後悔ばかりが降り積もる
通算二十九回目の冬だと言うのに、どうにもこの寒さには慣れそうにない。悴んだ指先に熱い息を吹き掛けて、雪の積もった山道を見上げた。
春、夏、秋とハイキングコースとして有名な■■県南部に位置する■■山。四季折々の風景を見せてくれる美しい山も、冬になれば一気に表情を変える。しかし、冬季にのみ出現する呪霊なんてあまり聞いた事はなかったが、はたしてどのような見た目をしているのか。ふう、と大きく吐き出した溜息は、これから雪山を登るぞ、と言う意気込みとああ、嫌だなあ、と言う尻込みの二つの意味を含んでいた。十一月末の土曜日。本来であれば家で夏油君や美々子に菜々子、三人で過ごしている筈だった。金曜日の夜、急遽舞い込んだ実戦任務に辟易としない人間はいないだろう。
ザクリ、ザクリ、とスノーシューズの靴裏で新雪を踏み締めながら目的地を目指す。呪霊が現れるのは山頂付近にある山小屋であると言う。何故、山小屋なのだ。呪霊も雪を嫌うのか、なんて事前情報の少なさに気分は更に滅入った。送迎の補助監督はつけて貰ったものの、やはりこの業界呪術師使いが荒い。初心者でも安心ハイキングコースと銘打つだけあって、小一時間ほど歩き続けると山頂の山小屋は直ぐに見つかった。補助監督の伊地知君曰く、呪霊の出現には幾つかの条件がある。一つ、冬季の雪が積もった日である事。二つ、時刻は逢魔時である事――特に十八時過ぎが望ましい。三つ、山小屋の中で一人で待つ事。それら三つの条件を満たさない限り、呪霊は現れない。そう、この呪霊、あまりにも出現条件が厳しすぎるのだ。
「やっぱり胡散臭いよなぁ……」
わざわざ雪山に、しかも暗闇の中一人で入山する馬鹿はそう居ない。故に、被害にあった非術師は限られる。加えて、派遣されたのは、二級呪術師である私であり、対象も二級相当かそれ以下である可能性が極めて高い。条件の難しさと階級を鑑みるに、実質的に無害と言って差し支えのない呪霊だ。それを態々祓う必要が呪術界にはあると言うのか――考えてやめた。上層部の思惑など、考えるだけ無駄と言う話だ。お粗末な薪ストーブの炎だけが唯一の暖房機である山小屋で呪霊の出現を待って十五分は経過した。しかし、未だ何の呪力も感じない。
この任務を知らされたのが夜遅くであったのもあって、夏油君には電話でなくメールで今日の事を伝えてある。返信はなかったが、多分彼の事なので内容は把握してくれているはずだ。美々子と菜々子、拗ねてないと良いけどな、と考えている内に、どうやらうたた寝をしてしまったらしい。コンコン、と扉を叩かれる音で跳ね起きた。薪ストーブの炎は消えて、薄暗い山小屋に私の小さな呼吸音だけが響いている。来た。唯一の武器である呪具の柄を握りしめ、術式を発動させる。呪霊に思考があるのかは賭けだが、もしあった場合は行動を事前に知る事が出来るので都合が良い。古びた木製の扉を勢いよく開き、視界いっぱいに対象を写し込む。そして、私は場の緊張感に相応しくない間抜けな声を上げる事となった。
「や。来ちゃった」
「夏油、君?」
扉を開いた体勢のまま見上げた相手は、昨夜メールを送信した夏油傑その人で間違いない。袈裟姿や和服でもなく、雪山に相応しい防寒着で現れた彼は、厚いマウンテンパーカーの向こう側でにっこりと笑みを浮かべた。
「とりあえず入れて貰えるかな?」
「どうぞ……?」
驚愕で固まり切った私の身体を押し込むように山小屋の中へ足を踏み入れた夏油君は、真っ直ぐに薪ストーブの前へ向かうと、そのまま手際良く火を点けた。オレンジ色の炎がゆらゆらと揺れて、室内の温度が上昇し出すのが分かった。先程背中を預けていた定位置に戻り、膝を抱えて座り込む。夏油君も、私の横に来て座り込む。二人の間には、拳一つ分の距離しかない。
「流石に雪山の寒さには堪えるね」
「うん……ところで、何でここにいるの?」
「名前と会えない事が寂しかったから」
「嘘ばっかり」
「本心だよ。勿論、他にも理由はあるけどね」
