あえかな嘘と共に生き | ナノ

花は盛りに



 早朝、鳴り響いたチャイムの音で目が覚めた。遮光カーテンを締め切っているせいで陽光の差し込まない暗い室内で、唸り声を上げながら重い頭を枕から持ち上げる。枕元の目覚まし時計を見た。現時刻は午前十時。明らかに早朝ではない。だが、昨晩は任務で帰って来たのが明け方だったので、たとえ昼に差し掛かっていようと私にとっては早朝の感覚なのである。ガシガシと後ろ手にボサボサになっている髪をかいている間にもチャイムの音は鳴り続ける。田舎町でお隣さんとの距離がそこまで近くないとは言っても、こうもずっと鳴らされていては流石に近所迷惑だ。溜息を一つ溢して一階へ降りる。
 そうして開けた玄関の先、春の陽気に照らされて満面の笑みを浮かべる二人の少女に暫し時が止まったような感覚に陥った。

「名前、出掛けよう!」

 朝の挨拶もそっちのけで元気に提案したのは菜々子で、横の美々子も人形の向こう側で頬を緩めながらこくこくと首を縦に振っている。二人から視線を外してその背後を見れば、車道には見慣れた黒塗りの車が一台停まっていて、運転席のドアに寄り掛かるようにして苦笑する夏油君と目が合った。彼は、珍しい事に和服でなく春物の洋装だ。髪は何時ものハーフアップだけど白のロングTシャツと黒のスラックスに片手にはジャケット、見慣れない服装に瞬きを繰り返す私が余程間抜けに見えたのか、彼は小さく笑い声を上げると美々子と菜々子を呼んだ。

「ほら、用件は後にしてまずは挨拶しなさい」
「あ、おはよう名前」
「おはよう」
「お、おはよう……どうしたの、三人とも。今日、平日だけど」

 何時も三人が帰って来るのは土曜日であって、記憶が確かならば今日はまだ水曜日だ。夏油君も今週は忙しいのか、夜に帰って来る事もなかったので余計に驚いてしまう。
 普段ひとりで過ごしている週の半ば。予告なしの帰宅のため家には何も用意出来ておらず、このままではこの子達に昼食の準備さえしてやれない。必死に冷蔵庫の中身を思い出そうと頭を悩ませていると腕を引かれる感覚があった。伸びた明るい髪を、昔夏油君がしていたようなお団子に纏めた菜々子が頬を膨らませながら見上げている。

「あのね、三人とも帰って来るなら帰って来るでちゃんと連絡くれないと……もし私がいなかったらどうするつもりだったの?」
「ちゃんと調べてから来たし。ねえ、夏油様」

 菜々子の甘えた声に、車に寄り掛かったままの夏油君が一つ頷いた。それもそうか。何かと忙しい彼が時間の使い方を間違うはずもない。大方、来る前に手持ちの呪霊で私の現在地を確認したのだろう。

「お出掛けしよう」
「突然だなぁ……」

 もう片方の腕を引かれる感覚に視線を巡らせれば、美々子が控えめにそっと私のパジャマの袖を引いていた。今年十三歳になる二人は、女性らしく成長を続ける身体を目一杯揺らして遠慮なしに私の両腕を引っ張っている。睡眠時間が足りておらず、いまだ寝惚けた頭にその振動は中々きついものがあったが、振り払うのもなんだか可哀想な気がしてされるがまま揺られていると頭上に影が差した。

「二人ともそろそろストップ。名前が具合悪くしたらどうするの」

 二人は、親代わりの夏油君をとても慕っているので彼の言う事にはお利口さんに従う。解放された腕とパジャマの袖を確認していると、夏油君の大きな手が私の髪を撫でた。多分、寝癖を直してくれているのだと思う。

「で、なんでお出掛け?」
「実は昨日、信者の猿同士が揉めてね。その後処理で今日は、教祖様はお休みなんだ。平日にフリーになるのは久々だし、せっかくなら二人のお願いを聞いてあげようと思ってね」
「平日なら猿も少ないし街に買い物に行きたい!」
「夏油様と名前と私達の四人がいい」

