あえかな嘘と共に生き | ナノ

歪んだ方が綺麗に見える



「名前さんは、どうして呪術師になろうと思ったんですか?」

 夏油君がそう問い掛けるのと、私が自販機のボタンを押すのはほぼ同時だった。
 ガコン、と受け取り口にアイスミルクティーのボトルが落ちて来る。腰を屈めてそれを取り上げ、キャップを回しながら私は彼の問いへの答えを探していた。
 今日もまた鍛錬のお礼にと奢った清涼飲料水へ口をつける事もなく、夏油君は私を見ている。多分、答えるまでキャップを開ける事はない。

「うーん……そうだなぁ」

 なんとなく私も飲みづらくなってキャップを開けた状態のまま視線を斜め四十五度へと傾けた。ちょうど星漿体の任務が失敗に終わったばかりだったから夏油君相手に下手な事は言いたくなかった。

「私のね、お祖母ちゃんが見える人だったんだよ。術式は持ってなかったから呪術師ではなかったんだけどね」

 談話室の開け放たれた窓から蝉の鳴き声が聞こえて来る。あんな大事件が起こっても勝手に月日は巡る。初夏を抜け、茹だる様な暑さに参る日々。最高学年として例年通り増え続ける呪霊を祓う内、季節は夏になった。

「両親は視える人じゃなかったからあの頃はお祖母ちゃんが唯一の理解者だった。小さい頃、まだ術式が安定しなくて毎日怯えていた私をお祖母ちゃんが何時も慰めて守ってくれてた。だから私もそうなりたいなって……呪術師になって呪霊を祓いながら私と同じような子供を守ってあげたいなって思ったの」

 本当は、そんな大層な理由ではなかった。幼少期は祖母が心の支えで、祖母のようになりたいと思った事は事実だけど今語った内容の三分の一はこの場の思い付きである。
 そんな私の回答を夏油君は真剣に聞いてくれた。ようやくキャップを外して、少しぬるくなった飲料水を飲む。男性らしく浮き出た喉仏が何度も上下して、ペットボトルの中身が半分程になった頃、私もミルクティーに口をつけた。

「名前さんの、その動機は素晴らしいと思います」
「そう? 将来有望な夏油君にそう言われると照れるね」
「呪術師が呪術師を、術師としての素質のある子供達を守り導く……とても理想的で現実的だ。私の動機なんかよりよっぽど……」

 あ、また、だ。
 あの日から夏油君は暗い顔をする事が増えたように思う。名実ともに最強への道を歩み始めた五条君とも以前のように頻繁にふざけ合ったりしていない。噂程度だった特級への推薦話が本格的に始動して、二人とも忙しいようだから心身ともに疲れているのかもしれない。だが、そうだとしても――

「あ」
「え?」

 手が夏油君の形の良い頭の上に乗っていた。手、とは勿論私の手である。無意識だった。あまりにも暗い顔をするものだから、心配になって気が付けば腕が伸びていた。
 これは、夏油君が椅子に座っていてくれたから出来た事である。彼は一八〇センチを優に超えた長身なので立ち上がれば私では到底手が届かない。今は見下ろせる彼の旋毛が小さく震えて、切れ長の目が私を見上げた。薄く開いた口が何時「何してるんだお前」と言わないか不安でたまらない。いくら仲の良いと思っている後輩相手とは言え、異性に対してあまりにも馴れ馴れし過ぎた。
 恥ずかしさで今直ぐにこの場を逃げ出したい気持ちに駆られる。しかし、夏油君は私の赤くなる顔を見て数回瞬きを繰り返した後、耐えきれなくなったように破顔した。蝉の声だけが響いていた談話室に男子高校生の軽快な笑い声が響く。

「ごめん……本当にごめん……後輩とは言え失礼な事を……」
「いえ。驚いたけど全く不快感はなかったですよ。こうして頭を撫でて貰う事自体久々でむしろ少し嬉しかったです」

 そう語る夏油君の頬も少しだけ赤い。お互い何だか気まずくなって、引っ込めた掌に冷や汗が滲んでいた。

「そ、そう言えば夏油君の動機は? なんで呪術師になろうと思ったの?」

 とにかく話題を変えたかった。数分前まで暗い顔をしていた相手に振る話題ではなかったと直ぐに後悔する破目になるのに、軽率な私の口は思った事を直ぐに声に出してしまった。
 夏油君は、ペットボトルの飲み口を見下ろしながら静かに口を開く。

「私が呪術師になろうと志したのは――」



「名前本当呪術師向いてねぇよな」

 ピコピコとコントローラーのボタンを押しながらも視線はテレビ画面に釘付けで動く事はない。各言う私も、長く豊かな白い睫毛から視線を逸らす事はなく五条君の言葉に一つ頷いてみせた。

