あえかな嘘と共に生き
「や」
鳴り響いたインターホンの音で目が覚めた。現時刻は午前九時過ぎ。昨日は、帰宅時間が遅かったから睡眠時間は正味三時間程しか取れていない。頭は重いし、それ以上に身体が気怠くて仕方がない。そんな中無理やり起こされた事により気分は急降下の一途を辿り、不機嫌さを隠す事なく鍵を開けて引き戸を横へスライドさせた。
そこには、思わぬ人物が立っていた。夏の強い日差しを背後に、腕捲りした白いシャツに黒のスラックスを履いた一人の男性、否少年。何時も綺麗に結んでいたお団子頭は形が崩れ、毛先が耳の後ろから漏れていた。
両脇に幼い女児二人を従えて、夏油傑は人当たりの良い笑みを浮かべて片手を上げた。呆然とその顔を見上げる。あまりに突然の来訪に、あれだけ感じていた身体の気怠さも何処かへ消えてしまった。だってそうだろう。夏油君と最後に直接会ったのは半年前だ。彼とは、桜の咲く季節、今となっては少し懐かしい母校の校門で別れたきりだった。
夏油君は、あの頃と比べて少し痩せてしまっているように見えた。
「どうしたの、突然。と言うか、その子達……」
夏油君の足にしがみ付くようにして私を見上げる二人の姿は見ているだけで痛々しい。体のあちこちに傷を作り、表情は怯え切っている。黒髪と明るい髪色は対照的だが双子だろうか、顔立ちがよく似ている。黒髪の子はてるてる坊主のような人形を震える手で力一杯握りしめていていた。
あまりにも怯えた双眼で見上げて来るので思わず目線を逸らす。同時に、夏油君は「ああ」と納得したように呟いて二人の頭に両手を置いた。
「この子達を休ませたいんだ。とりあえず上がってもいいかな」
説明は後でするから。九月に入ったとは言えこの炎天下の中、明らかに疲れている様子の後輩と傷ついた子供二人を放置出来るほど私は薄情な人間ではないつもりだ。
私が無言のまま頷くのを確認すると、夏油君は二人を軽々と抱き上げて玄関扉を潜った。両手が塞がっている中、器用に足だけで靴を脱いで物知り顔でリビングへと向かう。平素の彼なら礼儀正しく靴も揃えるのだろうが状況が状況である。代わりに靴を綺麗に揃えた後それを追うと、三人は既にカーペットの敷かれた床に座り込んでいた。とは言っても、女児二人は夏油君の膝の上に座ったままで離れる気配はない。しかも一歩、私が歩みを進めるのと同時に肩を跳ね上げる。あまりの怯えように何をするでもなしに罪悪感が募った。とりあえずこの空気をどうにかしたい。
「えっと、三人とも何か飲む?」
「すまないね。この子達に何か飲みやすい物を頼んでもいいかな?」
「了解」
これ以上怯えさせぬよう、なるべく物音を立てないように立ち上がるが二人はやはり肩を震わせる。罪悪感は更に募り、速足に台所に引っ込んだ。
女児二人の痩せ方や傷、他人に対する怯えようは異常だ。頬の腫れはまるで大人の力で無遠慮に打たれた後のようで酷い虐待を受けていたとしか思えない。あの様子では満足な食事も与えられていなかったのだろう。さて、何を飲ませたものか――冷蔵庫を覗き込みながら考えている時間が長かったらしい。「名前?」と台所の入り口から声を掛けられる。
柱の陰から顔を覗かせる六つの瞳に驚きつつ咄嗟に取ったのは麦茶だった。身体の状態を鑑みて、本当は経口補水液の方が良いのだろうが生憎我が家の冷蔵庫には完備されていなかった。まあ、未だ九月だし、麦茶が無難だろう。夏油君もこの子達も嫌いではない筈だ。急いで麦茶をグラスに注ぎ入れ三人の元へ戻る。この家に少しは慣れたのか、女児二人は怯える事なく、視線は麦茶に縫い付けられていた。
「飲める?」
見えやすいようにグラスの乗ったお盆を少し下げて笑みを浮かべてみると、二人は少し戸惑った様子を見せた後小さく首を縦に振った。よかった、口はきいてくれないが意思疎通は図れるようだ。