 後処理と言う言葉は、何だか不穏な響きを持っていたが深く聞くような真似はしない。
 もう腕や袖を引いたりはせず左右からこちらを見上げる二人の目は期待に輝いていて、私が断るとは微塵にも考えていない事が窺えた。実際のところ私の中では天秤が揺れていた。左右に乗った錘はそれぞれ、このまま寝て身体を休めたい気持ちとこの子達のお願いを聞いてやりたい気持ちだ。しかし、結果は既に分かり切っている。夏油君はこの子達に本当に甘いけれど、私だって甘い自覚はあるのだ。可愛らしいお願いを無下に出来るはずもない。
 結果として、私は急いで顔を洗い、出掛ける準備を終えて、三人に連れられ街に繰り出す事となった。なお、黒塗りの車には何時もの運転手らしき部下の姿はなく、運転は全て夏油君が行った。高専時代から今まで彼が運転している姿を見るのも、免許を取りに行ったという話も聞いた事はなかったので正直とても恐ろしかったのだが、予想に反して彼は至極安全運転で事故を起こす事もなく車は、パーキングエリアに駐車された。

「夏油君、免許は?」
「あるよ。ほら」

 仲良く手を取り合い、どこから見て回ろうかと目を輝かせる二人を見失わぬよう後ろをついて行きながら問いかけると、夏油君はにっこりと笑って財布から一枚のカードを取り出した。確かにどこからどう見ても運転免許証だ。ちゃんと顔写真もついているし、驚いた事にゴールド免許である。しかし、非術師を嫌う彼がわざわざ講習所に通ったとは思えず繁々と見上げてみるが、彼はにっこりと笑うのみでこれ以上は何も語ってはくれなかった。
 春らしい明るい色合いのミニ丈ワンピースを纏った菜々子が流行りの音楽が流れる雑貨屋へと吸い込まれて行く。その背中を藍色のロングワンピースを纏った美々子が追いかけて行った。全国展開している有名な雑貨屋なだけに店内は広く、平日の真昼間であるにも関わらず店内はごった返していた。
 未だ何かと世間知らずなところのある二人だ。このまま見失って逸れてはいけない。急ぎ足で入店しようとすると背後から手首を掴まれ、足を止める。振り返れば、私の手首を掴んだ夏油君は人の流れの邪魔にならないように店の脇へと歩き出した。店の出入り口が見える位置で足を止める。壁に寄り掛かるようにして無言でスマホを操作する彼は、何か送り終えたのか「これでよし」と一言呟いて唖然とする私を見下ろした。

「心配しないで。二人には店の前で待っているって連絡を入れたから大丈夫」
「それは、よかったけど……なに、どうしたの。やっぱりこういう非術師が集まる場所はきつい?」
「はは、私の心配までしてくれるのか。毎日山ほどの非術師相手にお説法しているんだよ? このくらいの人数は平気に決まっているじゃないか。それより、私の方が心配しているんだけどな」
「ん?」
「右足首、庇っているよね。どうしたの」

 夏油君の細い目は綺麗に弧を描いていたけれど、笑っているようでいてまったく笑ってはいなかった。ついでに言うなら疑問形ですらなく、私の足の負傷を確認するような言葉の選び方に流石だなと感心する一方で若干の居心地の悪さを覚える。

「昨日、久々の実戦任務だったの。相手は二級だったんだけど、最後にちょっとミスっちゃってね、その時に軽く捻ったみたい」
「へえ。その呪霊は祓ったの?」
「うん、それは勿論」
「そう……」

 何か考え込むように夏油君の視線が私から離れて、街を歩く人混みの方へと向けられる。なんとなく、あまり良い事を考えていない気がして手を伸ばした。そっと今朝の美々子のように、彼のロングTシャツの袖を引く。そうすると視線の的は外れないまま、骨張った大きな手が弱々しく袖を掴んだままでいた私の手を捉えた。

「多分ね、名前が怪我をする事が完全に怖くなっているんだよ、私」
「夏油君?」
「君が意に添わない任務に駆り出されている事だって本当は腸が煮え繰り返る思いがするんだ。矛盾しているだろう? 私だって呪詛師なのにさ」

 夏油君の言葉は、暗に尋問官としての任務内容について触れるものだとは分かっていた。夏油君に助けられたあの件があって以降、私は呪詛師への尋問任務が舞い込む度、心臓が凍り付くような錯覚を覚えるようになった。これから私が思考を暴く相手にも家族がいて、その家族が復讐に走るかもしれない。凶器は私へ向けられて、その度、私は自分の無力さや情けなさを痛感するのだろうか。そんな空想が頭から離れないのだ。
 硬い指先が手の甲を滑る。ちょうど血管の上をなぞるように下へと降りて、指を鷲掴みにした。相変わらず彼の視線は非術師の群れから離れる事はなく、冷たい色を帯びている。私は何も言えず、ただ触れた指をそっと握り返した。

