あえかな嘘と共に生き | ナノ

月明かりでは心許ない



 東京都立呪術高等専門学校。半年前まで私は最高学年の四年生で、その頃夏油君は二年生だった。彼との出会いはあまり思い出したくない。彼の親友である五条悟君が原因なのだが、まあこの際それは良い。五条君の天上天下唯我独尊な態度には二年間で慣れてしまった。ああ、でも彼らと同学年の硝子ちゃんは可愛かった。優等生とは言えなかったけど数少ない女子同士仲良くしていた自覚はある。あとは、そう、当時一年生だった七海君や灰原君。七海君は冷静沈着何時もクールであまり話せた記憶はないが、灰原君は夏油君を慕っていた事もあって会話する機会も多かった。あの子達も本当に良い子だった。

「名前、灰原はね、死んだんだよ」

 だからこそ、その事実が残念でならない。
 夏油君が双子の女児を連れて家に来た翌日。まだ疲れの色は完全に消えていないものの、少しは顔色の良くなった夏油君がぽつりと呟いた。昨晩、術式で既に知った事だったけれど言葉にして告げられると、その事実が重く圧し掛かる。朝食の準備をする私の背後を陣取るように古びた木製の椅子に腰掛けた彼は、長い黒髪を下ろしたまま子供のように大きな背中を丸めていた。

「そう……」

 つらかったね、悲しいね。掛ける言葉は山ほどあるのに、何を言っても薄っぺらになる気がしてそんな冷たい返答しか出来ない自分が情けない。
 コンロの火を止めて茶碗に卵雑炊をよそう。あの子達は、明らかに衰弱していたし直ぐに味の濃い固形物を食べさせるのは心配だった。薄味に作った雑炊の乗ったお盆を座ったままの夏油君に差し出す。少し驚いた顔をした彼に言う言葉は一つだけだ。

「まずは栄養補給。さ、朝ご飯にしよ」

 用意した雑炊は、ほぼ全て二人が食べてしまった。夏油君と同じく多少顔色のよくなった二人は、不慣れな仕草で蓮華を口に運び入れた。その様子に食欲はちゃんとあるようで安心したが、明らかに夏油君には足りなかっただろうからパンを焼いてあげた。が、ジャムの甘さに惹かれた二人に半分はあげてしまっていたので昼はもう少し多めに、そして腹持ちの良い物を作ろうと決めた。
 今日も二人は夏油君の横を離れない。家の中に興味があるのか彼に頼んで探検していたようだが、この家はそう広くもない築四十云年の一軒家だ。一階を巡り、二階を回れば思った通り直ぐに探検は終わってしまった。

「この家は、私のお祖母ちゃんの物だったんだよ」

 最後に辿り着いた座敷に寝そべる二人とその横に座り込んだ夏油君に話しかけたのは、昼の準備に取り掛かる前だ。昼はうどんとおにぎりの予定なのでリビングで待っていてほしいと伝えようとしたのである。
 突然声を掛けたせいか二人は跳ねるように起き上がると急いで夏油君の背中に隠れた。昨日の今日で信頼されるとは思ってはいないが、こうやって子供に怖がられるのは結構悲しい。

「二人共、隠れてないで出ておいで。名前は同じ呪術師だ。君達を虐めたりしない」

 この子達にとって夏油君は偉大だ。彼に全幅の信頼を預けている二人は、促されるまま恐る恐ると顔を出す。言われた通り前に出ると身を寄せ合いながら私の顔を見上げた。
 本当に大丈夫? 叩かれたらどうする?
 流れ込む心の声は素直だ。二人が過ごしてきた日々の過酷さに苦しくなる胸を隠して、その場に腰を下ろす。見下ろしていては何時までも怖がらせてしまうだけだから少しでも目線を近くして優しく声を掛けた。

「はじめまして。苗字名前です。こんなんだけど一応呪術師で、貴女達の大好きな夏油君の二個上の先輩だったりします。もう知ってはいるけど、一応二人のお名前を聞いてもいいかな?」
「みみこ……」
「ななこ……」
「教えてくれてありがとう。じゃあみみことななこって呼ぶね。私の事は、まあ好きに呼んでよ」

