高専所属呪術師拉致事件 報告書
「最近ね、よく昔の夢をみるんだよ」
正確には最近ではなく、六年前くらいからのだけど。
二階の寝室に灯りは点っておらず、レースカーテン越しに差し込む街灯の光だけが互いの姿を浮かび上がらせていた。
私ひとりでは丁度いいシングルサイズのベッドは、一八〇後半程身長のある夏油君と二人で寝そべるとひどく狭く感じた。特に夏油君は、その辺の成人男性よりも体格が良いので、私は背後の壁にベッタリと背中をくっつけなくてはならない。互いに向き合って、至近距離にある顔を見合わせる。夜の帳に似合う静かな声色で、夏油君は「へぇ」と相槌を打った。
「狭いでしょ? もっとこっちに来ていいよ」
夏油君は、枕に埋めていた横顔を少し上げて私の腹部に回していた手を自分の方へ寄せた。引きずられるように互いの距離が近くなる。彼のもう片方の腕は、私の頭の下に伸ばされていて筋肉の起伏がよく分かった。硬くて寝心地が良いとは言えない腕枕は、夢で見る学生時代よりも遥かに逞しくなった。何時も涼し気な顔をしてそんな素振りは一切見せないが、私の見えないところでちゃんとトレーニングしているのだろう。元々格闘技が得意だった彼なので簡単に想像出来た。
二の腕に頭を置き直した事により自由になった前腕が私の後ろ髪で遊び始める。指先で髪の先をクルクルと巻いて、解いて、柔い力でかき混ぜられる。たまにされるこれが嫌ではなかった。ハグされた時に遊ばれる自分の髪を感覚として認識する瞬間、妙な安心感に包まれるからだ。
「それで? 名前さんは、一体どんな夢をみたんですか?」
「ふふ。懐かしいね、その敬語。そうだなぁ……夏油君に鍛錬に付き合ってもらっていた事とか、うちのお祖母ちゃんが亡くなった時とか色んな夢を見たよ」
「ああ……後者は夢にみないでほしかったな。あれ、本当に少し酔っていたんだよ」
恥ずかしそうに笑って、夏油君は私の額に自身の額を擦り付ける。眠そうだ。「もう寝る?」と問い掛けると「まだ寝ない」と幼い返事が薄い唇の間からこぼれ落ちる。
「あの頃の私はね、名前の唯一の特別になりたかったんだ。一番お気に入りの後輩でも、親友でもなく、君がつらい時、一番傍にいられる立場がほしかったんだと思う」
「あはは、なにそれ……まるで告白されてるみたい」
「失礼だな、告白してるんだよ。もう過去の事だから返事はしなくてもいいけどね」
――でも多分、傑は違うだろ。
五条君の言葉の意味を分からぬ程、当時の私は初心ではなかった。そう言う意味で私を見てくれている事はずっと知っていたし、私だって多分彼の事を想っていたのだろう。だから、卒業式の時に私の特別をあげた。嬉しそうに微笑んで紙切れを掲げた夏油君の姿だって夢にみて、今でも簡単に思い出せる。けれど、それは過去の話だ。夏油君も私も、青い春を懐かしんでいるだけで現状を変えようとは一切思っていない。だから互いに明確な発言は避けた。「す」と「き」、子供でも分かる簡単な平仮名を口にする事はしなかった。
「そう言えば、美々子と菜々子、二人で寝るようになってどのくらい経ったっけ?」
「ンー、半年くらいかな。でもたまに夢見が悪いのか私のところに来たりするよ」
「まだ十一歳だもんね」
「もう十一歳だよ。あんなに細くて軽かったのに、今ではちゃんと人ひとり分の重さがあるんだ。子供の成長の早さには驚かされるね」
このくらいだったかな、なんて片手で私の腰辺りに触れる。ああ、そうか。あの子達は、そんなに小さかったのか。
身体中に大小様々な傷を作り、夏油君以外なにも信じられないといった顔をしていたあの子達は、もう十一歳になった。二人は、本当なら今日はここに帰って来る予定で、夜になっても帰って来る気配もない私を心配して夏油君に連絡してくれた。そのおかげで、私は今こうして息をしている。
