あえかな嘘と共に生き | ナノ

とても美しい日々でした



 春はお花見、夏は海水浴、秋はお月見、冬はクリスマスにお正月、また春が来て桜が咲いて散って、木々が青々とした葉を生暖かい風に揺らし始めた頃。ふと、もうすぐ十年が経つんだなあ、と実感した。
 庭に面した縁側でひとり梅酒の入ったグラスを揺らして、ぼんやりと空を見上げる。今年で私は二十八歳、夏油君は二十六歳、美々子と菜々子は十四歳になる。まだ未成年だった夏油君は今や立派――ではないかもしれないがれっきとした成人男性で、美々子達なんてあんなに小さかったのにもう中学二年生と同じ年齢に達している。月日が経つのは本当に早くて、以前はあの子達の成長を喜ぶように過ぎていた筈なのに、何時からかもう少しゆっくりと過ぎて欲しいと願ってしまうようになった。去来する一抹の寂しさを払拭するようにグラスを掴もうとしたのだが、後ろから伸びて来た手にスイ、と奪われる。

「月見酒かい? 私の分はあるのかな」

 私の飲みかけのグラス中の氷をカランと揺らして、にっこりと笑みを浮かべた顔に苦笑を溢す。夏油君は、相変わらず週に何度か真夜中にやって来ては私のベッドで軽い睡眠を取り、明け方には戻って行く生活を送っている。向こうでは日夜説法を解き呪霊を集めているのだろうに、あまりにハードな生活に身体はつらくないのかと何度か聞いた事がある。だが、彼はその度「大丈夫、私は強いからね」としか答えないので何時しか聞くのをやめてしまった。

「今日は私が起きてる内に来たんだね」
「思いの外、早く方がついてね。飛行型呪霊飛ばして来ちゃった」

 夏油君の格好は白の寝間着に羽織を一枚と薄手で、すっかり寝る準備は整っている。しかし、その格好に反してまだ寝る気はないのか、彼は手渡した新しいグラスを傾けて縁側へと足を投げ出していた。

「美々子と菜々子は?」
「まだ起きているんじゃないかな。流石に大きくなると二十二時には寝てくれないね」
「そっか。二人の事は他の家族が見てくれてるんでしょう?」
「ああ。何かあれば連絡が来るようになってるから安心していい」

 そう言って夏油君は懐からスマホを取り出し、嫌そうに振って見せた。彼の非術師への憎悪は消える事なく大義として心の中に棲みついていて、消える事はない。スマートフォンでさえ、連絡用として必要でないのなら本来は持ちたくはないのだろう。何の通知も入っていないと確認するや否や、カバーも何もついていない何世代か前の鉄の塊は乱暴に後ろへと放り投げられてしまった。
 新しいグラスと引き換えに返されたグラスを両手で握りしめて、目線を変えれば庭に立つ一本の木が目に留まる。何時だったか美々子と菜々子と共に植えた木は、元々日差し避けにと用意した物だったが、思いの外逞しく成長してくれて今では庭で一番目立つ存在となっていた。

「大きくなったね、あの木」
「うん。植えた時は、あの子達より全然小さかったのにね」

 子供は飽き性なもので、初めこそ苗木の成長を日々心待ちにしていた二人も、今となっては気にも留めやしない。まるで初めからそこに立っていたかのように扱われる木の青々とした葉を見て胸を撫で下ろす気持ちは、私ひとりだけのものだと思っていたのだがどうやらひどい勘違いだったようだ。
 グラスの中身を一気に煽っても顔色一つ変えない夏油君は、夜風に泳ぐ自身の黒髪を乱雑に纏めると足を組み替える。彼の目は庭ではない、どこか遠くを見ているように細くなっていて、私はその光景から目を離せずにいた。そんな私の視線に気がついたのか、一つゆっくりと瞬きをした黒色の瞳がこちらへと向けられる。