 二人の視線にはまだ戸惑いがある。けれど、夏油君の言葉と自己紹介のおかげかもう私を怖がってはいないようだった。
 夏油様の先輩? 呪術師だって。あいつらとは違うみたい。
 流れ込む声にホッと息を吐くのと同時に唇の端がひくつくのが分かった。夏油様ってどうなんだ。
 しかし、最大の難関は夜に訪れた。人間の尊厳として欠かせないもの、入浴である。流石に男性である夏油君が二人をお風呂に入れる訳にもいかず、自然と担当は私となったが、それはもう苦労した。まず、二人は水に触れる事自体を嫌がった。虐待を受けていた村では満足に入浴もさせて貰えず、冷水を浴びせられた事もあるのだと知った。
 このまま無理矢理入浴させるのは得策ではない。恐怖心を余計に増やすだけだ。一先ずここは安全だと伝える事に専念する事にした。結果、どうにかお湯に浸かる事には成功したが髪を洗うとなると話は別らしい。『みみこ』は嫌がりながらなんとか耐えてくれたが、『ななこ』は全力で抵抗をする。多分、今までこうやって自分達を守って来たのだ。この細く小さな身体に沢山傷を作りながら。

「どうしても嫌?」
「いや」
「でも頭気持ち悪いでしょ」
「きもちわるくない」
「そんな目線逸らして言われてもね」

 ここで、じゃあ仕方がないねと諦めるのは簡単だ。もしくは夏油君にお願いして髪を洗うよう言ってもらうのも良い。けれど、この子は夏油君に迷惑を掛ける事を嫌がるだろう。さて、このままずっと押し問答を繰り返していては湯冷めしかねないしどうするべきか。思案した後、腹を括った。

「二人とも、良く聞くように。冷凍庫にアイスがあります」
「あいす?」
「なにそれ」

 二人が身を乗り出す。アイスすら知らぬまま育ったこの子達に胸が詰まる思いがしたが、それを表情には出さぬよう努力して笑みを作る。

「冷たくてあまーいデザートです。お風呂上がりに食べると美味しいんだよ」

 しかも冷凍庫で眠っているのは某高級アイスだ。私がご褒美として食べる為に一昨日コンビニで買った物である。新作二種類は評判も良く、入手困難な中ようやく入手した貴重品だが、脳内の天秤に掛けた結果入浴に軍配が上がった。
 総じて子供は甘味が好きなものだ。思惑通り二人は、私の拙い説明にキラキラと瞳を輝かせた。既に髪を洗い終えた『みみこ』は、必ず食べられると分かって緩んだ頬を両手で押さえている。

「なるべく顔に当たらないようにするから。我慢出来るね?」
「うん……」

 ギュッと目蓋を閉じて身体を縮めた『ななこ』の頭にそっとシャワーをあてる。我慢していて偉いね。あと少し。あともう少し。私の声に『ななこ』は何度も首を縦に振った。
 楽しみにしていたアイスを交換に二人の入浴を終えると、何故か廊下で夏油君が待っていた。リビング前にある階段に腰掛けた彼は、湯気を立てて駆け寄る二人に笑みを深めると「良かったね。アイスを食べるんだろう?」と声を掛ける。成程、先程の会話を聞いていたのか。仕方がないので、夏油君の入浴が終わるのを待った後普通のカップアイスを半分こしようとしたが、どうやら自分は食べる気がないらしい。
 『みみこ』も『ななこ』はアイスに満足してくれたようだが明日もこれでは懐が痛いので、早々にシャワーキャップを買おうと決めた。

「名前、まだ起きてたのか」
「そっちこそ」

 日付が変わる頃、二人と一緒に寝ていた筈の夏油君がリビングへ降りて来た。祖母から貰い受けたこの一軒家は古く、誰かが階段を使うと下まで響く。ゆえに夏油君が一階へ降りて来たのは分かっていたが、わざわざリビングに顔を出すとは思わなかった。
 今日、私が近所のスーパーで買って来た安物のスウェットを着た夏油君は、落ちてくる前髪を後ろへ撫で付けながら私の横に座る。扉一つ分より近い距離だ。拳が二つ分くらいの、他人の温度が伝わる距離。

