まるで兎のように跳ねて木々を移動する呪霊を追いかけて既に十五分は過ぎている。
今回私に言い渡された任務は、この山林で登山者相手にちょっかいを出している三級相当呪霊一体を祓う事だ。何故ちょっかいなのか、と聞かれればそれは呪いの類でなく本当にちょっかいだけを出しているから、である。やれ、登山客のリュックサックを奪った、だの転ばせて怪我をさせた、だの何ともまあ小さな積み重ねをした結果上層部から祓うようにとのお達しが出た。そして、ちょうど暇をしていた準二級呪術師の私が指名を受けた訳である。
しかし、この呪霊弱いくせに逃げ足だけは異様に早い。三級相当ゆえ知能も育っていないのか、私の術式を用いても流れ込んで来るものが少なく先を読みづらい。鬼ごっこの要領で険しい獣道を走る事、三十分。そろそろ体力の限界を感じていた時である。
「ええ!?」
木々の間を縫うように、ではなく木々を倒しながら一匹の大きな龍が口を開いて突進して来た。私の追っていた呪霊が飲み込まれる瞬間を目撃し、足を止める。
龍も呪霊の類だ。それも私が相手にした事もないような一級相当、もしくはそれ以上の呪力を持っている。やり合えば確実に殺される。走り続けた足は、一度止まった事により悲鳴を上げ始め、もう先程の速度で走る事は叶わない。詰んだ。私の人生、今日で終いだ。ならば最後は、景気よく玉砕覚悟で挑んでみるか。先生から借りて来た呪具を構え、呼吸を整える。しかし、何時まで経っても龍は私を襲っては来なかった。じっと私を見るのみで動く気配さえもない。
「え? あれ?」
「ぷっ、ハハハッ!」
龍の向こう側、ちょうど蜷局の中心部から聞こえた笑い声に私は呪具を下ろした。同時に脱力する。どうせ今回も制服はボロボロだ。買い直す事になるのだから汚れなんて気にしなくても良い。土の上に大の字で寝そべると同時に足音が近づいて来る。
「名前さん、生きてますよね?」
足音は、私の真横で止まった。厳ついボンタンに両手を突っ込んだまま腰だけを屈めた夏油君は、にやにやと笑いながら無様な私を見下ろす。
「おかげ様で」
腹が立ったが、ここで言い返したところで負けは目に見えているのだ。それに助けられたのも事実である。言葉の節々に棘を仕込ませながらお礼を言って、差し出された手を借りて立ち上がる。龍は既に夏油君の中に仕舞われてしまっていた。
「それで、夏油君はなんでこんなところに?」
「任務の帰りです。名前さんがちょうど近くで任務にあたっていると聞いたので、後輩として勉強に来ました」
「アハハー言うねー」
夏油君いわく補助監督は麓に車を停めて待っているらしい。今し方全速力で走って来た獣道をゆっくりとした足取りで下る。所々にある急な段差や坂道は、先導する夏油君が手を貸してくれた。冷静になってみて、よくこんな道を走って来たものだと自分でも驚く。さっきはアドレナリンが大量放出されていて気が付かなかった。
「そう言えば、私ずっと聞きたかった事があるんですが良いですか?」
「ん?」
「名前さんの術式について」
ああ、そんな事か。クラスメイトは勿論、任務で一緒になった相手に大概聞かれる事だ。戦闘中これと言った戦力にならないがお前の術式は一体何に役立てるのか、と。
役に立たないのは百も承知だ。家族の中で唯一、私と同じ呪術師であった祖母の教えもあってある程度はセーブ出来るようになったこれを、私自身忌まわしく思わないでもない。
「『悟はもう知っていると言っていたし私だけ知らないのは不平等だろ』」
「え」
「私の術式です」
五条君と同じ表情してるよ、と笑ってやれば少しばつが悪そうな表情になる夏油君。初めて見る後輩らしい顔に溜飲が下がる思いがした。
自身の頭に指を添える。トントン、と二回叩いて私は説明を再開した。
