二〇一八年一月 東京都立呪術高等専門学校
選んだ道の末、残った答えがそれだっただけの事。らしくないとは思わない。ただ、ポッカリと空いた穴がひどく寂しいと思う。口には出さず平気なふりをする。あえかな嘘をどうか見破ってくれるなと、らしくもなく心底願っていた。
■■県■■市■■■町 高専所属呪術師苗字名前自宅前。
二〇一八年一月二日。高専所属呪術師苗字名前に対し呪術総監部より百鬼夜行首謀者(故)夏油傑の間諜として捕縛命令が下される。任務にあたった七海建人一級呪術師が苗字二級呪術師の自宅へ急行。午前九時着。自宅の焼け跡を発見。苗字二級呪術師の痕跡はなく所有呪具も発見出来なかった事から苗字二級呪術師は他百鬼夜行先導者らと共に逃亡したものと考えられる。よって呪術規定九条に基づき苗字名前を呪詛師として処刑対象とする旨をここに通達する。以上関係各位は――
巡り巡って手元へと届いた堅苦しい報告書は、先程紙飛行機にして外へと飛ばした。呪力を込めたから、今頃は落下先で燃え尽きて跡形もなく消えている事だろう。
この部屋は、何時も特有のアルコールの匂いが充満している。あまり好まない匂いだ。寝転がっていたパイプベッドの上で、五条悟は長い足を組み替えた。一九〇を超える長身の振動に、安物のマットレスが窮屈そうに悲鳴を上げる。その音が耳についたのだろう。ひとり机に向かっていた医務室の主、家入硝子は「おい」と同僚へ鋭い声を投げた。
「邪魔。そろそろ出て行け」
「ええー、僕疲れてるから昼寝したいんですけどー」
「さっきまで紙飛行機作って遊んでたくせによく言う」
「硝子だって、あの紙要らないって言ってたじゃない」
珍しく事実を突いた発言に、家入の視線が更に鋭く尖った。これでも引き際は弁えているつもりだ。仕方なく上半身を起こす。再度悲鳴を上げたパイプベッドを宥めるように片手をついて勢いづけて立ち上がった。
「ねえ」
「ん?」
出て行けと言ったのは家入なのに、彼女は机から視線を外さぬまま、医務室の出入り口を目指す五条を呼び止めた。黒の上着のポケットに両手を突っ込んだまま首だけ振り返る。
「名前さん、本当に逃げたと思う?」
「……さ、どうだろうね」
話題がそれならば少しばかり話は長くなるだろう。首だけでなく身体ごと振り返り、五条は背中を壁へ預けた。家入も机の上から視線を上げ、五条の方へ身体の向きを正す。
百鬼夜行の後、負傷者の手当で引っ張りだこだった家入の隈は、以前にも増して濃くなり、コンシーラーで隠す事も止めたようだった。
「もし、傑が生きていたとして名前に「一緒に逃げよう」って言えば間違いなくあいつはついて行ったと思うよ」
「待って。その一緒にーのとこまさか夏油の真似? 似てなさすぎるだろ」
「即興なんだから大目に見てよ。で、そんな名前だけど、傑は間違いなく僕がこの手で殺したし一緒に逃げているなんてありえない。他に名前を連れ出せる存在がいたのかもしれないけれど、年の暮れに話した感じだと逃げ出しそうにはなかったんだけどねえ」
だが、実際名前が居たであろう祖母の実家兼彼女の移住地はただの焼け跡と化し、人の気配はまるでなかった。しかも報告書を上げたのはあの七海だ。彼が、学生時代懇意にしていた先輩とは言え、捕縛対象となった女ひとりをわざわざ庇うとも思えない。
七海の性格を知っている二人は、苗字名前の行方を闇に乗じた逃亡、もしくは死亡の線で考えている。特に何事も俯瞰して考える事の出来る家入は、先輩であった名前を死亡したものとして考えているようだった。五条は、そんな級友に否定の言葉は吐かなかった。同時に、肯定もしない。事実を確かめようがない今、どう考えるも個人の自由だ。