時刻は十九時に差し掛かろうとしていた。未だ呪霊の気配は一切感じられない。事前の打ち合わせで、ここに留まるのは十九時半までと決めていた。刻限を過ぎても私が戻って来なかった場合は、伊地知君が高専へ連絡、応援を頼む事になっている。一先ず、麓で待っている伊地知君に「呪霊現れず」の連絡を送った。真面目な彼らしく、ずっとスマートフォンを確認しているのか、直ぐに既読がついて「了解しました」と返事が届いた。それを確認するのと同時に、横に座っていた夏油君の視線が何やらうるさい事に気がつく。
「誰?」
「補助監督の伊地知君。七海君の一つ下の代の子だから夏油君も少しは知ってるんじゃない?」
「どうだったかな。あまり覚えはないけど」
拳一つ分は開いていた筈の距離は、完全に縮められてしまった。ピッタリと寄り添うようにして私のスマートフォンを繁々と覗き込む夏油君の目は何処か冷たく、ただでさえ悪かった居心地を更に悪くさせた。急ぎ連絡用アプリを閉じてポケットへ押し込むと、今度は細い眉を顰める夏油君。一体、何だと言うのだ。思わず真横の顔を見つめてしまう。黒々とした双眼と目が合った。
「私と居るのに他の男と連絡を取るだなんて妬けてしまうな」
「ただの業務連絡でしょう。一応私、任務中だからね」
「任務、ね」
夏油君の視線が私から外れたのと同時に、場の空気が張り詰める。彼の視線は、背後の扉の方へと向けられていて、まるでこれから来るナニカを既に目視しているようだった。
古い山小屋の壁がガタガタと揺れ出す。空気は更に重く、分厚い壁のように頭上からのし掛かった。身体を起こす事はおろか呼吸さえまともに出来ない。そんな中でも夏油君はケロッとしていて、ああ、彼は特級だったな……と横に立つ人の凄さを再認識した。
「ねえ、名前。雪と言えば、君は何を思い浮かべる?」
「え……スキー、とか……かま、くら……とか……」
「ああ、そう言うのじゃないんだ。ごめん、聞き方が悪かったね。私達の業界側の視点から見て、何を思い浮かべるか答えて欲しいんだ」
雪、雪、雪、回らない頭で考える。今にも崩れ落ちそうな壁に背中を預けたまま、浮かび上がった答えにハッと息を呑んだ。まさか、そんな感情を込めて見上げた夏油君は、私へ視線を寄越さないまま一つ頷きを返した。彼は、好戦的な笑みさえ浮かべて真っ直ぐに扉の方角を見据えている。
「雪女……古くから美しい女の姿として伝えられる事が多いが、はたして如何程か……」
確かめてみようか。最後の声は、上手く聞こえなかった。耳が痛いほどの静寂と共に周囲が暗闇に包まれたからだ。足元には冷たい雪の感触。まるで全身裸にされて雪の中に放り出されたような感覚。突き刺ささんばかりの冷気に心臓まで凍りつきそうな恐怖を覚えた。身体にかかる圧は相変わらず消えていない。儘ならない呼吸を維持するだけで精一杯だった。
生得領域。規模は小さい。だが、間違いなくこれは対象呪霊が展開した生得領域に他ならない。二級相当などと言う事前情報は何だったのか。伊地知君が嘘を吐くとは思えないし、上層部からの嫌がらせか。考えついた可能性に歯噛みする。すると、暗闇の隙間を縫うように一本の腕が私の方へと伸びた。咄嗟に、その腕に縋り付く。誰の物か、なんて疑問はない。
「ア、アアア、アアアアアア……ァアアア、ァア……」
言葉にならない、泣き声のような女の鳴き声は、縋り付いた腕の更に奥から聞こえて来る。あまりの禍々しさに、思わず縋り付く手にありったけの力を込めてしまった。すると、この空間において唯一の熱源である腕は、私の背へと回り、今にも崩れ落ちてしまいそうな身体を支えてくれる。瞬間、空間が弾けた。