二人は、打たれないか心配するように恐る恐るとグラスに手を伸ばした。夏油君に見守られながら覚束ない手つきでグラスを傾けるが麦茶に口は着けない。一度許可を求めるように夏油君を見上げて、彼が頷いたのを確認した後、まず一口。その後、また一口。上手く飲めないのか口の端から零れた水滴は、夏油君が甲斐甲斐しく拭ってあげていた。
「ティッシュ使う?」
「ああ、ありがとう」
二人と夏油君の関係は未だ不明のままだ。彼の家庭環境は在校時代に教えてもらっていたが年の離れた妹がいると聞いた事はないし、彼の年齢からして隠し子なんて事もまずないだろう。そうなると考えられるのは――駄目だ。いくら考えても納得のいく答えが導き出せない。それに術式を使って無理矢理問いただすような真似はしたくない。
家に一度上げた以上、ちゃんと事情を聴きたいところだが、怯える女児二人を前に問いただす真似は出来なかった。
「みみこ、ななこ、眠い?」
一つだけ新情報。この子達の名前は、『みみこ』と『ななこ』と言うらしい。とは言え、どちらが『ななこ』なのか『みみこ』なのかも分からないのだが。
差し伸べられた大きな手にグラスを預けた二人は大きな目をしょぼしょぼと細め、首は舟をこいでいた。互いに身体を寄せ合い小さく愚図り声まで上げている。
「ねぇ、この子達限界みたいだし私の部屋で寝せたら?」
眠そうな子供達を置いて説明しろ、とはやはりいえなかった。
夏油君は、私の提案に悩む事なく乗った。先程同様二人を軽々と抱き上げると階段を登り、一番奥の角にある私の部屋に入る。八畳程の私室は、昨日帰って来たそのままでごちゃごちゃと汚かったが夏油君は何も触れなかった。
先程まで私が寝転んでいたシングルベッドに二人を降ろすと、最初は不安そうに夏油君が側にいるか確認していたが、強烈な睡魔には抗えなかったようで直ぐに寝息を立て始めた。おやすみモードに設定したクーラーを着ける。私が薄いブランケットを掛けてあげても起きる気配はないから余程疲れていたらしい。
「この数日間、まともに休んでなかったからね。ありがとう、名前」
「いいえ。それで、」
「ああ、ちゃんと話す。二人を起こすといけないから部屋を出てからで構わないか?」
皆まで言わずとも理解した夏油君に続いて退室し、後ろ手で起こさないようにそっと扉を閉める。リビングには降りず扉を挟むようにその場に座り込んだのは、二人が起きた時夏油君の姿が見えず不安がるといけない為だ。お互い示し合わせた訳でもなく直感的にそうしていた。
夏油君は片膝を立てて、私は何故か正座をして正面を見ている。互いに視線を合わせる事はしないし、なんの音もしない。無音の空間で、私は、彼が話し出すのをじっと待っていた。
「あの子達は、」
ゆっくりと語り出した夏油君の声色は、彼らしくもなく怒りが滲み出ている恐ろしいものだった。そして語られた内容もまた、遥かに想像を超えたものであった。
夏油君が一つ頷いた。ここで私は、今日初めて術式を使った。決壊したダムの水流のように流れ込む感情に目眩がしたがどうにか耐える。
山奥の小さな村、呪霊、村ぐるみの虐待、檻に入れられ身を寄せ合う二人。あの子達が幼い頃から置かれて来た環境は、劣悪と言う言葉だけでは言い表せぬ程酷いものだった。現代日本でそんなおぞましい事が起きているなんて信じたくはなかったが、夏油君の語りとあの子達の姿がそれは現実なのだと突き付ける。
膝の上で結んだ指に力が籠り、自ずと視線は横へ動いた。それは横の夏油君にも伝わったのだろう。彼は、大きく息を吐くと膝に乗せていた手を自身の頭へ置き、かろうじて纏めていた自身の髪を乱雑に掻き乱した。長い黒髪が一房落ちて、彼の目元を覆い隠した。けれど、それでも分かる。彼の目は爛々として、己が目で見た悲惨な情景を映し出している。