「長い付き合いになってしまったね」
「なに、改まって」
「すまない。美々子と菜々子、二人の成長とあの木の成長を重ねてしまったのかな。少々感慨深くなってしまった」

 私は、そんな風に謝ってほしかったわけじゃない。ただ、同じように一抹の寂しさのようなものを感じてくれているのかな、と淡い期待を抱いただけだ。
 上手い言葉を返せなくて押し黙った私に夏油君も何も言わない。互いに無言のまま、ぼんやりと庭と空を見上げ、空になったグラスの中で溶け出した氷で手持ち無沙汰に喉を潤す。この無言は苦痛ではない。拳一つ分の程よい距離感はひどく私を安心させたし、きっとそれは彼も同じだろう。
 そうして氷も全て溶け切った頃、そっと口を開いたのは私の方からだった。

「あの子達が成人した時、私も夏油君も三十歳を超えてるんだよ。信じられる?」
「三十二歳か、想像つかないな。名前は全然変わってなさそうだけど」
「どうだろうね。でも私は、きっと三十歳を超えても、いくつになっても、この家にいると思うよ」

 唯一確かな事はそれだけで、夏油君の言う通り六年後の自分なんて想像がつかない。もう少し年相応に大人になれていたらいいな、なんて想像だけ膨らませて立てた膝に顔を埋めた。飲酒したのは久々だったから多分少しだけ酔っている。

「じゃあ、二人の初めての飲酒はここで決まりだね」
「うん?」
「外で飲ませるのは不安だし、何より私と名前が見ていれば安心だろう?」
「……」
「なんだい?」
「いや……六年後も、ここに帰って来るんだな、って」

 それなのに、夏油君の何気ない一言が酔いを急激に覚ましてしまった。
 思わず膝から顔を上げてしまう。尻窄みになる私の声に、細く鋭い目が何度か瞬きを繰り返すのが見えた。

「帰って来ちゃダメなの?」
「違うけど……むしろ、いいの? 家に、ずっと帰って来てくれるの?」
「名前、さては酔ってるね」

 こんな時の「酔っていない」は酔っ払いの常套句だ。口に出そうとしていたその常套句を咄嗟に飲み込み、膝に回した両手に力を込める。
 そんな私に夏油君は、少しだけ呆れたように肩を落として、袖に隠すようにしていた両腕で私の肩を引き寄せた。抵抗はしない。もう何度も触れて体験して来たハグだ。その効果を、私はよく知っている。

「帰って来させてよ。私やあの子達にとって君は大事な家族で、ここは実家だ。四人でずっと暮らせたら、という気持ちは今でも忘れていないよ。あ、勿論向こうの家族だって大事だけどね」
「夏油君、やっぱり私に甘いよ」
「じゃあ、もうお互い様って事にしておこう。名前も大概私に甘いから」

 だから変わらないって言うんだよ。そう付け加えて夏油君は私を抱き込む腕に力を込めた。彼からは相変わらず落ち着いた白檀の香りがする。彼自身の本来の香りはとうに忘れてしまい、今となっては未練がましく記憶の片隅に残り香がちょこんと居座っているだけだ。
 そっと回した手で何度か広い背中を叩いてやれば、少しだけ拘束が緩くなる。昔からどこか年以上に大人びたところのあった夏油君は、六年の間に更に輪をかけて大人になってしまった。呪術師のための世界を作ると言う大きな理想が乗った背中は、きっと私が思うよりずっと強くて逞しいものだ。私の方が年上なのだからと守らなくてもいいくらい――本来なら、私の助けなど彼はもう必要としていないのだろうに。
 何年の前から分かっていた事を突きつけられたような気持ちになって、私は表情が見えないよう俯きながら自嘲した。その間も、彼は自身の顎を私の頭頂部に乗せて何度も名前を呼んで来る。「聞こえてるよ」と返せば「よかった」と安心したように笑う。

「名前」
「はいはい」
「名前、大好きだよ」
「うん、ありがとう」
「名前」
「夏油君、酔ってないよね?」
「たった梅酒一杯で酔うわけないだろ」

 出た、酔っ払いの常套句。しかし、夏油君の場合は本当に酔っていない時のそれなので当てはまらない。
 それでも尚、私の名前を呼び続ける彼が何だかおかしくなって、笑いながらずっと背中を叩いていると、少々力がこもり過ぎたのか「痛っ」と頭上から恨めしそうな声が降ってくる。それに「ごめん」と返せば、仕返しのように綺麗な額を無防備な肩に押し付けられた。

