あえかな嘘と共に生き | ナノ

エゴイスティック



 目が覚めると頭が異様に重かった。昨日、術式を暴走させた反動だとは直ぐに気が付いた。携帯を見れば時刻は朝六時。幸いな事に今日は任務がない完全フリーな日だ。このまま、もう一度眠ってしまおう。少なくとも十時くらいまでは睡眠を貪りたい。目蓋を閉じて布団を首元まで引き上げる。しかし、事は上手く運ばない。引き上げた布団を逆方向から引っ張られたのである。

「……なに」
「おはよう、名前」

 私の布団を引き剥がさんとしている夏油君は、大きな体格に似合わぬ仕草でにっこりと朝の挨拶を口にした。両手で布団を掴んだまま睨み上げる。だが、そんな事で怯むような可愛らしさを彼が持っている筈もない。キツネのように目を細めて笑ったかと思えば、今度こそ力を込めて布団を剥ぎ取られてしまった。
 暦上春とは言え、まだ朝は冷える日も多い。今日はその日だったようで外気に触れた肌に一気に鳥肌が立った。「さむっ」と自分の身体を抱き締める。美々子と菜々子はまだ眠っているので声量は極限まで絞った。おかげで二人はスヤスヤと安らかな寝息を立てたままである。

「たまには大人二人、早起きしようじゃないか」
「夏油君まだ十八歳でしょ。私はもう二十歳だけど」
「二歳差なんてないも同然さ。ほら、起きて」

 いや、ある。十八歳と二十歳の間に差は絶対にある。まあ、同学年の硝子ちゃんも高校生でありながら既に喫煙者だったし、優等生ぶっていた夏油君も大人同然に過ごしていてもおかしな話ではないのだが。
 自分の腕を抱き締めていた手を長い指先で拾われた瞬間、行使していた拒否権は既になくなってしまった。老人を起こすように両手で引っ張り上げられ、そのまま甲斐甲斐しく立ち上がる世話までされる。あの宗教団体で老人相手に世話を焼いているのかもしれない。一瞬想像して笑ってしまった。
 早起きしようじゃないか、なんて私を叩き起こしたくせにこれと言ってしたい事はないらしい。庭に面した窓辺で外へ足を投げ出したままボンヤリと明けていく空を眺めるだけだ。

「……夏油君」
「ん?」
「私、布団に戻ってもいい?」
「だめ」

 頭の重さは相変わらずで、このままでは美々子や菜々子が起きて来る頃にはダウンしているかもしれない。ならば今の内に少しでも睡眠を取って回復に努めたい。昨日の今日で二人に余計な心配を掛ける事はしたくなかった。しかし、夏油君はそんな私の思いを知ってか知らずか、私の懇願を簡単に却下してしまう。私に視線を向ける事もなく、空と庭を眺めながら、時折吹く風に長い黒髪を遊ばせている。
 髪が一房、彼の頬へ掛かったのが見えた。指先を伸ばしたのは無意識の内で、卒業式で触れられなかった頬に今度は簡単に触れる事が出来た。掴んだ黒髪を耳に掛けてあげる。夏油君の視線がようやく私の方へと向けられた。じっ、と穴が開きそうな程一心に見据えられると五条君の時とは違う圧力を感じる。
 私の手を何度も引いた大きな手が、こちらへ向けて伸ばされたのが視界の端で見えた。その手が頬を滑り、後頭部へ回る。身体が傾き彼の肩へ顔を埋める形になってからああ、ハグか、と気が付いた。

「ね? こうしていると落ち着くだろう」

 落ち着くかと言われれば正直なところ落ち着かない。夏油君の身体は鍛えているだけあって硬いし、何より異性に抱き寄せられれば私でも多少は動揺する。でも布越しに伝わる体温には、落ち着くのかもしれない。そうだ、確か幼少期術式が上手く使えなかったあの頃も、祖母がこうしてくれていたのだった。

「名前は優しいし気を使ってばかりいるから。美々子や菜々子の前だけじゃない。私にだって年上であろうとするだろう。その気持ちは立派だし尊いものだ。そう、以前の私ならば言うだろうね」
「現に私、年上だし」

 両手で厚い胸板を押すがビクともしない。それどころかもう片手で両手を押さえ込まれてしまう始末である。見事、すっぽりと覆われる形となって諦めがついた。恥ずかしいけれど、身体から力を抜いて頭を預ける。途端に頭上から楽しそうな笑い声が降って来た。

「美々子と菜々子の事は、このままずっと守ってあげてほしいと思う。あの二人は強がってはいるけれど君の事が大好きだよ。男の私では与えられないものを君に求めている節さえある。だから昨日だってあんなに心配して怒ったんだ。それは分かっているって言っていたよね?」

 首を縦に振った。背中を二回ほど優しく叩かれる。

「けれど私の事は守ろうとしなくていいんだ。つらい時はつらいって甘えてくれた方が私は嬉しい」
「夏油君だって、私に甘えたりしないじゃない……」
「そんな事はないさ。現に君に甘えているからこうしてここに居るんだろう?」

 違う、私が言っているのはそんな事ではない。私が在学中、そして卒業してからの半年間の事を言っているのだ。一番つらい時、夏油君は私に頼ろうとはしなかった。私が渡した紙切れを頼るなら、どうせなら限界が来る前に訪ねて来てほしかった。そうしたら私はきっと――考えて、途中でやめた。今となっては、こんな『たられば』なんの意味も持たない。

「以前、私がこのまま四人で暮らせたらって話したのは覚えてる?」
「うん」
「あの言葉に嘘はないよ。名前、君は否定するだろうが私は君を家族だと思っている。私はね、幸せだよ、とても。だから一人悩んで、私の幸せを否定するのは止めてくれないか」

 その言葉にハッとした。俯いていた顔を上げる。夏油君は優しい目をして腕の中の私を見下ろしていた。そこに後悔は微塵もない。

「大好きだよ、心の底から。術式を使って確かめてみてよ。君には出来るだろう」

 抱き締める手に力が籠った。今度は夏油君が私の肩に顔を埋める番のようで、私はそっと背中に腕を回して二回ほど広い背を叩いた。
 術式を使う必要はない。そんな事をしなくても文字通り痛いほど彼の本音を感じていた。



 二〇一二年 九月某日。私は相変わらず高専所属の呪術師としてたまに呪霊を祓ったり、尋問官として術式を利用していたりと何かと忙しい日々を送っている。
 呪術師の中で夏油傑の名前を聞かない日はない。夏油傑は最悪の呪詛師である。設立した宗教団体を呼び水に非術師から金銭と呪いを集め、用が済めば簡単に殺めてしまう。信奉者も多く、宗教団体の拠点は既に割れているのに捜索に本腰を入れないのは彼がかつて特級呪術師であったからだろうか。
 高専敷地内を歩けばかつて青春を過ごした教室、日々切磋琢磨と身体を鍛えた校庭、クラスメイトや後輩達と語り歩いた渡り廊下が郷愁を誘う。
 前方から五条君が歩いて来ているのが見えた。美しい六眼を包帯で隠した姿の彼は、高専東京校の教師として今日も教鞭を取っているらしい。
 会釈して横を通り過ぎる。五条君が私を呼び止める事はなかった。

2021022