あえかな嘘と共に生き | ナノ

二〇〇六年 東京都立呪術高等専門学校 秋



 多分、私は恵まれた子供時代を過ごしたのだと思う。

 日本全国民に対し、呪力を持った人間の割合は驚くほどに少ない。世の中には日々、非術師により生み出された呪いが溢れかえっているのに、祓える人間は極端に少なく、その多くが志半ばで若い命を落とす。

 以前、後輩が呪術師はクソだ、と言った。

 非術師に理解される事もなく陰で消えて行く。そしてまた次の呪いが生まれる。祓う、死ぬ、生まれる。終わりのない無限ループにいるような感覚、業界では常識で誰も疑問なんて呈さない。少なくとも私はあの九月までそう思っていた。
 この業界において呪力を持つ子供の存在はとても貴重だ。たとえ五条、加茂、禪院と言う由緒正しき御三家の子息だったとしても必ずしも呪力を持って産まれるとは限らず、逆もまた然り。呪いや呪霊、呪術師なんて知りもしない非術師の家系に突然変異のように呪力を持つ子供が産まれる事もある。後者の子供は皆、似たような苦労を体験する。誰からも理解されない孤独と恐怖を味わい続け、何度も泥と苦汁を舐め続け、身の内に宿る負の感情を自分でコントロール出来るようになった頃、ようやく足を踏み入れる呪術界は、彼らにとって楽園に見えるのだろうか。長年、私の中にある疑問である。
 対して私は、御三家のような由緒正しき家に産まれたわけでも、非術師の家庭に産まれたわけでもない。無理矢理当てはめるならば中間だ。祖母は微弱ながら呪力があった。その子供の父も幼い頃は呪霊が見えた。母は非術師だった。
 この家で術式を持って産まれた子供は私が初めてだった。非術師であり、呪いそのものを理解できない母は、ようやく産まれた我が子の持つ力にひどく悲しんだ。自分が考えていることを嬉々として告げて来る。自分には見えない何かを見て恐れ泣き喚く。姑は我が子に気味の悪い教えばかりを授ける。頼りの夫は見てみぬふり。「お母さん、怒ってるの?」抑え込んだ心の叫びを我が子に言い当てられる。母が壊れるのは時間の問題だった。父は、心身共に衰弱していく母の身を考え離婚する道を選んだ。幼い頃の話なので当時の記憶は曖昧で、今でも母の顔は写真でしか知らない。だから寂しいとは思わなかった。
 父は、私を連れ祖母の家へと身を寄せると我が子や遠く離れた妻の事を忘れるように仕事に熱中するようになった。父は、私に対して冷たかったり怒ったりはしなかった。ただ、そうあるものとして私を見て、私の成長に口出しする事を完全にやめたのだ。結果として、呪霊の見える祖母だけが私の唯一の理解者となった。
 祖母は、愛情を持った厳しさで私に接した。呪霊に怯える私に奴等の対処法――逃げ方を教え、術式が暴走した時のみ抱き締めてくれた。祖母は、私にとっての親であり師でもあった。中学三年生になり、どこから聞きつけたのか呪術高専からの誘いが来た時は、珍しく渋る父を説き伏せて呪術師への道を示してくれた。
 私が四年生になった秋、祖母は静かに他界した。

「名前、その唐揚げ食べないなら俺が食ってやるよ」
「え? あー」

 二〇〇六年 秋 東京都立呪術高等専門学校 男子寮。
 目の前の紙皿の上で所在なさげに置かれていた唐揚げが横から伸びた割り箸に奪われる。私の分であったはずの唐揚げを一口で食した五条君は「もう衣しなしなじゃん」なんて文句を垂れて、反対側に座る夏油君から嗜められていた。
 祖母の葬儀一連を終えた一週間後の日曜日。珍しく全員オフという事もあり、電話一本で呼び出された私は、五条君の部屋で下級生の酒盛りに参加している。しかし、私達は皆未成年のはずなのに飲酒は法律違反ではないか。疑問符を浮かべるが、気にしているのは私だけのようで、五条君を除く二人は次々と缶を空けて行く。まあ、本来女子の立ち入り禁止の男子寮に侵入している時点で既に違反しているのだし、硝子ちゃんなんて昔から何の躊躇もなく煙草をふかしているのだから今更か。