「私もそう思う」
「てかさ、名前さっきから何俺の顔見てんの。あ、このイケメンフェイスにとうとう惚れたか」
「ううん。睫毛の本数数えてただけ」
「あっそ」

 スマブラやろうぜ、とゲーム機とソフトを両手に部屋に押しかけて来た五条君は、先程から一人でCPUとの対戦を楽しんでいる。最初は私もコントローラーを握らされたのだけど、あまりにも弱すぎて私との対戦には直ぐに飽きてしまったようだ。
 手持無沙汰になった私は、五条君の睫毛を数え、五条君はゲームを一人楽しむ。一緒にいる意味なんてない。つい先程まで会話らしい会話もしていなかったのだ。

「硝子ちゃんは?」
「硝子は一服してから来るってさ」
「夏油君は?」
「そんな気分じゃない。あ、でも名前さんに迷惑掛けないようにしなよ、って。最近ノリが悪いんだよあいつ」

 夏油君の声真似だろうか、落ち着いたトーンで語ったかと思えば渋い表情をしてコントローラーのボタンを押し込んだ。画面では決着がついた。赤い配管工のキャラクターが倒れ込み、五条君の操作していた如何にも悪役チックなキャラクターが笑い声を上げて勝ち誇っている。
 五条君はyour winの文字を見た途端、ゲームから興味を失ったようにその場に転がった。私のお気に入りのキャラメル色のラグに白い雪が積もったようだ。横に正座したままの私はそんな彼を見下ろし「五条君」と声を掛ける。

「お前、死ぬなよ」

 けれど彼は私が次の言葉を吐く前に口を開いた。青い六眼は私の方を向いてはいない。築年数を感じさせる古い天井を見上げたままだ。

「傑さ、口煩いとこあんじゃん」
「夏油君は、五条君の事を思って言ってくれているんだと思うよ?」
「あーあー俺正論嫌いなの! いいから黙って聞けよ。口挟むの禁止な。分かったか?」
「うん」

 こうも顔面が整っていると指先まで綺麗らしい。目前に迫った白く細長い指先に若干背を仰け反らせつつ頷きを返すと、五条君は満足したように手を下ろした。一九〇センチ近い長身に見合う長い腕が私の膝にコツン、と当たった。

「お前、こないだの任務で大怪我したろ。ほら、腕折れて背中にでっかい傷作って帰って来たやつ」
「ああ、あれかぁ」
「だから口挟むなっての。対象、準一級の雑魚一匹だったんだろ。あんなんに負けるくらいお前は弱いんだよ、自覚しろ」

 それは規格外の呪力を持っている五条君だからこその価値観だよ。準一級を易々と祓えるのは同級の準一級もしくは格上の一級、そして特級呪術師のみだ。二級呪術師の私からすれば五条君にとっては雑魚である準一級も立派な格上。無傷で済む相手じゃなかった。大怪我を負っても命だけあれは御の字。五体満足なら花丸百点である。
 口を挟むなと言われた以上、何も言わずにローテーブルに肘をついた。そのまま頬杖をつく。伸びた前髪が垂れて来て、視界を塞いだからもう五条君の綺麗な顔は見えない。

「ボロボロになって、女が背中にでっかい傷まで作って、痛いってギャアギャア泣いて、そのくせ次の日にはケロッとして別任務に行っちまう。俺はいいよ、別に。お前が死んだら墓参りくらいは行ってやる。でも多分、傑は違うだろ」

 耳を傾けたまま目蓋を閉じた。頬を支えていた指先で耳に掛かった髪を掬い上げる。そのまま流せば更に帳が降りて、視界は完全に暗くなった。
 五条君が言わんとしている事はなんとなく分かる。私が硝子ちゃんから反転術式で治療を受けている間、夏油君はずっと傍に居た。五条君の言うようにギャアギャア泣いたりはしていなかったけど、出血と傷の深さで、あまりの痛みに呻く私の手をギュッと握りしめて何度も私の名前を呼んでくれていた。その時の表情を見て、分かってしまったものがある。

「愛ほど歪んだ呪いはないんだぜ」



 愛、とは偏に言っても愛は数種類存在する。恋人に向ける愛が一般的に思いつくのだろうが、親が子へ向ける感情だって種類は違えども立派な愛の一種だ。
 愛とは歪んだ呪い。五条君の言葉に多分私は返事をしなかった。硝子ちゃんが来て、気まずい空気を打破してくれるまで目を閉じたままテレビから聞こえるゲームのBGMを聞き続けていた。
 けれど今なら返事が出来る。

(これも、君の言う愛の一種なのかなぁ)

 暗い倉庫の一角。後ろ手に縄で拘束され、転がされた額に押し付けられた銃口は冷たい。閉じていた目蓋を開き、暗がりの中視線を持ち上げる。その間も銃口は、持ち主の身体に添うようにガタガタと小刻みに揺れて続けていた。

20210307