あえかな嘘と共に生き | ナノ

残り香すら忘却



 拳銃を持っているのは二十歳前後の青年だった。顔立ちが夏油君より少し幼いくらいだから多分、そう。
 呼吸は荒く、肩を大きく震わせながら口では浅く息を吐き続けている。瞳孔は開きっぱなしで頬を伝う汗の量も尋常ではない。このままだときっと彼は極度の緊張と動揺を前に自滅する。引き金を引く前にこの場に崩れ落ちる事になるだろう。そうなってくれと切に願っていた。
 つい二時間程前、私は彼の握りしめるグリッターで背後から後頭部を殴られた。任務も終わり、家の最寄り駅に着いた事もあって完全に油断していたのだと思う。田舎町なだけあって駅から我が家までは夜になると人通りが極端に減る。とは言え、子供の頃から知っている道に恐怖などする筈もなく、アスファルトにパンプスのヒールを小さく響かせながらゆっくりと夜道を辿っていた。ああ、そうだ。あの時、丁度ジャケットのポケットに入れていたスマートフォンが着信を知らせたのだ。私のスマートフォンに電話を掛けて来るのは高専関係者か菜々子か美々子、そして夏油君くらいしかいない。つい先程任務を終わらせて来たばかりなので相手は高専関係者ではないだろう。そうなれば相手は三人に絞られる。
 通知画面を見ようと電柱の下で立ち止まり、液晶画面を見下ろした。そしてようやく気がついたのだ。私を覆うように大きな影が背後に迫っている事に。
 後は、もう一瞬だった。身構える隙もなく、振り返ろうとした頭を全力で殴りつけられる。アスファルトの上に崩れ落ちた時に側頭部まで打った。ぬるっ、と指先に湿った感触がしていたから多分出血もしている。

「呪術師が……っ、呪術師なんかがいるから……!」

 そして現在。私は後ろ手に縄で拘束され、倉庫の一角に転がされていた。明かりもついておらず、積み重なった段ボールは随分と年季が入っている事からして廃倉庫と言うのが正しいだろう。と、なれば周囲に人はおらず警察への通報も期待出来そうにない。
 青年は何度も同じ言葉を繰り返した。嗚咽混じりに吐き出されるそれは呪いと言っても相違なく、額に押し付けられた銃口越しに直に私へと注ぎこまれる。対して私は無言を貫いていた。たとえ押し付けられた銃口が痛くても、横顔を叩かれても。流石に腹を蹴られた時は流石に呻き声を上げた。興奮状態の青年は女相手だろうと手加減なんてしない。しかも呪術師を憎んでいるとなれば尚更だった。
 頭はやけに冷静だ。悲しい哉、こんな事は初めてではないのだ。呪術師としての仕事は呪霊を祓う事が主だが、それ以外にも呪詛師を相手にする事だってある。特に私は術式の特色を活かし、呪詛師の相手をする事も多かった。高専に捕らえられた呪詛師の尋問任務である。結果、私は多くの呪詛師に疎まれた。非術師曰く「幽霊より人の方が怖い」とはよく言ったもので、何時だって人の悪意は恐ろしい。一度リミッターが外れた人間は何処までだって堕ちる事は出来る。私に銃口を押し付けるこの青年も、リミッターが外れる寸前なのだろう。今、安易に口を開けば私が引き金を引く事になってしまう。

「ふざけるな、ふざけるなよ!」

 青年は不慣れなのか、幸いにも縄は簡単に解く事が出来た。見たところ、青年は特別な訓練を受けている訳ではないようだ。足の運び方、呼吸の仕方、腕の震え、どれもが彼は素人なのだと知らせている。私は体術が得意ではないが、素人相手に負けるつもりはない。後は大人しくしたふりをして反撃の機会を待つのみだ。

「俺の父さんを返せよ、呪術師!」

 しかし、その言葉が私の意志の邪魔をした。心臓が大きく跳ねた感覚がして脳裏に記憶が蘇る。そうだ、今日ではなく一週間前の任務。呪詛師の男の尋問。口が堅くいくら誘導しても、拷問まがいな行為に及ぼうとも一切を語らなかった妙齢の男がいた。私は、その呪詛師の尋問官として高専に呼ばれ、そして――

「お前が父さんを自殺に追い込んだんだ!」

 男の計画は、実にシンプルなものだった。仲間の呪詛師数名で御三家の人間を人質に取り、高専保有の特級呪具を奪う。そして呪具を武器に高専相手に戦争を仕掛けるつもりだった。
 男達の動機は金ではない。高専所属の呪術師に対する個々の恨みであった。大小それぞれの恨みを勝手に暴かれ、計画さえも露見してしまい、男は自暴自棄に陥った。そして、判決が下される寸前自ら命を絶ったのだ。あの後は後味が悪くって、一日家で何もせずに過ごしたから嫌でも記憶に残っている。
 青年は、男の事を父さんと呼んだ。思い返せば男の思考には、確かに幼い子供がいた。けれど、それは任務内容に関係がないから報告する事もしなかった。あの時、報告していれば私はこんな目に合わなかったのだろうか。
 青年の叫びは止まらない。対して私の頭はぐるぐると思考の回転を繰り返している。脳と呪力の関係は未知数だ。脳が受けたダメージが呪力に、術式に反映される事もまた然り。思えば、術式の暴走は久しぶりの事だった。最後はそう、美々子と菜々子が私を探しに来てくれた時で――ゴン、何時だったか聞いたマイクが叩きつけられる音が脳内で響いていた。

