あえかな嘘と共に生き | ナノ

「あいしてた」



 座敷の隅に置いてある和箪笥。その奥に仕舞い込んであった白い着物を見るのは実に十年振りだった。封を開ければ古い匂いがする。手に取った生地は正絹で着物その物に目立つ柄はない。一度しか袖を通す事のなかった純白のそれに汚れは一切付着しておらず、あの日の記憶をそのまま留めているかのようだった。
 おかしなものだと思う。あの日、彼の理想がとうとう形を帯び始めた日に着付けてもらった着物を今、私はひとりで着ている。襦袢を着て着物に袖を通して腰紐を締める。帯は、経験不足で上手く結べなかった。なんとか纏まったお太鼓は、ひどく歪で見栄えが悪い。けれどそれで良いと思えた。私は自身を着飾りたいわけではない。着物に袖を通した事だって、クリスマスに貰ったネックレスを首にかけた事だって、本当ならこんな事をするつもりはなかったのだから。
 伸びた髪を背中へ流した時、何故か祖母の顔を思い出した。子供の頃から慣れ親しんだこの座敷には、様々な思い出が染み着いていたから懐かしくなったのかもしれない。最後に手に取ったそれを袖に入れる。姿見に映った自分の顔は、思いの外晴れやかなものだった。気持ちが悪い、と思う。



「うん、良く似合うじゃないか。残念に思っていたんだよ。せっかく君に似合うと思って用意したって言うのにたった一度しか着てくれなかったから」

 男は、リビングでなく縁側で待っていた。すっかり夜になった外の景色を眺めるように足を外へと投げ出して微笑む顔は、出来合いの物を貼り付けたかのように完璧だ。胸の奥にちりつくような痛みが走るが気づかないふりをした。男は、そんな私の心情を把握しているかのように嘲笑う。勿体つけるようにゆっくりと腰を上げると我が物顔で私の頤に指を掛けた。人差し指が撫で上げるように顎を上へと傾け、腰を曲げ下から覗き込むようにした男は完璧な笑みから一変、夏油君の薄い唇を軽薄に歪めて見せる。

「でも残念。化粧もして来てほしかったな」
「必要ないでしょう」
「あるさ。どうせなら綺麗に着飾った君を抱きたいじゃない」

 表情が歪むのが自分でも分かった。すかさず男がそれを鼻で嗤う。

「どんなに澄ましていてもすぐ顔に出る」

 いいじゃない、弱くて、可愛らしいよ。心にもない言葉を吐いて、男は私の腰に腕を回した。引き寄せられる腕は、昼間包まれたものと同じく温かい。事実とはミスマッチな温度のせいで消化不良を起こしたかのように胃の中がぐるぐるとしていた。死人の身体を思いのまま操り、機能させるこれは男の術式なのだろうか。

「そんなに見つめるなよ。穴が開きそうだ」

 縁側の背後にはちょうど座敷へ繋がる障子がある。肩を押される形で数歩後退りすれば、腰を抱くもう片方の手が障子を乱雑に開け放った。男は、私と自分の位置を反転させるとそのまま畳へ向かって仰向けに倒れた。腰を抱かれたままだった私も逃げる事は叶わず、そのまま男の上へと倒れ込む。

「あーあ、私、押し倒されちゃった」
「……離してくれさえすれば直ぐに退けますけど」
「そうだなあ。でもまあ、」

 腰に回っていた手が腕を掴む。そのまま捻り上げるように力を込められ、再度視界が反転した。受け身も取れず打ち付けた後頭部が畳に叩きつけられ鈍い痛みが走る。頭上で一括りにされた腕は、男の腕力で押さえられピクリとも動かなかった。

「こっちの方がいいかな」
「一つ、聞きたかったんだけど……」

 夏油君の豊かな黒髪が視界を覆い隠すように左右に垂れる。あの夜と同じだ。たとえ僅かでも見つけてしまった類似点にまた胸の奥に痛みが走り、無視をする。見上げた男は、額の縫い目を見せつけるように首を傾げ、言葉の先を促した。

「呪霊操術のスペアが欲しいって、言ったよね」
「ああ、そうだよ。本当はこの肉体だけでも十分なのだけど、念には念を入れておかないとね」
「っ、肉体の……夏油君の家は、御三家や代々呪術師を輩出して来た家庭でもない一般家庭。呪術が相伝するとは、限らないんじゃないの?」
「なんだ、そんな事を気にしていたのか」