私達が家へ戻った時、二人の姿はどこにもなかった。帰り道、夏油君が別の家族らしき相手へ連絡していたから二人は教団へ戻ったのだろう。謝罪とお礼を言うのはまた今度だ。多分、あの子達は怒るだろうからお詫びに好きな料理を作ってあげよう。ああ、でも一発くらいボディーブローを決められるのは覚悟していないといけないな、なんて考えていると真正面の夏油君が無言のまま微動だにせず私を見ていると気が付いた。
「名前は、あの子達の話をしている時、とても優しい顔をするね。好きだな、その顔」
「うわあ、改まって言われると恥ずかしいからやめて」
「何故? いいじゃないか、ちゃんと見せてよ」
ベッドのスプリングが軋む音がして身を捩った私の上に夏油君が上半身を乗せる。成人男性、しかもこの体格だ。厚みの分、当然重い。負荷に耐えきれなかった私がギブアップを宣言するのに時間は掛からなかった。
私の上から退ける拍子、暗がりの中、夏油君の胸元が覗いた。ドクン、と一瞬心臓が大きく波打つ。ときめき、なんて可愛らしいものではない。彼の胸元にうっすらと浮かび上がる傷跡が、かつての記憶を呼び覚ましたのだ。
「その傷、まだ残してたの?」
「ああ、見えたんだ。すまないね、見苦しいだろ?」
「そんな事ない……ただ、もう消したと思っていたから」
言葉を選ぶのに苦労した。夏油君は、きっとこの傷について他者に触れてほしくないだろう。自分ひとりで抱えるものとして残している事は、第三者である私でも分かる。
私の動揺が伝わったのか、彼は苦笑を浮かべた。肘をついて上半身を起こすと襟ぐりを大きく開く。そして見えた全容の見えたバツ印の傷跡は、思っていたよりもはるかに大きく、薄いものだった。
「皮膚の再生でもう薄っすらとしか残っていないけれど今はまだ消さないよ。私なりの自戒の念だからね」
今は、という事は何時か消すつもりではいるのだろう。それが何時になるのかまでは私には分からないし、きっと踏み込んでいい領域ではない。
夏油君が、この傷をつけられた時私は傍にいなかった。ようやく会えたのは、全てが終わった後で、事の顛末だって七海君から聞いたのであって本人から聞いたわけではない。夜中、自販機前でぽつりぽつりと会話をして、自室に戻った後で味わった涙の味を私は今でも鮮明に思い出す事が出来る。
「名前、泣いているのかい?」
ああ、本当に自分が情けない。担当した呪詛師の子供であった少年に殺されかけて、呪詛師である夏油君に助けられて、こんな風に優しく慰めてもらっているのに、私の目からは意志に反して涙が溢れ出す。両手で顔を覆って、必死になって嗚咽を飲み込んだ。情緒は乱れに乱れて、欠片ほど残った理性で脳は何度も泣き止め泣き止めと繰り返し信号を送ろうとするのに上手く機能してくれない。頭が痛かった。もうこのまま眠って明日になれば全部忘れている。そんな身勝手な現実を切に望んだ。
それなのに、夏油君は優しいから泣いている家族を放っておく事など出来ない。小さく丸まった身体に手が添えられて、そのまま引き上げられる。先程とは反対、私の身体は夏油君の上に乗り上げていて、頭頂部に彼の顎が乗せられる。添えられた手がゆっくりとしたテンポで背中を叩いた。
「美々子と菜々子は、こうすると落ち着いて寝てくれるんだけど……大人の名前には効かないかな」
「ごめん、ごめ、本当に……情け、な……っ」
「ええ、君が情けないなら私は何だい? さっき、君を倉庫で見つけた時無様に震えていたのは、よく分かっているだろう。教祖なんてやっているような呪詛師がたったひとり、君を失くしたかもしれない可能性に怯えていたんだ。その方が何倍も情けないだろう」