「弱きを助け強きを挫く。呪術は非術師を守るためにある……そう信じて生きて来た。そうあるべきだと己を律し、他者にもそれを解いてきた。それなのにこの一年、非術師の悪意ばかりを感じる。目につく。感情が揺らぐのが自分でも分かる。何故だ? 何故、あの子らが、術師ばかりがこんなにも苦しまなければならない? 名前、こんな、こんなマラソンレースの中、非術師共に守る価値があると思うか?」
私に問う形を取ってはいるが、夏油君は私の回答を必要とはしていなかった。人の思考、心の声は何時だって素直だ。
「……夏油君、君」
それと同時に理解した。
「ああ、殺した。村の住人百十二人。それと私の両親も」
どうせ君には隠し事なんて出来やしないんだ。そう付け加えて、私の方を見た夏油君は苦々しく笑った。背筋に冷たいものが流れた。実際に本人の口から証言されると衝撃も大きい。ゴクリと生唾を飲む。
「その反応……名前の所にはまだ連絡は来ていないようだね」
「……ねぇ夏油君。なんで、こんな時に家に来たの?」
重苦しかった空気は突然入れ替わった。挟んでいた扉の向こうから小さな泣き声が聞こえたからだ。嗚咽混じりだから上手く聞き取れないけど、夏油君を呼んでいるのは明らかだった。
正直なところ消化不良を起こしたような心地である。質問への答えを聞きそびれてしまったが、この泣き声を放っておく訳にもいかない。
短時間とは言え、フローリングに正座をして痺れた足を伸ばしつつ立ち上がる。聞かなくて良いのか、と背中に夏油君の視線が突き刺さるのを感じて首だけで振り返った。
「ある程度事情は分かった。まだ聞きたい事は山ほどあるけど、夏油君も寝なよ。結構酷い顔してるよ」
「そんなに?」
「隠してたつもりかもしれないけど顔色悪いし目の下にも隈。あの子達も疲れているようだけど、夏油君はそれ以上に酷い。あの子達を優先してまともに休息も取ってないんでしょう。布団用意してあげるからとりあえず私の部屋で寝なよ」
「……」
「なに」
返事がない事を不審に思い、身体事振り返ったのがよくなかった。息を呑む。座り込んだまま私を見上げる夏油君の目があまりにも幼くて、思わず驚いてしまったのだ。半開きになった乾いた唇とか、僅かに見開かれた細い双眼とか、頬に垂れた少し痛んだ黒髪とか、色んなものが彼を十七歳の少年なのだと知らしめているようでひどく居心地が悪い。
「……正直、話したら追い出されるかと思っていたんだけど」
「はあ?」
瞬間、現実に引き戻される。
「だって名前は高専所属の呪術師だろう。私はこの通り離反した側だから」
「そこまで理解しているのに私の家に来たって? 言ってる事おかしいって自分で気づきませんかね?」
「うん……まあ、そうだな。確かに酷い矛盾だ」
夏油君は屈託なく笑って見せた。つい数分前はあんなにも怒りを滲ませて苦々しい表情をしていたのに、同一人物とは思えない。
そんなやり取りに、すっかり肩から力が抜けてしまった。何時しか部屋から聞こえる泣き声は二人分となり更に大きくなった。これ以上は本当に可哀想だ。
布団は一階の座敷に置いてあるので階段を駆け降りる。「名前!」すると背後から呼び止められた。階段の手摺に手を掛けたまま顔を上へ向ける。踊り場から顔を覗かせた夏油君は、もう疲れを隠そうともせず小さな声色で一言「ありがとう」と告げた。
二〇〇七年九月某日。この時、私は十九歳。夏油君は十七歳。『みみこ』と『ななこ』は五歳。一人、成人間近の私が、子供達を守るのは当たり前の事なのだと、頭の中で言い聞かせている自分がいた。
20210214