眩しさに目が眩む。場所は、暗闇から山小屋の室内へと戻っていた。私の背を支える夏油君は、未だ真っ直ぐと前を見据えたまま、生得領域に入る前から姿勢すら変えていない。ただ、彼の背後には百足のような姿をした巨大な呪霊が現れていた。無数の細い脚が不規則に揺れ、鋭い牙の覗く口からは威嚇するような息が漏れている。対して私達の足元で鳴き声を上げる呪霊は何だ。かろうじて白いと分かる布を肉体に同化させ、細い髪のような触手の隙間から落ち窪んだ目がこちらを見上げている。生得領域を破られ、既に死に体さながらとなった呪霊は、それでも最後の怨念を振り絞るように鋭い爪を夏油君へと伸ばした。だが、そんな攻撃が彼相手に通用する筈もない。軽く往なす事もせず、手持ちの呪霊で動きを封じ込めると、彼は無表情だった顔に嘲笑を乗せて右手を前へ翳した。
「あの猿の言葉を借りるようで腹立たしいが、生憎女性の趣味には煩い方なんだ」
夏油君の呪霊操術における呪霊の取り込みは、経口摂取で行われる。彼の右手に吸い込まれた呪霊は、黒い球状の物体へと変化を遂げ、勢いよく口の中へと飲み込まれた。学生時代に何度か見た光景だけど、夏油君は呪霊を飲み込む度僅かに眉を顰めるから、あまり見ていて気持ちの良い光景とは言えなかった。
「趣味がどうとか言いつつ、ちゃんと取り込むんだね」
「せっかくの特級仮想怨霊だからね。元々、これが目的の一つだったし」
「ああ、なるほど……紅茶飲む? 魔法瓶持参して来たんだけど」
「準備がいいね。頂こうかな」
先程の戦闘で、すっかり吹き曝しとなった山小屋は吹き荒ぶ風でひどく冷えていた。何とか無事だった小型のリュックサックの中から取り出した魔法瓶の蓋に温かな紅茶を注ぎ入れて差し出す。夏油君は、お礼を言いながら受け取って一気に中身を飲み干した。
真っ暗な山道を降っていると、高専時代、夏油君に私の術式を教えたあの任務を思い出す。あの時は、雪なんて降っていなかったし昼間だったから、今とは全然環境も違うのだけど。何故、こうも懐かしんでしまうのか、原因を考えれば簡単な話だった。あの時と同じように先導する夏油君に手を引かれているからだ。
「前から聞きたかったんだけど、呪霊ってやっぱり不味いの?」
「うん。どんな味か知りたい?」
「ううん、遠慮しとく。来週末、沢山料理作って待ってるね」
「楽しみだな。名前の手料理を今週は逃してしまった分、今から来週末が待ち遠しいよ」
自分で言っておいてなんだが、そこまで私は料理が上手な女ではないと自負している。元より一人暮らしでも困らない程度の料理スキルは身につけていたし、三人が家に来てからは美々子と菜々子、そして夏油君に栄養のある物を食べさせたいとレシピ本を読み漁り、今となってはある程度の腕にはなっているとは思う。しかし、それは世のお母さんの味には程遠く、時折失敗しては調味料に助けられているのが正直な現状だ。にも関わらず、夏油君は楽しそうにメニューを考え出す始末で、それらを脳内のメモ帳に書き留めながら、私は苦笑を浮かべるしかなかった。
「そう言えば、美々子と菜々子は?」
「向こうの家で留守番してもらっているよ。君からメールが届いた時は驚いた後、少し怒っていたけど今は流石に機嫌も直っているんじゃないかな」
「そっか。でも、夏油君が出掛けちゃったからまた拗ねてるかもしれないね」
「ああ、それは否定出来ないな。あの子達が好きそうなお菓子でも買って帰ろうか」
二人の会話の隙間を埋めるように雪の層が軋む音が辺りに響き渡る。麓までもう半分程だろうか。吐いた息と繋いだ手だけが暖かく、先程生得領域を体験したせいか、別世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥った。
特級仮想怨霊――人々の共通認識である畏怖のイメージが呪いとなって生み出された呪霊。話には聞いていたが、本物を見るのは今回が初めてだった。そもそも、私は戦闘に不向きな術式しか持たない二級呪術師であり、特級と言う雲の上の存在と見える事は今までなかったのだ。それが、何故今更になってこんな形で割り当てられてしまったのか。考えれば考えるほど、寒さで満足な働きも出来ない頭は嫌な答えだけを弾き出してしまう。ザク、前方を歩く夏油君が雪を強く踏み締めてこちらを振り返った。
「上層部の老人共は、愚かではあるが馬鹿ではない。奴らは私が宗教団体を設立し、呪いを集めている事も知っているし、当然君が私と通じている事だって察知しているのだろう」