変わらず夏油君は優しく慰めてくれるけれど、私の双眼から零れ落ちる涙の量は変わらない。顔面を覆った両手を外す事も出来ず、無様に鼻を啜った。
「名前、泣かないで」
頭上から今にも崩れ落ちそうな程に優しい声が降って来て、同時に大きな手が私の両手に触れた。強制的ではない優しい力だったが払い退ける事は出来なかった。そっと離された両手が彼の身体に添うように垂れて、涙で濡れた輪郭を確かめるように彼の手が這う。
しゃっくりを上げる目尻に熱源が触れた。倉庫で額に触れたものと同じ熱だった。「泣かないで」と何度も繰り返して、零れる涙を掬い取るように唇が触れる。
これには、流石に恥ずかしさが勝った。垂らしていた両手で厚い胸板を押す。けれど、押し込めるように大きな手でまとめられてしまっては、もう抵抗らしい抵抗も出来やしない。身体を逸らす。重力に従ってシーツへと倒れ込んだ。夏油君も抵抗せず一緒に倒れ込んだせいで、上半身がひどく重たい。
「も、やめて、泣いてないからっ」
「ええー、まだ泣いてるじゃない。ほら、また溢れて来た」
「ふ、ふふ、これは笑ってるからで、本当に、っ、もういいってば」
「あ、本当だ。涙の味変わったね」
「え、嘘。味って変わるものなの?」
「さあ、どうでしょう」
散々暴れたせいでシーツはよれて、枕もどちらかに蹴り飛ばされたのか床に落ちてしまった。やっと上から退けてくれた夏油君が真横に寝転がる。すっかり涙は引っ込んで、笑いすぎたせいで目尻にたまった水滴を指先で乱暴に拭った。
夏油君は、にこにこと笑って足下で丸まっている掛布団を引き上げる。シングル用だから大人二人で使うにはやはり小さい。私に大半をかけて、自分はほぼはみ出した状態で、彼はすっかり着膨れした私の身体をギュッと抱き締めた。
「夏油君さ、モテるよね」
「それ聞かれるの三回目だね。まあ、否定はしないかな。おかげで猿からも御布施を沢山頂いています」
「悪い教祖様だなあ」
くすくすと笑い合って、掛布団に顔を埋める。夏油君のものが移ったのか、ほのかに白檀の香りがしたが涙が出る事はなかった。
「名前」
「なに?」
「ここに帰って来る回数を増やすようにするよ。美々子と菜々子を寝かしつけた後、数時間だけでもいい。一緒にこうして眠るようにしよう」
「ええ、あの子達を二人にするなんて危ないじゃない。それに負担じゃないの?」
「大丈夫。向こうの家には別の家族もいるし、何かあった時のために呪霊もつけてる。それに負担もないよ。私、強いから」
今日の夏油君は、夢の内容を思い起こさせるような言い回しばかりをする。とは言っても、彼は私の夢の内容の細部までを知っている筈もないので全て偶然だ。
まだ何か話したい気もするのに、もう目蓋はとろとろと重くなって気を抜くと直ぐにでも眠ってしまいそうになる。タイミングを見計らうように「いいよね?」と念を押す彼はやはり狡いし、モテるだろう。最後の力を振り絞って小さく首を縦に動かすと小さな笑い声がもうあまり機能していない鼓膜を震わせた。
「おやすみ、名前」
■■県■■市■■■港倉庫街
二〇一三年十月某日。高専所属呪術師苗字名前の拉致事件発生。苗字術師は軽傷。事件発覚後、自宅にて保護。被害者である苗字術師本人の証言と犯行現場に残された拳銃に付着した指紋から被疑者は呪詛師■■ ■■■の子である非術師の単独犯であると判明。苗字術師より抵抗を受けた被疑者は逃亡。現場に残された血痕を辿った先は犯行現場である倉庫前の海であり被疑者は入水自殺を図ったものと思われる。
捜索開始から三日打ち切りが決定。被疑者の遺体は未だ上がっていない。
20210314