「正確には人の脳、思考を読み取れるんだよ。なんかそれだけ聞くと凄い事のように聞こえるけど、そんな大層なものではないし私は心の声が聞けるーなんて言ってる。発動すると私の目に見える範囲の人、全員の声が流れ込んで来るから大勢の前じゃ絶対使えない。私の頭が要領オーバーでパンクしちゃうからね。あ、常に使ってないしそんな隠し事暴こうとかしないから安心して!」
「はあ、そこはまあ心配してませんけど……へぇ、凄いな」
「ええ、何故凄いと言う?」
「確かに悟の言うように戦闘向きではないけれど役立てる方法は山ほどある筈だ」
凄いですよ、誇っていい。なんて同情ではない言葉を掛けて来るのはこれで二人目だ。一人目の五条君は、こんな風に褒めてはくれなかったけれど。ダセェ、でもお前なら上手い事扱えんじゃないの、センパイ。数ヶ月前の五条君の言葉が蘇る。
最後の急斜面で、夏油君は私へ片手を差し出した。迷う事なくその手を取る。大きな男の子の手だった。
二〇〇五年 十二月 東京都立呪術専門高等学校 鍛錬場。
突き出した拳を大きな手に掴まれる。グン、と引っ張られた途端身体が宙を舞い、視界が反転した。床に叩きつけられる音と共に背中に衝撃が走った。一瞬息が詰まり、意識を取り戻すように目一杯吸い込んだ空気で咽る。
「大丈夫ですか、名前さん」
やられた。今日も完敗だった。
術式が戦闘向きではない分、身体だけは鍛えようと夏油君に相手をお願いするようになって二月が過ぎた。本来ならばクラスメイトに頼む所なのだが、私の学年は仲間意識が薄いと言うか一匹狼タイプが多いので頼める相手がいなかった。そんな中、名乗り出てくれたのが夏油傑君である。
一年生でありながら既に五条君に次いでの実力者となった夏油君は、忙しいのに度々こうして私の相手をしてくれている。逆さまで見上げた彼は、口では心配しながら表情は笑顔のままだ。
「大丈夫……今日もまたお粗末様でした」
「いいえ。でも前に比べて動きが良くなりましたよ。さっきの足技は私も驚いた」
「はは、無我夢中で」
「名前さんは相手の心を読めるのだからもう少し身体が動くようになればもっと上手く立ち回れるようになりますよ」
「だといいなぁ」
差し出された手を取って立ち上がる。相変わらず大きな手だ。高身長だからその分四肢も大きく育っている。
夏油君は手加減が上手い。自分の鍛錬にもなるからと体術の相手を快諾してくれているけれど、その実私の身体を気遣ってくれている。今日も背中は痛むが明日には持ち越さなくてもよさそうだ。
「名前さん、年末は家に帰るんですか?」
「うん、そのつもり。夏油君は?」
「私も大晦日と元日は帰省します。両親が顔を見せろと言うので」
「そっか。確か夏油君の家って」
「一般家庭です。だから心配してくれているんでしょうね」
「そうだろうねぇ。私の家も心配してくれてんのかな、帰って来いって連絡あったし」
「一人娘でしょう? 心配ですよご両親は」
「あはは、夏油君、私より年上みたい」
「え、どういう意味ですかそれ」
誰もいない校舎の前を通り過ぎて明かりの灯る寮の入り口を目指していた。鍛錬の帰りは何時もこうだ。他愛のない話をして、身体の痛みを忘れて笑い合う。夏油君は体格に恵まれているし顔立ちも大人びているのであまり年下に見えなかったが、こうして笑っている時は年相応の少年に見えた。
「よし、今日のお礼に先輩がジュースを奢ってあげよう!」
「じゃあコーラで」
代わりに名前さんの分は私が奢りますね、と夏油君は私が制止するより早く小銭を自販機に入れた。にこにこと笑みを浮かべる顔は、もう年相応の後輩には見えない。
「夏油君、絶対モテてたでしょ」
まあ、少しは。声には出さず心の中で返事をされたのが何だか面白くて笑ってしまった。
20210222