「うん。そうかなって、今、思ってたとこ」
「大方、等級不相応の特級仮想怨霊を相手に君の口を塞げればと思ったのだろうが……アホらしい話だよ本当に。呪術師が呪術師を呪うなんてあまりにも愚かしい行為だ」
夏油君の声の節々には、隠し切れていない怒りが滲んでいた。私ではない、その奥の奥、天辺に座する上層部を睨み付けるようにして彼は、大きく開いた口の間から呪詛師らしい言葉を吐き続ける。段々耳が痛くなって来た。一応、私もその老人共が管理する呪術界に身を置いている術師なのだから当然だった。精一杯の背伸びをして、駆り立てる感情に身を任せんばかりの彼の口にそっと手を被せる。すると、彼は意表を突かれたかのように何度か瞬きを繰り返して小さく笑い声を上げた。
「まったく、敵わないな」
「ごめんね。でも、早く戻らないと伊地知君が心配して応援頼んじゃうから」
「そうだったね……残念だよ。出来る事ならこのまま君を連れて家に帰りたいのに」
冗談はさておき、早く戻らないと本当に大変な事になってしまう。この山の近くに他術師がいるとは思えないが、もし伊地知君が応援を頼んだ術師が空間転移の術式を持っていた場合、夏油君と鉢合わせてしまう可能性がある為だ。
私の思いを汲んでくれたかは定かでないが、また手を引いて先導を始めてくれた広い背中を追いかける。そこからは、会話らしい会話はなかった。ザク、ザクと雪を踏み締める音だけが二人の微妙な空気を取り持つように鳴り響いていた。急勾配の坂を抜けると、麓は直ぐそこまで迫った。僅かに明かりが見える。伊地知君が場所を知らせるようにヘッドライトを点けてくれているのだろう。
「さて、名残惜しいけれど私はここまでかな」
「うん。ありがとう、助けてくれて」
「ふふ、お礼を言うのは私の方だよ。おかげで良い呪霊が手に入った」
繋いでいた手が離れる。私は、急いで伊地知君の元へ向かわねばならないのだから当然の事なのに、この時離れて行く熱に、ひどく焦ってしまった。咄嗟に伸ばした指先が、引っ込めようとしていた彼の手を掴む。夏油君がキョトンと目を大きくさせて不思議そうに私の名前を呼んだ。私は、自分の子供のような行動に驚いてしまって満足な返事も出来ずにいた。掴んだままの彼の手に力は入っておらず、引き離す気もなければ繋ぎ合わせる気もないのだと知る。彼らしい、優しくて真面な判断だ。「時間、大丈夫?」夏油君が現実に引き戻すように自身のスマホの画面を見せて来た。時刻は十九時半をとっくに回ってしまっている。数字の羅列を見て、僅かに冷静さを取り戻した。そうだ、行かなければならない。
「ごめん、なんか感傷的になってるのかも」
「……私と、もう会えないような気がした?」
夏油君の問いは的確に、私の脆い部分を突いて来るものだから、咄嗟に貼り付けた笑みは糸も容易く剥がれ落ちた。
「冗談だよ」
ついに頭が回らなくなって、ようやく離す事の出来た手を視界の端で追い続ける私の肩に大きな手が回される。引き寄せられるまま、肩口に顔を埋めた。不思議な事に嗅ぎ慣れたと思っていた白檀の香りが今はしなかった。ずっと忘れていた、夏油君本来の香りが心臓の鼓動を活発化させる。
「そうだな、明日は無理でも明後日には帰って来るよ。ちゃんと私のスペースを空けて寝ていてね」
「うん」
「大丈夫そう?」
「うん」
「そう、良かった」
最後に二回、私の肩を叩いて夏油君は飛行型の呪霊に乗って暗い空へと消えて行った。残された私の背後では第三者、伊地知君の声が聞こえる。やはり心配を掛けていたのだろう、切羽詰まった声に片手を上げて応えつつ、私もようやく山を降りた。
その数日後、十二月頭の寒い日だった。呪詛師夏油傑は、仲間の呪詛師数名を引き連れ呪術高専ひいては呪術界へ宣戦布告を行った。決行日は、十二月二十四日クリスマスイヴ。刻一刻と迫り来る刻限の気配を色濃く感じつつ、月日は常と変わらぬスピードで過ぎて行く。
20210411