「名前」
「だからごめんって。なに?」
「美々子と菜々子が、この町の夏祭りに行きたいって」
「あー……そう言えばもうそんな時期か」

 この小さな田舎町で唯一の観光名所と呼べる神社では、毎年お盆を過ぎた頃過ぎゆく夏を惜しむかのように夏祭りが開催されていた。昔は神事を主に執り行い、そのおまけで軽食を配るような小さな行事だったのだが、今では多数の出店が並び打ち上げ花火まで上がるとあって中々に盛り上がるようになったそうだ。
 かく言う私も子供の頃、一度だけ祖母に手を引かれ祭りに足を運んだ事がある。その頃の私はまだ自身の呪力の制御方法さえ知らず、町の住人だけならばいざ知らず周辺地域の住人まで山のように集まった会場で見事に術式を暴走させた。あの時の割れんばかりの頭痛と吐き気がトラウマで、それ以来自ら足を運んではいなかったのだが――

「二人もちゃんと参加した事なかったもんね」

 一度だけ、まだ幼かった美々子と菜々子を祭りに連れ出した事があった。騒がしい境内に興味を引かれたらしい二人に、社会勉強を兼ねて実物を見せてあげようと考えての事だった。
 その日ちょうど夏油君は出掛けていたし、何より彼は非術師が集まる祭り会場を嫌うだろうから、携帯に一言断りのメールを送信して祖母のように二人の手を引いた。しかし、それは誤った判断だった。二人は、非術師が集まり活気づいた会場に足を踏み入れた途端目に見えてガタガタと震え怯え出した。呼びかけても「いや」としか口に出さず、咄嗟に使った術式で聞こえたその声に私は自身の軽率さを心底憎く思った。
 その後は、二人を両腕に抱え上げて家まで全速力で駆けた。幸いな事にちょうど夏油君も帰宅したところで、二人は彼の姿を見るや否やぼろぼろと大粒の涙を流して大きな身体に力一杯しがみ付いた。それ以来、私はあの子達に夏祭りの話題を振って来なかったし、あの子達もまた一切口に出す事はなくなった。

「成長だなぁ」

 それなのに、こうして自ら夏祭りに行きたいと口に出したのは肉体だけでなく精神面でも成長した、と言うことだろうか。
 私の肩に顔を埋めたままだった夏油君が、同意するようにグリグリと額を押し付けてくる。美々子や菜々子も昔よくこうして甘えて来ていたが、大の大人でしかも男性である夏油君にされるのでは痛みが違うのでやめて頂きたい。羽織を引いて離れるように促すと、耳の下辺りから「ふふ」と小さな笑い声が聞こえて来た。どうやら額は離しても身体は離れる気がないらしく、私の肩に側頭部を預けるようにした夏油君は、そのまま心地良さそうに目蓋を閉じた。

「どうしたの、なんか嬉しそう」
「そう? まあ、今日は少し疲れているのかもね。甘えたい気分なんだよ」
「さっきまで私の事を甘やかそうとしていたのに?」
「ふふ、だからお互い様って言ったじゃない」

 目蓋は閉じられたまま心なしか声までとろんと柔らかくなっているが、このまま寝られては困ってしまう。しきし、いざ添えたままだった手で何度か背中を叩いて寝室に行くよう促すと、意外と素直に従ってくれたので拍子抜けしてしまった。グラスを片付けるのも億劫で、戸締りだけ確認して二階へ上がると、さっさとベッドに入った夏油君がおいでと言うように手招きする。元は私のベッドだったはずなんだけどな、なんて思うのは性格が悪いだろうか。そんな事を頭の片隅で考えながら、壁側に出来た狭いスペースへ身を寄せた。
 頭を預けた腕からはやはり白檀の香りがする。それと少しだけ梅の香りも。

20210325