「名前さん、このスナック菓子美味しいですよ。酒のつまみに丁度いい塩加減」
「ありがとうー」

 周りに転がる無数の空き缶をほぼ全て身体に収めているとは思えぬほど平素と変わらぬ顔色でいる硝子ちゃんは、きっとザルを通り越したワクだ。次いで空き缶を積み重ねている夏油君も相当強いのだろうけど、硝子ちゃんのハイペースには追いつけないらしい。
 差し出されたスナック菓子を一摘み、口へ放り入れる。なるほど、これが酒に合う味か。飲酒初体験の私は、アルコール度数三%のジュースのような酎ハイに口をつけながら何度か首を縦に振った。
 意図せずして大人の階段を数段登ってしまった下級生主催の酒盛りは、下戸の五条君が私の酎ハイを誤って飲んでしまいお開きとなった。たった一口で顔を真っ赤にした五条君は、呂律の回らないまま何かを叫ぶと糸が切れたようにベッドへとダイブした。安物のベッドのスプリングが軋む音が室内に響き、すぐにそれは彼の寝息へと変わった。

「もう遅いし女子寮まで送って行きますよ」

 慣れた様子で後片付けを済ませ部屋を出た途端、提案されたそれに拒否権は端から存在していないようだった。
 同じく女子である硝子ちゃんはヤニ切れだと一人、寮と反対方向へ歩いて行ってしまって、暗い夜道には私と夏油君しかいない。とは言ってもここは高専の敷地内で、女子寮は目と鼻の先、五分もかからない。私一人でも帰れる。夏油君だって本当は安全だと理解しているだろう。それでも、こうして送ると言ったのは何か訳があるのかもしれないと、女子寮に着く直前に思い至った。

「酔い覚ましに少し寄って行く?」
「是非」

 ほら、やっぱり何か訳があったのだ。
 女子寮へ立ち入る事に何の罪悪感も抱いていない様子で微笑んで頷いた夏油君に内心ちょっと安堵した。よかった、変な誘いをかける先輩だと嫌われるのではないかとヒヤヒヤした。
 男子寮に女子が遊びに来るのと、女子寮に男子が遊びに来るのでは勝手が違う。誰にも会わないようコソコソと裏庭の暗がりを通り抜け、鍵を開けたままでいた窓から侵入を果たした。

「不用心ですよ。ちゃんと施錠して下さい」

 たった今、禁断の女子寮へ侵入を果たした夏油君が言っていい台詞ではないと思う。
 五条君に言って聞かせる時のような言葉に返事をしながら、備え付けの小型冷蔵庫の中を物色する。実家から戻って来たばかりだからめぼしい物はまるでない。とりあえず年中置いてある麦茶を不揃いのグラスに注ぎ入れ、まだ封を開けていなかったアーモンドチョコレートを持って、ローテーブル前に座る夏油君の元へと戻った。
 夏油君はラグの上に、私はベッドの縁に腰掛けて、互いに無言のままグラスを傾ける。麦茶は夏だけ、と言う人も多いが私は年中飲んでいられる。祖母がそうだったから、この味に慣れてしまっていた。

「昨日は、先輩達と?」
「ああ、うん。皆、気を遣ってくれたみたい」

 祖母の葬儀が終わって高専へ戻って来て、まだ三日しか経っていない。これからも任務と学業と並行して催事の度、実家に戻る生活が続く予定だ。
 そんな中、時間を合わせてくれたクラスメイト達が私を励ますように宴会を催してくれた。私の学年は良くも悪くも生真面目な人間が多いのか、一匹狼のように任務と学業に没頭するタイプばかりで親交は深くない。それでも数少ないクラスメイトである私を心配してくれた気持ちは暖かく、昨晩は寮の談話室を借りてジュース片手に楽しんだ。
 私達と夏油君達は、実力も性格も仲の良さもまるで違う。そこそこの実力で真面目でこれまで大した親交もなかった私達と、今や殆どの呪霊や呪詛師では歯が立たないずば抜けた実力と抜ける部分は程よく抜けてて仲の良い夏油君達。二学年も違っていて本来ならばあまり関わる事もなかった彼らとこうして親交を深めている事が、彼らが入学してもうすぐ二年が経とうとしている今となっても不思議である。
 昨晩の事と、夏油君達の事を思い返しながら話していると、どうした事か見る見る内に夏油君の顔色が曇って行った。もしかして具合が悪いのではないだろうか。強いように見えたけれど実は無理していたのかもしれない。
 咄嗟に手を伸ばして広い背中を摩る。夏油君はビクッと震えて片手で口元を覆い隠した。

