さよならするのは寂しいよ
――思えばもう少し早く、彼の中にある小さな綻びに気付いてあげるべきだった。こうして後悔ばかりが降り積もる。
「ただいま、名前」
背に回る腕の感触があまりにも以前と同じものだったから、動揺するどころかむしろ冷水を浴びせられたかのように頭は冷静になった。だって、こんな事ありえないじゃないか。彼は、既に死んでいるのだから。
両腕で目の前の胸を突っぱねる。抵抗されるかと思いきや、やけにすんなりと距離を作る事が出来た。しかし、離れる事を許すつもりはないらしい。夏油君の姿をしたナニカは目を眇めて自身の胸に添えられた私の手を握りしめる。
「弱いねぇ、名前。本当に君は弱い。自分では冷静になったつもりなのだろうけれど手は震えているよ」
素直だねぇ、と嘲笑うように呟いて男は私の指先に自身の指先を絡めた。震えている。男の言う通りだった。感触が、伝わる体温が、あまりにも知ったものだったから頭は冷静なふりをしても身体は素直に動揺を表している。だから返す言葉が見つからなかった。指先と同じように唇も情けなく震えるばかりで、視界すらグラついて覚束ない。
その時、夏油君の身体の向こうから「名前」と私を呼ぶ声が聞こえた。菜々子の声だった。不安そうなその声にようやく意識が現実へと引き戻された気がした。胸を押しのけ、向こう側、菜々子と美々子に顔を見せようと身体を逸らす。しかし、またしても男はそれを許さなかった。視界が黒に染まる。広げられた腕が私を囲い込むように後頭部と背に添えられたからだ。
「ひどいな。そんなよそ見をして。久方ぶりの再会なのだし、もう少し喜んでくれてもいいんじゃない?」
「っ、離して」
「……仕方がないね」
拘束が弱まり、ようやく顔を見る事が叶った二人は想像通り不安に顔色を曇らせ、夏油君のようなナニカと私を交互に見た。何か声を掛けてあげなくてはと思う。
「大丈夫だよ、美々子、菜々子。安心して」
ありきたりな言葉だったけれど、少しは二人の不安を和らげる事に成功したようだ。本当は今直ぐにでも駆け寄ってあげたい。けれど、繋がれた片手は私をこの場に留めたまま離れる事はなかった。
「大丈夫、ね」
「……」
「まあ、いいや。さて、と。そろそろ家の中へ入ろうか。つもる話もあるだろう」
無言のまま睨み上げる私を物ともせず、男は私の手を引きながら玄関へと向けて歩き出した。その後を、菜々子、美々子と続く。引き戸が閉まる寸前、振り向き見た外では純白がチラつきだしていた。年明け初となる雪だ。今夜は、とても冷えるに違いない。
男は、迷いのない足取りでリビングへ入ると夏油君が座っていた何時もの定位置に腰を下ろした。胡坐をかいた膝に頬杖をついたその顔から笑みが消える事はない。夏油君とはまた違う軽薄な笑みを浮かべたまま、立ち竦む私達三人を見比べて、やがて私に視点を定める。そして「名前」と私の名前を呼んだ。
「十分だけ時間をあげよう。やりたい事があるんじゃない?」
ささやかな譲歩とでも言うつもりだろうか。やけに気安い様子で片手をヒラヒラと振って、男は私達に退室を促す。今度は私が未だ戸惑う美々子と菜々子の手を引く番だった。なるべく男を見ないようにしてリビングを出て座敷へ入る。男は後を追っては来なかった。言葉通りこの十分間だけは、関与するつもりがないらしい。
「名前、あの人……夏油、様の……」
そう呟く菜々子の目には戸惑いと同時に僅かな期待の色が覗いていた。本当は、夏油君は生きていて私達の元へ戻って来てくれたのではないか――そんな淡い期待だ。けれど、同時にそれはないと頭では理解しているのだろう。菜々子は勿論、美々子だってそんな夢を見れるほど馬鹿ではない。夏油君が現代最強の呪術師である五条君により処断されたと言う事実は覆る事はないのだと分かっている。それでも期待を抱いてしまうのは、先日の百鬼夜行で彼女達が心身共に疲れているからに他ならない。