「……」
「……」
「二人とも、隠れてないで出ておいで」
「え」

 何の前触れもなく視線を動かした夏油君の先、店の出入り口の角からそっと顔を出す同じ顔に咄嗟に手を離す。
 照れたような、少し気まずそうな、複雑な表情をした二人の顔を見るのはこれが初めてではない。数ヶ月前、突然祖母の家に帰って来ても二人で寝ると言った時と同じ表情をして、二人は店のロゴの入ったビニール袋を揺らしながらおずおずと近づいて来る。
 何故だろう、何もやましい事などしていないのに罪悪感を覚える。つい数十秒前まで頭の中を占めていた呪詛師のあれそれを忘れてしまうほどの強い罪悪感を抱える私とは対照的に、夏油君は「次、行こうか」と清々しい笑みを浮かべて二人の頭を軽く撫でていた。
 通りに面した店やモール内の店舗を見て回っている内に、二人の表情は街への到着時のそれに戻りつつあった。それに一先ず安堵して、両腕に抱えた紙袋やビニール袋を抱え直す。

「夏油君、買ってあげ過ぎ」
「んー、いいじゃない。たまになんだし」

 私ですら両腕が塞がりつつある中、夏油君の両腕は既にあの子達の買い物で埋め尽くされている。いくら甘いと言っても流石に買い過ぎた自覚があるのか、私の指摘に言葉を濁した彼は腕時計を見て、双子らしく揃いのキーホルダーの会計を済ませた二人を呼び寄せた。

「そろそろ帰ろうか」
「えー!」
「もう少しだけ」
「ダメだよ。十七時には戻るって約束だっただろう?」

 不満そうに頬を膨らませる二人に視線を合わせるようにして腰を屈めた夏油君の言葉使いや声色は、幼子に言い聞かせるようなそれだ。口調は柔らかいけれど夏油君が首を縦に振る事はないと悟ったのだろう、二人の視線は次に私へ向けられる。寂しそうに下がった眉と潤んだ目が哀愁を誘うが、当初の約束がそれならばここで私が折れるわけにはいかない。

「また今度来よう」
「ええー、そんなぁ……名前だってもう帰んの嫌でしょう?」
「確かに寂しいけど土曜にまた会えるじゃない。二人が好きなおやつ作って待ってるよ、何がいい?」
「ケーキ。ホールの。苺いっぱい乗ってるやつ」
「うっ、な、中々手間のかかる物を言うねぇ……」

 考えてみれば、二人にとって最後の抵抗だったのかもしれない。今まで彼女達が食べたがる物はホットケーキやクッキーと言った比較的簡単なお菓子ばかりで、ホールケーキなんて言う大掛かりな物はそれぞれの誕生日くらいにしか用意して来なかった。あと、私が作った物より店で売られているケーキの方が何倍も美味しいと思うのだが――どうやら折れてくれる気はなさそうだ。終いには夏油君まで「楽しみだな、ケーキ」と二人に乗っかる始末である。金曜日に材料を買いに行こうと決めて、私達はモールを後にした。
 すると、パーキングエリアへと戻る道中、突如として二人の視線が人混みに縫い付けられる。後ろを歩いていた私達も同じように視線を合わせてああ、と納得した。

「そっか、もう卒業シーズンか」

 制服の胸に花飾りをつけた美々子や菜々子と同年代の子供達が笑顔で通り過ぎていく。思えば高専を卒業したのも同じ季節だった。今となっては懐かしい記憶が頭を過ぎり、感慨深い気持ちになっていると、美々子が「あ」と声を上げた。

「あの子、ボタンがない」

 美々子の指摘通り、集団の中で一際明るそうな男の子の学ランからはボタンが全て消え去っており、中の白シャツが覗いていた。

「まだ第二ボタンの風習って残ってるんだね」
「第二ボタンの風習? なに、それ」
「んー、好きな人の制服の第二ボタンボタンを貰うの。ほら、一番心臓に近いでしょう」

 私が中学の頃も確かにあったその風習を美々子と菜々子は知らない。初めて聞く、しかも恋愛関係の内容に二人の頬がピンク色に染まる。心なしか瞳がまたキラキラと輝きだして、菜々子が弾かれたように夏油君を見上げた。