 おまえのせいだ。とうさんがなんでしんだんだ。おまえがとうさんをくるしめた。おなじだけくるしめ。なきわめけ。くつうをあたえてやる。ころしてやる。おまえのせいだ。おまえがわるいんだ。おまえのせいだ。おまえのせいだ。おまえのせいだ。

 流れ込む思考の波は大きく、一度小さく泣いたかと思えば、烈火の如く怒り狂う。思わず頭を両手で押さえてしまった。それがいけなかった。私の身体の自由が利く事に気が付いた青年のリミッターは瞬く間に外れた。喉が潰れるような奇声を発して、私の腹部を蹴りつける。仰向けに転がされたと同時に離れていた銃口が加減なく私の額に押し付けられた。引き金に指が添えられる。震えてはいるけれどもう迷いはない。きっと彼は、このまま引き金を引き、銃口からは弾丸が放たれる。弾丸が脳髄に吸い込まれる様を想像し、痛みに耐えるべく固く目蓋を閉じた。

「喰え」

 瞬間的な出来事だった。倉庫に響いた第三者の声は、大きくなかったのに水に広がる波紋のように響き渡った。
 ゴウ、と強い風を感じた。頬を掠め取るかのように私の上を通過して倉庫の天上近くで蜷局を巻くのは龍だった。この呪霊は以前、見た事がある。二〇〇五年十一月○○県で私は確かにこの龍と、彼に助けられた。
 頭上から何かが降って来た。鼠色をした固い床に叩きつけられた何かを呆然と見下ろす。それは、拳銃を掴んだ腕だった。

「名前」

 腕から先は何もない。綺麗に食いちぎられた肉の断面が嫌に生々しく、広がる血溜まりに反射的に嗚咽が漏れる。咄嗟に片手で口を覆った。しかし、鉄臭い臭いに直ぐ引き剥がす。私の掌は真っ赤に染まっていた。血だ。先程迄生きて、私の額に銃口を押し付けていた筈の青年の鮮血が、私の手を、ブラウスを、スカートを、足を、真っ赤に染め上げていた。
 立ち上がる事さえ出来ず、腕を使って後退る私の肩を背後から温かな手が抱いた。振り返らなくとも、先程と今の声で誰かは分かっている。肩を抱いた手が上下に揺れる。それに合わせて大きく深呼吸を繰り返して呼吸を整えた。

「名前」

 そうしてやっと私の呼吸が落ち着いた頃、夏油君はもう一度穏やかに私の名前を呼んだ。確かめるように何度か繰り返し、私がやっとの思いで返事をすると安心したように息を吐いた。そして、真っ赤に濡れた私の身体をすっぽりと大きな腕で覆ってしまう。

「良かった、本当に無事で良かった」

 意外な事に、頭上から降って来る夏油君の声は少し震えていた。私の頭をギュッと抱き締めて頬を寄せる彼は、高そうな僧衣が汚れる事など気にしてはいない。私の存在を確かめるように大きな掌で頭から頬へ、首筋へ、肩へ、腰へ、足へと触れて、もう一度頭を掻き抱く。
 愛ほど歪んだ呪いはないのだと、以前言っていた後輩に再度問いたい。親の復讐に走り呪霊に喰われ腕だけになった青年や、私を強く掻き抱く夏油君の震える声に含まれるこれは愛の一種なのだろうか。だとすれば私は呪われた事になるのだろうか――やめよう。考えたところで堂々巡りだ。どうせ答えなんて分からないし答えてくれる憎たらしくも頼もしかった後輩とは既に疎遠になってしまっているのだから。
 垂らしていた腕で彼の胸板を押した。何着も重ねて厚い僧衣越しでも分かるくらい、心臓がバクバクと脈打っていた。

「汚れるから」

 一瞬離れた後、夏油君は無言のまま左右に首を振った。それは彼らしからぬ、やけに幼い仕草で思わず抵抗を忘れてしまう。
 彼の腕はもう一度私の後頭部と背を捉えた。有無を言わさぬ力で引き寄せられてそのままヒシと抱き締められる。私の顔はちょうど彼の肩に埋まる形となり、鼻孔をすっかり慣れてしまった白檀の香りが擽った。

「痛いよ、夏油君」
「いやだ。離したくない」

 夏油君本来の香りがしなくなったのは、一体何時からだっただろう。確か、美々子や菜々子、二人を連れて来た時はまだそれがあった。では、あの公演の日。いや、違う。あの頃もまだ、私は彼の香りを覚えていられた。それなのに今、私は夏油傑と言う一人の男性の香りをもう思い出せないでいる。

「なにも、殺す事なかったのに」

 言わないでおこうと思っていた本音を白檀の香りが誘った。背中に回った逞しい腕が、ピクリと小さく震えた。

「あの猿は、呪術師である君を殺そうとしたんだ。生かす必要はないんだよ」

 耳元で囁く声は既に震えてはいない。それどころか、ほんの少しの笑い声さえ混ざっている。やってしまった、と思った頃にはもう遅い。必死になって目を背けて来た彼の本音は、文字通り痛いほど私の背中に刻まれる。
 居心地の悪さと伝わる温度の安心感がちぐはぐで、それら二つは合わさって術式の暴走で疲れ果てていた脳の痛みを増長させる。それでも両腕を引き剥がせなかったのは、そっと額に触れた唇の感触があまりにも柔らかかったせいだ。私は胸についていた両手にそっと力を込めた。

 ――でも多分、傑は違うだろ。
 そうだね、五条君。一人前の呪術師になってなお、私はこんな状況を脱却できる程強くもなく、後輩の腕に守られているような女だ。嗚呼、情けない。

20210308