「私の部屋のクーラー古いでしょ? ちゃんと効いてる?」
「大丈夫。二人共ぐっすり眠ってるよ」
「なら良かった」
「名前は座敷で寝てるんだろう? 言ってくれれば私達が下で寝るのに」
「あーいいよ。あの子達の寝る場所変えて落ち着かなくなっても困るし」

 言うなればあの子達は手負いの獣だ。身体に触らせてくれるくらい私やこの家に慣れて来たと言っても完全に警戒心を解いたわけではない。逆に私はベッドから布団に変わったところで睡眠の質に変わりはない。仕事道具もあるので時折お邪魔する事にはなるだろうが、夏油君達に部屋を明け渡す事に抵抗はなかった。
 それよりも、だ。

「夏油君、あまり食欲ないね」
「分かる?」

 横目で見た夏油君は、秘密がバレた子供のような顔をして肩を竦めた。大きな手を自身の腹部にあてる。

「非術師由来の食事を取りたくなくてね」
「それ難しくない?」

 スーパーで売られている食材の多くは非術師である農家さんが作った物ばかりだ。野菜は手作り出来たとしても肉や米までとなると難しい。

「……とりあえず家の庭で野菜育てる?」

 冗談半分に呟くや否や夏油君の視線がこちらへ向いた。物言いたげなそれに「なに?」と返す。

「昨日も言ったけど、君、私達を追い出す気はないのかい?」
「……はあ、まあ」
「あと呪術師由来の食事が実質不可能な事は私も理解しているよ。呪術師である名前が作ってくれたものはちゃんと食べるから安心して。今日は本当に食欲がなかっただけなんだ」

 私が納得したのを確認した後、一息置いて続ける。

「知っての通り私は、呪詛師として追われている立場だ。関わればいずれ君にも捜査の手が及ぶ。いいのか? せっかくの人生、棒に振ることになるかもしれないんだぞ」

 口では尤もらしい事を言ってはいるが夏油君の顔は楽しそうに緩んでいる。彼はほぼ確信しているのだ。私が、夏油君や『みみこ』、『ななこ』を追い出す事はないと。そして、悔しい事に彼のその確信は正解だった。

「私も、昨日言ったけどさ。そう理解してんのにわざわざ私の家に来たのは何でよ」
「名前は、昔から私に甘かったからね。絶対迎え入れてくれると思ったんだ」
「うわぁ……確信犯だ」

 こちらも正解だ。ここまで来ると難しい顔をして難しい話をしている事が、何だか馬鹿らしくなって来た。
 身体から力を抜いて仰向けに倒れ込む。仰ぎ見た天井から視線を戻せば丁度私からは夏油君の背中が視界に収まる。大きな背中を小刻みに震わせているから多分笑っているのだろう。少しばかりの腹いせに胡座をかく膝を軽く蹴ってやると逆に足を掴まれてしまった。夏油君が振り返る。月明かりと間接照明だけに照らされた薄暗い部屋で、昨日とは違い彼はやけに大人びて見えた。

「私のして来た事や目的だってもう分かってるだろうに、こうして受け入れる……名前は甘いよ、本当に」

 もし私が追い出したらそれはそれで悲しむのだろうに、わざわざ自分を追い込むような言葉を吐く理由が私には分からない。居ていいよ、ここに。せっかく私を頼ってくれた君を追い出すなんて薄情な事きっと死んでも出来ないから。掴まれたままの足から伝わる夏油君の体温に何だか私の方が泣きたくなった。
 足を解放されたのと同時に起き上がりそっと背中に手を添える。そのまま掌を上下に動かし摩っていると、夏油君は小さく喉を震わせゆっくりと目蓋を閉じた。時刻は午前零時を回った。二階のシングルベッドで眠る二人に起きる気配はない。どうやら今日は、私と夏油君、二人はここで眠る事になりそうだ。

20210215