「二人とも、少し待っていてね」
与えられた時間は十分と短い。この間に私がするべき事は既に決まっていた。
引いていた手を離し、箪笥の中から目的の物を取り出す。そして、二つをそれぞれ美々子と菜々子の手に握らせた。手渡した物は、通帳と印鑑である。二人は、目を白黒とさせ動揺の色を見せる。だが、今宥めている暇はない。懇願する目を無視する形で通帳の使い方や必要な暗証番号を言って聞かせた。残り時間は後五分程だろうか。
「向こうに戻れば、きっと他の家族が二人を心配して待っていてくれているはず。もし合流出来なかった時は、この口座にある程度纏まった額のお金が入っているから、これを使いながら頼れる家族を探しなさい」
「名前、なに、言ってんの?」
菜々子が頬を引き攣らせながら私を呼んだ。首を振って呼吸を整える。今、言うべき言葉を間違う訳にはいかない。
「分かっているでしょう? あれは夏油君の姿をしているけれど彼じゃないよ。どうやらあの男は私に用があるみたいだし、今ここを出れば二人の事を今わざわざ追って来る事はないと思う」
「いやだ、名前も一緒に行こう!」
「さっき、あの男は十分だけ時間をあげるって言ったよね。多分、今の私の行動を読んでいるんだと思う。だから行かない。ここから先は二人だけで行くんだよ」
これは、あらかじめ決めていた事だ。あの男の存在は想定外でしかなかったが、元々私は百鬼夜行の重要参考人兼共犯者として高専側に連行される事が既に決定していた。だから、このまま二人とずっと一緒と言うわけにはいかない。心苦しく思う。無念に思う。親同然の夏油君を亡くし憔悴しきって、やっとの思いで私を頼ってくれたこの子達をこうして突っぱねる事しか出来ない自分をひどく情けなく思う。けれど、これが今私に出来る最良の選択なのだ。そう、信じる他にない。
私の手を掴もうとゆらゆらと揺れる二人の手を、自分の方から握り締めた。しっかりと顔を見る。目線は逸らさない。不安がる様子は微塵も見せないよう心かげた。
「美々子、菜々子、大丈夫だから。絶対に大丈夫だからね」
二人は迷うように視線を彷徨わせた後、やがてゆっくりと小さく首を縦に振った。俯いてしまって顔を見る事は叶わなくなったが今はむしろ好都合だ。この子達の泣き顔に決心を鈍らせたくはない。
残り時間は二分。急ぎ靴を履かせて玄関の外に追いやった。手が離れる。指先が最後まで縋り付くように触れて、そっと離れた。
二人が家の前から去ったのを確認するのと同時に引き戸を閉めた。身体から一気に力が抜けて、土埃が服に付着する事も厭わずその場に膝をつく。すると、背後から大きな掌が伸びてきた。その手は腹部へ回り、私の身体を緩く締め付ける。抱き方まで同じとは、恐れ入る。美々子と菜々子、二人を半ば無理矢理追い出した後ろめたさとこの混沌とした状況に、叫びだしたい気持ちでいっぱいだった。ギリギリのところで細い糸を繋いだまま息を吐く。大丈夫、まだ耐えられる。
「優しいね名前。君は弱いからこうする事でしか彼女達を庇えないと思ったんだろう?」
「何なの、アンタ……なんで、夏油君のふりなんて」
「あ、ちゃんと気付いているんだ。ふふ、君がちゃんと区別が出来ていて彼も“向こう”で喜んでるんじゃない?」
「……離れて。気分が悪い」
「そんなつれない事を言うなよ。せっかく子供がいなくなって二人きりになったんだ。大人二人ゆっくりと過ごそうじゃないか」
腹部にただ巻きついていただけの掌が、途端に意思を持ち始めたように動き出す。服の裾を割って皮膚に触れる。温かい。だから無性に腹が立った。