 少し驚いたような声色で呟いた男は、そのまま開いていた距離を詰めた。鼻先が触れ合う程の至近距離。弧を描いた目元には言葉では言い表せないような深い闇があった。帳なんかよりよっぽど暗く、誰も寄せ付けないような暗闇だ。
 この時、私は己の術式を用いて男の思考を読もうと試みた。そして後悔する。まず見えたのは瞳と同じ深い闇。その奥に見えたのは、私が見てしまったアレは――

「ああ、私の思考を読んだのだね。何を見たのかは想像がつくけれど……そうだな、これから先長い付き合いになるだろうし、ちゃんと挨拶しておこうか」

 両手が自由になった途端、私は自分の身体を掻き抱いて男の下から這いずり出た。畏怖、嫌悪、憎悪、言い様のない感情が頭の中でひしめき合って今にも割れてしまいそうだ。成す術がない。己の身体、精神全てを守る方法が思いつかない。けれど今、この場に私を守ろうとしてくれる存在はいないのだ。祖母も、美々子も菜々子も、夏油君だっていない。この痛みと恐怖に打ち勝つのは己しかいないのだ。
 男は、上半身を起こすと片手を額の縫い目へと添わせた。乱暴に糸を引きちぎる。ブチブチと糸が皮膚から抜ける音が響いて、縫い目の隙間から液体が溢れ出す。液体は夏油君の顔を垂れて、僧衣と畳に大きな染みを作る。そして、最後の糸が抜かれた時、とうとうソレは現れた。

「な、によ、それ……」

 ソレは私が今し方見た物で間違いなかった。綺麗に切り取られた頭頂部を片手に、醜悪な笑みを見せる男の頭に乗ったソレは人間の脳で間違いない筈だ。満たされていた脳脊髄液でテラテラと濡れたそれには、刻まれた皺を引き延ばし、否、縮めるようにして口がついていた。どんなに弱く、馬鹿でも分かる。男の本体はアレなのだと。アレに、静かに眠る筈だった夏油君の肉体は、弄ばれているのだと。
 袖に入れていた物を取り出す腕に迷いはなかった。恐怖や痛みは、私を奮い立たせてくれた。蹴るように立ち上がり、男の頭上目掛けて振り下ろす。

「無謀な事をするものだね」

 私の身体を突き動かしたのは、きっと怒りだ。無謀、その通り。自分でもよく分かっている。上手くいくなんて微塵にも思ってはいなかった。
 現に男は、焦る様子さえ見せず、大きな掌で私の腕を受け止めた。どれだけ力を込めても刃先は一ミリも動かない。中腰の姿勢のまま瞬きも忘れ見下ろした男は、底冷えする闇色の瞳で私を見上げ、次いで掴んだままの銀色へと視線を移した。

「それは……呪具、か。小刀とは随分と可愛らしい凶器じゃないか。こんな物で私を殺せるともでも思ったのかい?」
「な、にが治して、やったよ……夏油君の、頭開いて、っ、そんな、気味の悪い物置いてよく言うわ……っ」
「せっかく挨拶したのにどうやらお気に召さなかったようだね。いいよ。君の前では二度と姿を見せないと約束しよう。君も、どうせなら愛した男、そのままの姿で抱かれたいだろうしね。ああ、そうだ。呪術の相伝の話だったね。わざわざご丁寧に説明してくれたけれど、そんな事は私だって百も承知だ。ただでさえ呪霊操術はレアなんだ。そう簡単にスペアは出来ないだろうね。でもまあ、いいさ。今回がダメでも次がある。君には負担を強いる事になるだろうけれど、なにせ愛した男の子だ。何度だって産んでくれるだろう?」
「っ、ふざけるな!」

 夏油君の顔を、声を使い、何度も繰り返される言葉にもう飽き飽きとしていた。腕がダメならば足を動かせばいい。反射的に蹴り上げた足を男が避ける。同時に自由になった腕を摩りながら距離を取った。