「夏油様もボタン、あげたの?」
「ん? ああ、そうだね。中学の卒業式で確か後輩にあげたかな」
「夏油君もボタン全部取られてそうだね」
「そこは御想像にお任せするよ」

 最後に二人が買った紙袋まで持っているせいですっかり両腕が塞がった夏油君は、きゃあきゃあと黄色い歓声を上げる二人に眩しそうに目を細めた。彼もまた、私と同じように頭の片隅で学生時代の事を思い出しているのかもしれない。
 美々子と菜々子は暫く楽しそうに会話をした後、突然唇を噤んだ。ほんの少し落ち込んだ色さえ滲ませて、二人はそれぞれのワンピースを見る。春物らしい軽やかで可愛らしいデザインのそれは、年頃の女の子に人気のブランド物だと私も知っていた。なまじ二人の容姿が整っていたのもあって、街についてから何度か同世代の女の子が羨ましそうに二人を振り返っていたのも知っている。

「学校ってどんな感じ?」

 菜々子がワンピースの裾を指先で引っ張りながら問いかける。いつの間にか二人の横に立っていた夏油君が柔らかくそれに答える。
 美々子と菜々子は学校へ通った事がない。必要な知識や最低限の勉学は夏油君や私、その他顔を見た事のない向こうの家族たちが教えてくれているので、多少世間知らずなところはあるけれど心配はいらない。けれど、どう足掻いても教えられないものは存在する。
 多分、二人の感じる羨ましいは世間一般とは異なっていて私は勿論夏油君でさえ真に理解してあげる事は難しい。だから彼は、二人の問い掛けに同情を寄せる事もなくいつも通りのトーンで丁寧に質問に答えていく。そして二人は、その回答に想像を膨らませ頬を緩めて笑う。本当の意味で彼女達の穴を埋めてあげる事は出来ないけれど、気にならない程度には満たしてあげる事が出来る。昔からそうだ。夏油君はとても優しいから、人の感情の起伏に人一倍敏感だった。
 三人の後ろをゆっくりとした速度で追いかけながら、風に乗って舞い散る桜を見上げ、暖かな空気を吸い込んだ。

「名前、行くよ」

 春の風に長い黒髪を遊ばせながら呼びかける夏油君、その横で楽しそうに笑う美々子と菜々子。以前は受け入れられず一度否定しまった家族と呼ばれるもの、それに私はちゃんと加わっているのだろうか。
 ほんの少し痛む右足を前へ動かして三人の横に並び立てば当然のように受け入れられて、会話の輪に入らせてもらえる。その幸せを噛み締めた。
 ああ、やっぱり私はこの生活を終わらせたくないんだなあ。

「名前、見て!」
「夏油様が買ってくれたの!」

 土曜日、リクエスト通りホールケーキを用意する私の元へ駆け寄った二人は喜色満面な様子でその場でクルリと一回転して見せた。菜々子はミニスカート、美々子はロングスカートのそれぞれ真新しい制服姿である。プリーツスカートが揺れて春の風を運んでくるようで、思わずケーキを飾り立てる手を止めてしまった。目頭が熱い。頬から何かが零れ落ちる感覚がする。

「え、名前泣いてる!?」
「げ、夏油様ー!」

 ああ、私泣いているのか――二人の慌てる様子にようやく自分の状況を知った。エプロンの裾で手を拭って目尻に指を押し当てれば確かに水滴が溜まる。
 菜々子に呼ばれ、遅れて入って来た夏油君が目を見開くのが見えた。恥ずかしいのであまり見ないでもらいたい。咄嗟に顔を背けて、鼻を啜る。震えそうになる喉を叱責して、何よりも伝えたい言葉を声に乗せた。

「二人とも、よく、似合ってるよ」

 意志に反して声は無様に震えてしまっていたけれど、二人は嬉しそうに笑ってくれたし、夏油君も微笑んでくれたのでこの恥ずかしさは自分の中に圧しとめようと思う。
 三十分後、美々子と菜々子、二人にも手伝ってもらって無事完成したケーキを前に四人で写真を撮った。せっかくの制服が生クリームで汚れてしまった事に少々ご立腹の美々子の表情は大変可愛らしくて思わず笑ってしまう。「さっきまで泣いてたくせに」ふてくされた様子の声を宥めながら肩を竦めた。まあ、そこはお互い様と言う事で。

20210323