肘を立て背後に振りかぶる。しかし、男は初めから分かっていたかのようにそれを往なし、今度は腕に節立った指先を這わせた。
「怒ってる? まあ、無理もないね。けれどこの肉体は正真正銘夏油傑の物だよ。せっかく欠損した右腕まで治してやったんだ。また、この肉体を傷つける事は君も本意ではないだろう?」
だから大人しくしていろ、とでも言うつもりなのだろうか。しかし、ああ、やはりこの男は私の思考や行動、全てを把握しているに違いない。今にも爆発しそうな感情を抱えたまま下ろした腕にもう片方の手で爪を立てた。あまりにも私は無力だ。
ふと、重い目蓋が開いた。天上が見える。私の部屋だ。シングルベッドに横たわり、額に何かが乗せられている。冷たいような、けれど乾燥したこれは――手を伸ばして納得した。熱さまし用のシートが乗せられているようだった。しかし、何故私はここで横たわっているのだろう。自分でベッドに入った記憶もないし、熱を出した記憶だってない。ぼんやりと天井を見上げたまま、喉の渇きを自覚してきた頃、静かに部屋の扉が開いた。
「名前、起きてたんだ」
目蓋同様重たかった首を曲げると、部屋の扉を閉める見慣れた後ろ姿を見る事が出来た。黒い長髪と同色のスウェットは、私が昔スーパーで買ってきた安物で、もう古いからそろそろ買い替えようと何度も言っているのに彼は頑なにそれを拒んで。彼が、振り返った。緩く纏めた黒髪は、何時ものように一房だけ残して後ろで流されているから形の良い額がよく見える。傷一つないその肌を見て、自然と涙が零れた。
「え、名前!? どうした、そんなに体調が悪いのかい?」
慌てて駆け寄って来た彼、夏油君は大きな掌を私の熱い頬へ当て、心配そうに何度も優しく上下させた。段々頭が冷静になって、今の状況が恥ずかしくなる。首を横に振り、
布団を首元まで深く被って一度大きく息を吐いた。
「ごめん、変な夢を見ていたみたいで……美々子と菜々子は? ご飯、支度まだだったでしょう? 大丈夫だった?」
「ちゃんと食事も取って自分達でお風呂も済ませたし今は一階の座敷で寝ているよ。それよりも今は、自分の心配をしなよ。君、玄関で倒れていたんだから」
「玄関で……そっか、そうなんだ」
夏油君の言葉を反芻していると、途端に強烈な吐き気を覚えた。布団を蹴り飛ばすように跳ね起きて口元を片手で押さえる。
「名前、吐いた方が楽になるよ」
「……うっ、大、丈夫」
「大丈夫って君はそればかりだ」
背後で小さくため息が聞こえたと思えば、節立った指先が口元を覆う私の指を引き剥がしにかかる。やめて。抵抗しようとするけれど、熱で奪われた体力ではまともな抵抗なんて出来やしない。あっという間に私の両手は彼の片手で抑えられてしまった。
「大丈夫と言う言葉は呪いに等しい。君を必要以上に強く見せてしまう。いいんだ、名前。もう、無理に大人にならなくてもいいんだよ」
違う、違う、違う。それを言いたいのは、言いたかったのは私の方だ。彼の中にある小さな綻びに、彼の言葉の意味を真に理解してあげられなかった私は、彼が死んだ今になって後悔ばかりを繰り返している。
ぼろぼろと涙が止めどなく溢れた。シーツに大きな染みを作り、嗚咽と共に吐き気がせり上がる。夏油君の指が頑なに閉ざしていた私の唇にかかった。力が込められる。もう、なんの抵抗も出来ぬまま口を開けた。
「ありがとう、名前。もう、いいんだよ」
私の口からは獣の叫び声のような意味のない音が鳴り続けた。次第に鼓膜がキン、と張りつめたように音を拾うのを止めた。唇が乾いて頬が痛いから口は開いている。喉が焼けつくように痛い。止まることを知らない涙で目蓋が熱い。だから、私は泣き叫んでいるのだと理解する事が出来た。
なんと都合の良い幻覚だろう。現実に夏油君は居ない。こんな言葉をかけてくれるはずもないのに。
20210508