「やれやれ。そうだった。君に体術を教えたのは彼だったね」

 脳を隠すように蓋をして、慣れた様子で男は皮膚に糸を通していく。そして顔面に垂れる髄液を手の甲で拭うと、居住まいを正した。「さて」そう一息ついて胡坐をかき、頬杖を突く。

「先程も言ったが、私は君の精神が死のうが狂おうが心底どうでもいい。そんな物は一切必要としていない。君の身体さえあればいい。だが、これは言い換えれば私は目的の為、君の命を奪えないと言う事になってしまう。けれど、それで舐められてしまっては堪らないからね。そうだな、次におかしな真似をしたらまずは動けないように足を切り落とそうか。それでもまだ刃を握るようなら腕を。それもまだダメなら……出来る事ならばそんな事をしたくはないが、あの子達に消えて貰おうかな」

 息が詰まった。あの子達――男が示す存在は二人しかいない。

「いいね、その顔。絶望しきって全部諦めた方が楽になると悟った女の顔だ。たかが十年の記憶は、相当君の中で強いらしいな」
「十年よ……たかが、じゃない。十年も一緒に居たのよ。情だって、っ、湧くものでしょう」

 ちりつくような痛みは更に強くなって全身に電流を走らせるかのようだった。加えて先程の術式の副作用もある。もう立っているのもやっとで、震える口で弱々しく反論するので精一杯だ。
 男は、興味がなさそうに目を細めて段々感情的になる私を観察している。そうだ、愛した女、愛した男と情に触れるような言葉を選ぶのに、男は何時だって私を実験動物を見るかのような目で見据えているのだ。情なんて、そこに一切在りはしない。
 それに気づいた途端、耐えきれなくなって俯いた。たとえ中身がまったくの別人だとしても夏油君の目でそんな風に見ないでほしかった。

「じゃあ、この肉体の事も愛してくれよ。十年間、君に触れ、抱き締めて来た肉体だ。何を否定する? 何を拒む? 何故傷付けようとする? 間違うなよ、苗字名前。その呪具の向かう先は、この肉体ではないだろう」

 布ズレの音がやけに大きく響いた。男が立ち上がり、一歩一歩確かな足取りでこちらへ近寄って来たのだ。諭すように語り掛ける姿は、さながら教祖のようで一瞬、十年前に見た登壇する夏油君の姿と重なった。最悪だ。本当に気持ちが悪い。私は、心底己を恥じている。

「私は、まだ条件を提示していない。そっちの条件をのんでもいない。だから縛りはまだ成立していない、そうでしょう」

 視界の端に震える手で握りしめた銀色の刃が映る。白色灯に照らされて光るそれは、逆光になって私の顔を映す事はない。それでよかった。今、自分の顔を見たら決心が鈍りそうで怖かった。

「私、後悔してる。五条君に何も変わらなかったって言ったけれど、もしかしたら何か違った道があったのかもしれない。何時だって同じだって何度も自分に言い聞かせていた『たられば』を、もっと、もっと、ちゃんと考えればよかった」

 呼吸が浅くなった。男に口を挟む隙を与えたくはない。肩で息をしながら早口に捲し立てるように続ける。

「傷つけたくない、そうよ。だって好きな人の身体だもの。これ以上傷一つだって負ってほしくはない。綺麗なままでいてほしい。ううん、本当は、ずっと、ずっと、ずっと一緒に居て欲しかった。あの晩、もっと強く引き留めていればよかった。そうすれば、こんな事にはならなかったかもしれないのに」

 唇を噛み締め、鼻で深く息を吸う。顔を上げた。男は真正面に立ったまま、唇を一文字に引き締め表情から興味を消していた。男は敏い。これから私が、なにをしようとしているのか既に分かっているのだろう。腹立たしいし情けない。結局私は、男に一矢報いる事さえ出来ないのだ。