「大丈夫? 具合が悪いなら部屋に戻って寝た方が……」
「いえ、大丈夫です。あれくらいじゃ酔いませんから。ただ、少し思うところがあって」
「思うところ?」

 黒のロングTシャツに包まれている夏油君の背中は熱い。しっとりしているから少し汗もかいているようだ。私のものとは違う柔軟剤と、夏油君の香りが混ざって室内に漂っていた。

「やっぱり少し酔ったのかも。部屋に帰る気力もないのでもう少しここにいてもいいですか?」

 大丈夫と言った舌の根も乾かぬ内にやはり酔ったのだと宣う後輩を真に信じられるかと言えば否だ。きっと夏油君自身も私に信じてもらったとは思っていないだろう。顔色も悪くないし浮かんでいる笑みはどこか胡散くさい。
 彼の言う思うところとやらも気にかかり、追い出す事はしなかった。アーモンドチョコレートの封を切って差し出すと「ありがとうございます」と一粒受け取った。

「夏油君達は、よくあんな風に飲み会するの?」
「そうですね。でも今回は久々でした。悟は勿論、反転術式も貴重で硝子も引っ張りだこですしね」
「夏油君だって忙しくしてるじゃない。聞いたよ特級に昇格したんでしょう。おめでとう」
「ありがとうございます」

 私も焦げ茶色の丸い粒を口に入れる。まず甘いチョコレートの味が広がって、その後お出ましするアーモンドをボリボリと齧るのが好きだった。
 夏油君は、先程の一粒以上チョコレートを食べようとはしなかった。ラグの上で片膝を立てたまま、どこかボンヤリとした顔をして真っ直ぐに壁を眺めていた。

「名前さんのご両親って非術師でしたよね」
「うん。父は子供の頃見えてたらしいけど、母は完全に向こう側だね。夏油君も一般家庭出身でしょう?」
「はい。父も母も見えません。私だけが、昔から奴らを認識していた」

 過去を思い出しているのか、切長な目を細めた夏油君は指先から黒煙のような呪霊を出した。ふわふわと揺れてジッと私の方を見ている。相手は呪霊なのに、おかしな話だが何かを訴えかけるような目をしていると思った。

「夏油君はさ」
「はい」
「やっぱり子供の頃や高専に来るまで苦労した?」
「そうですね、まあ人並みに。両親は、特に母は……私のこれを受け入れてくれましたが」
「そっか。いいご両親だね」

 黒煙のような呪霊は「あ」と言うように口を大きく開けて、風に流されたように消えてしまった。その光景に思わず私も「あ」と呟いてしまう。

「気に入りました? これ」
「うん、なんか可愛かった」
「こいつ、私が初めて取り込んだ呪霊なんですよ。何の役にも立たないんですけどね」

 私の声に振り返った夏油君は苦笑して幼少期を聞かせてくれた。初めて呪霊を見た時の感想に始まり、まだ術式も理解していなかった小学生の頃、四級呪霊相手に怯えていた事、初めて術式を使い呪霊を取り込んだ後体調を崩して寝込んでしまった事、お母さんがまず理解してくれて次第にお父さんも受け入れてくれた事、中学に上がった頃には術式は勿論交友関係も上手くこなせていて、中三の夏に高専の誘いがかかった事――そして、高専に来て同じ景色を見ている仲間に出会いやっと楽に息が出来た事。
 これまでの全てを語る夏油君の声は、今にも眠ってしまいそうなほど柔らかい。やがて夏油君は、豊かではないけれど綺麗に生え揃った黒色の睫毛で蓋をするように目を伏せた。
 未だ夏油君が、私を女子寮まで送った理由は分からない。本来は何か話したい事があったのかもしれないが、今の彼に話す気はないようだった。