「約束してたのに食事行けなかったな。嘘つきめ」
「なに? 聞こえなかった」
「何でもないよ。ただの独り言さ。じゃ、僕は職員室に戻りまーす。お邪魔しました」
ピシャリと後ろ手で扉を閉める。今度は呼び止められる事もなく医務室を出る事が出来た。
冬の時期、古い校舎はどこも冷えて、廊下は特に凍えてしまうような寒さだ。得意の無下限呪術でも寒さばかりは弾く事が出来ず、五条は小さく「さむ」と呟いて廊下を歩き出した。
報告書が手元に届く以前に、五条は七海から事の顛末を聞かされていた。名前の自宅は焼けて何も残っていなかった事。加えて、手がかりの一つさえもなく、彼女の行方は分からないままだと言う事。七海は大人らしく実直にありのままを報告し、結果として名前は安否不明のまま呪詛師として追われる身となった。
思い返せば、この十年、五条が名前の自宅へ赴く事はなかった。なんとなく夏油と通じている事を察知しながらも、彼女の性格、夏油の性格、全てを鑑みて報告書に書かれた間諜のような真似は絶対に出来ないと考えていた為だ。そして現在、彼女が行方不明となった今も、五条は焼け跡へ行くつもりは一切ない。上層部はその六眼で手がかりを捜せとせっついて来るが、学長である夜蛾が良しとしなかった。親友を手に掛けて日が浅い五条に対するせめてもの譲歩なのかもしれない。そのような手心は、あまり必要としていなかったが、今回ばかりは有難く受け取らせてもらう事とする。
二〇一七年十二月二十四日。百鬼夜行当日。夏油の胸の傷跡は、綺麗さっぱり消えていた。いつ消したかなんて五条は知らない。これから先、知るつもりもない。夏油は、最期の時、苗字名前と言う存在に一切触れる事はなかった。自分が死んだ後、彼女を頼む。最後の言葉を伝えてくれ。そんなメロドラマじみた言葉は一切吐かなかった。十年間、学生時代から合わせれば十二年間も共に生きて薄情な奴だ、と言う者も中にはいる事だろう。しかし、五条はそう思わない。むしろ、あの二人らしい終わりだと思う。馬鹿みたいに大人で、馬鹿みたいに純愛だ。到底真似出来ないし、したくもない。
年の暮れ、泣き腫らした顔をした名前に語った昔の夢は決して嘘ではなかった。学生時代、どこからどう見ても夏油が名前に惚れていたのは確かだったし、名前がそんな夏油を一後輩として以上に見ていた事もまた明らかだった。もし、あの夏の日、本当に自分が名前へ連絡をしていればどうなっただろうか。夏油も名前も居なくなった今になって、そんな事を考える時がある。夏油と名前は、隣同士立っていて、いずれは結婚して、生まれた子供の命名権を巡って自分と喧嘩でもしていたのかな、なんて。あまりに出来過ぎた妄想に思わず自嘲してしまう。
かつての自分では考えられないこの職に就いた事も、全てはあの日が始まりだった。気が付けば十年が経過していた。時は待ってはくれない。感傷に浸る暇はない。先達として後進に授ける知恵や力は山ほどある。もう二度と誰にも口に出来ない腑抜けた夢は、紙飛行機と共に捨て去った。
「うわ、雪」
ふと窓の外を見れば、外で雪が舞っていた。春の訪れはまだ遠く、今夜は特に冷えるに違いない。ちらつく白から視線を逸らす。五条は肩を竦めると速足に誰もいない廊下を通り過ぎた。
ただ、ほんの一瞬だけ、誰も居ない廊下の窓辺に、かつてあった青い春の光景を見た気がした。
あえかな嘘と共に生き/20210530