「クリスマス以降、そんな事を考えている自分がどうしようもなく嫌いなの。夏油君が、自ら決めた最期を否定する自分が気持ち悪くて仕方がなかった」

 腕をゆっくりと持ち上げる。カチャ、と刃が擦れる音が鼓膜を震わせた。

「だから、これ以上、彼の死を否定なんてしたくはない」

 首筋に押し当てた刃は思っていたよりも遥かに冷たかった。ネックレスのチェーンと重なって高い音を立てたから震える腕でなんとか位置を調節する。深く息を吸い込んだ。

「ごめんね」

 皮膚に喰い込んだ刃を一直線、横に引く。鋭い痛みが走り、赤色が滴り落ちる。けれどまだ終われない。このくらいでは、まだ何の贖罪にもなりはしない。一瞬にして崩れた体勢のまま、最後の力を振り絞り、呪力を込めて刃を更に奥へと突き立てる。もう、声も熱も何も感じなかった。
 完全に崩れた身体は血を吸った畳に伏す。耳と目、そして心臓だけはまだ機能しているようでヒューヒューと風を切るような呼吸音が耳に纏わりついていた。男は、立ったまま白い足袋を私の血で汚しながら無様に転がった死に体の私を見下ろしている。男は、私を止める事はしなかった。終わり往く命を神様のように無慈悲に見下ろす。しかし、ああ、視界がぼやけて来た。もう音を拾う事すら難しい。何時だったか夜蛾先生が、呪術師に後悔のない死はないのだと言っていた。私は、今それを痛感している。
 十九歳、必死に大人のふりをした。二十四歳、家を出る三人を見送った。本当は、きっとついて行きたかったのに。違う、それよりも、そうだ。私、美々子と菜々子に大丈夫って嘘をついた。もう、あの子達に会う事も叶わないのに、最後に見たのがあの表情だなんて、ひどく無念だ。怒るだろうか、怒るだろうな。もう嫌いと言われてしまうかもしれない。それは、少し寂しいな。ああ、考えれば考える程何かもが悔しいよ、夏油君。君に伝えられていればよかった。お互い、たった五文字の言葉を口にする事に怯えなければよかった。
 もう動きもしない四肢の向こう、白い着物を赤く汚した私の手に何かが触れた。暖かかった。恋しい温もりだった。視界が暗闇に包まれる。もう何も感じない。けれど、伸ばした手の先だけが暖かくて。

「もう、いいんだよ」

 全て、許されたような気がした。



 事切れた女の身体を無表情に見下ろしていた男は「うわ」と驚きの声を上げた。片足を上げれば、くっきりと畳の上に足の形が残っている。

「これ捨てなきゃなあ……ねえ、替えの足袋あったっけ?」
「儂が知るか!」

 座敷に通じる障子を足で蹴り破った漏瑚は、男の問い掛けに頭部の火山から灰色の煙を上げた。男の向こう、元は白かったであろう着物を己の血で赤く染めた呪術師の女へ一瞥をくれて、漏瑚は忌々し気に舌打ちを零した。

「で、どうする気だ? また別の女を探す気か?」
「いいや。もうそれはいい。元々スペアなんて必要でもなかったし、実験材料が減った今、興味も薄れちゃった。あ、そうだ漏瑚。火を点けてよ。この家ごと彼女の遺体も燃やし尽くせるくらいの火力で頼む」
「なぜ儂が!?」
「頼むよ。苗字名前は行方不明って事にしておきたいんだ。明日には高専関係者が彼女を捕縛に現れる。その時、この遺体を見つけられては怪しまれるだろう?」

 盛大に燃やしてやってくれ、そう言って男は血で汚れた足袋をその場に投げ捨てると一人早々と家を出た。素足で履いた草履が気持ち悪い。仕方がない事とは言えもう少し早く避けていれば良かったと溜息を吐く。燻った臭いが辺りに漂い始めた。振り返れば、庭に面した方角から黒い煙が上がり始めている。
 苛々とした表情を浮かべた漏瑚が家から出て来た。「お疲れ様」と労わりの言葉を掛けるが返事はない。男を無視する形で闇の中へ消えて行った特級呪霊を見送り、男も踵を返す。すると、道の向こう側から少女の悲鳴のような声が聞こえて来た。振り返って、またもや少し驚く。枷場美々子、菜々子。この肉体が苗字名前と共に十年間世話をした少女達が戻って来ていたのだ。

『情だって湧くものでしょう』

 苗字名前の言葉が蘇り、一気に気分が低下するのが分かった。
 目的は達した。早くこの場を離れよう。
 苗字名前の名を甲高い声で叫びながら駆けて来る少女二人に見つからぬ内に夜の帳の中へと身を隠す。ふと、夜中とは言え視界が異様に暗い事に気が付いた。どうやら、これから一雨振るらしい。

20210522