「私ね、前からずっと気になってたの。一般家庭で育った呪術師は、高専に来た時何を思うんだろうって。今日、夏油君から話を聞いてやっと喉のつかえが取れた気分だよ。ありがとね」

 代わりに漏らした私の本音に、夏油君は気分を害する事なく口端を緩やかにつり上げた。
 そろそろ帰りますね、と彼が腰を上げたのは直後の事だった。先程の言葉通り全く酔ってもいなかった彼はしっかりした足取りで来た時にも使用した裏庭へと続く窓辺へ向かう。そして紙袋の上に置いていたサンダルを取ってこちらへと振り向いた。

「さっき、私がはぐらかした内容やっぱり言っておきます」

 瞬間、夏油君の黒色の瞳と私の瞳が合致したような感覚に襲われた。思わず生唾を呑む。

「この一週間名前さんを見かけなくなって、初めは任務だと思っていたんです。でも硝子から、お祖母さんの事を聞いて……名前さんが高専に戻って来たと聞いた時は、すぐ心配になって、たまらず顔を見に行きました」
「え、そうだったの?」
「はい。名前さんは先輩達との宴会の最中だったので離れた所から顔だけ見て帰りました」

 昨晩の光景を思い浮かべるが夏油君の姿はどこにもない。あの時は、酒も飲んでいなかったのに、彼の存在に全く気が付かなかった。

「ごめんね、せっかく心配してくれたのに」
「謝らないでください。私が勝手に嫉妬しただけですから」
「ん?」
「嫉妬しました。名前さんを真っ先に励ます事の出来る先輩達に。名前さんと対等に話せる彼らが本当に妬ましくて仕方がなかった」

 あまりにも突然の告白に言葉が出なかった。勿論、告白と言っても男女のあれそれであるとは思ってはいない。ただ、一先輩として向けられるにはあまりにも感情が大き過ぎる気がした。
 衝撃のあまり呼吸すら忘れそうな私を一人残して夏油君は「すっきりしました」と満足そうに笑みを浮かべる。

「励ますのは先輩達に先手を打たれましたけど、名前さんの長年の疑問に終止符を打てたので昨日の事は忘れます。驚いたでしょうが酔っ払いの戯言だと思って聞き流してください」
「……酔ってないって言ってたじゃん」
「あはは、あれが嘘かもしれませんよ。好きなように解釈して下さい。私は、これでも甘やかしてくれる名前さんに懐いているんです。貴女が私を特別扱いしてくれるから、たまにつけ上がりそうになるんだ」

 酒の効果だろうか、今日の夏油君はやけに饒舌だ。ニコニコと胡散くさい笑みを浮かべて、私の返事を待たずに色んな話をする。聞き続けて立ちっぱなしだった足が痛くなった頃、彼の口はピタリと止まった。片手で口元を覆って、顔色が曇っている。やっぱり、今日の彼は少し変だ。

「夏油君、疲れてるなら話聞くよ?」

 星漿体の護衛任務の失敗後、夏油君は少し窶れた。物思いに耽る事が多くなり、五条君とふざけ合っている姿を見る回数も激減した。硝子ちゃんは、医者を志しているだけあって級友を良く見ている。「あいつ、少し痩せましたよね」煙草をふかしながら呟いた彼女の声が脳裏に木霊して、私は不安を逃すように両方の指を組み合わせた。
 しかし、夏油君は私の伸ばした手を振り払った。現実では私は手なんて伸ばしていないのだけど、それでも彼は明確に拒否を示した。

「大丈夫ですよ。私、強いので」

 跳ね除けられた手を、もう一度伸ばす勇気が私にはなかった。
 今、夏油君が浮かべている笑みに少年らしさは微塵もなく、ただ自分に言い聞かせるような声はただ残酷なまでに穏やかだ。夏油君は、振り返る事もなく部屋を出て行った。

 それから卒業まで私は、夏油君は勿論五条君や硝子ちゃんともあまり顔を合わせる事もなく最後の学生生活を送った。
 舞い散る桜の中、大きな手に押し付けた紙切れは、あの日もう一度伸ばせなかった私の手の代わりだ。私の、本当の特別扱いを知ると良い。四年間苦楽を共にしたクラスメイトにだって教えていない祖母の家を、後輩たった一人に教えた意味をどうか理解してほしいものである。

20210312