何時か君は私を殺すのだろう
翌朝、布団に私達が居なかったと知った美々子と菜々子は、それはもう盛大に拗ねた。頬を膨らませてそっぽを向き、夏油君が呼びかけても返事もしなかった。となれば、私が声をかけても無駄である。むしろ火に油を注ぐだけのように思えた。
多分、これは子供特有の両親が仲良くしている時に感じる疎外感のようなものである。否、私と夏油君は二人の両親でもなければそんな関係でもないのだけど、他に例えられるものがなかった。現に私にも幼少期に似たような体験があったのでそう結論付けるに至った。
結局美々子と菜々子の機嫌が直ったのは、その日の夕方過ぎだった。ごめんね、もう二人を仲間外れにしたりしないから。今日は二人が好きなもの作るからね。そうだ、今度四人で出掛けよう、なんて子供達を育てる世の中のお父さんとお母さんは凄い。二人の機嫌を取り戻す事に一日費やした私と夏油君は、その日泥のように眠った。
現実逃避は止めにしよう。先日の演説の通り、夏油君は盤星教の母体を乗っ取る事に成功し、新たな宗教団体を率いる教祖となった。今は、盤星教の信者であった非術師の懐柔と新たな術師――夏油君曰く家族の獲得に忙しいようで家を空ける日は、以前より更に多くなった。勿論、美々子や菜々子も連れて行く。必然的に、私は独りになる時間が増えた。
その日も朝から三人は居なかった。きっとあの白い建物へ行っているのだろう。私は手抜きした朝食を摂って、仕事用のスーツへ着替えた。軽く化粧をして、ふとアクセサリーケースが目に留まった。あの日以来、ネックレスは着けていない。なるべく視界に入らないように注意して生活していた。今日もまた視線を逸らす。黒のパンプスを履いて家を出た。
「あれ、名前じゃん」
高専に赴く度、私は今にも心臓が止まりそうな程の緊張感に襲われる。今日は、尋問の任務ではなかった。ただ与えられていた任務の報告書を提出しに来ただけである。
提出ついでに学長への挨拶を終え、さっさと敷地内から立ち去ろうとしていた私の背中に声を掛けたのは、やはりと言うべきか五条悟君だった。名実ともに最強となった現四年生の彼は、制服のポケットに両手を突っ込んだまま丸いサングラスの向こうの六眼を爛々と光らせていた。
「なに? 任務の帰り?」
「そうだよ。五条君は、今日は学校?」
「そう。たった今、任務から帰ったとこ。だからさ、労わってよセンパイ」
そう言って五条君は私の腕を掴んだ。まるで逃がさないとでも言うかのように、力強く己の方へと引き寄せた。きっと他人が見れば、男女が身を寄せ合う仲睦まじい光景に見えただろう。けれど現実は、そんな可愛らしいものではない。六眼を持つ五条君は、全てを見透かすかのように私を見下ろしていた。ドクンドクン、と心臓がやけに煩い。冷や汗が流れて、立ち眩みがしていた。
「……名前さ」
「な、なに」
「嘘が壊滅的に下手だよね」
「え」
先程までの真剣な雰囲気を突然消し去り、呆れ返った顔をした五条君はパッと私の腕を解放した。自由になった手首はジンジンと痛みを訴えていて、後ろに隠しながらもう片手で摩る。
「僕は名前をどうこうしようとか思っちゃいないよ。ただ、まあそう決めたのなら最後まで貫き通してほしいなって思ってるだけ。今回は忠告みたいなモンさ」
「ま、待って。ぼ、僕ぅ……?」
「そうです、僕! 教師目指すって決めたからね。ちょっとはお利口さんにしないと」
あの五条君の口から僕や教師なんて単語が出るとは思わなかった。思わず緊張を忘れ、不躾にも指を差してしまうが彼はそんな事意にも介さない。投げやりな説明の後、背を向けると長い腕を頭上へ上げた。
「今度飯でも行こうよ。僕と硝子と三人でさ」
ふらふらと揺られる掌を見送り、その背が見えなくなると、ようやく生きた心地がした。踵を返し、速足に、それこそ走るかのように高専を出た。
高専から私の住む町までは電車で一時間程掛かる。最寄り駅で降りたらあとは徒歩十五分。緑豊かな田舎町をポツポツと歩いて住み慣れた我が家を目指した。
バレていた。きっと、五条君は私が夏油君と通じている事に気が付いている。彼は、どうするだろう。上層部へ報告するか。それとも私を利用して夏油君を捕まえる?
僕は名前をどうこうしようとか思っちゃいないよ。確かに五条君はそう言った。彼は、問題児ではあったけれど、こんな嘘を言う子ではない。信じてもいい。何もしない。
頭の中で二つの意見が対立している。後者を信じたい思いと、前者のように疑う思い。頭はパンクしそうで具合が悪かった。
今は春だ。長い冬が開けて、今日は特に気候も良い。なのでこんな田舎町でも外に出ている人が多い。道行く人達の顔が立ち止まった私へ向いているのが分かった。多分、心配してくれている。この小さな町では犯罪なんて早々起きない。皆、善良な非術師だ。
それなのに、こんな時に限って私の術式は暴走を始める。キンと耳が研ぎ須磨れる感覚にとうとうその場に膝をついた。
なんだ、どうした。大丈夫か。この人どこの人だっけ。スーツ姿。まだ若いな。こんなところで倒れて迷惑な。救急車呼ぶか。死ぬのか、この人。
三者三様、様々な声が流れ込む。頭が割れそうだ。こんな事は子供の頃以来で対処法も忘れてしまっていた。両手で耳を塞ぎ、蹲る。私の為を思うならどうか放っておいてほしい。早く何処かへ消えてほしい。ふー、ふー、自分の呼吸音がやけに大きく響いていた。
「名前?」
前方から聞きなれた声がした。それでも顔は上げない。足音が近づいて、小さな手が私の頬に触れる。ハッと息を呑む音が聞こえて、それから二人分の手が私の頭を抱いた。
美々子と菜々子だった。二人は自分の服が汚れるのも気にせず、その場に膝をついて私の頭をギュウと力一杯抱き締めた。子供柔らかな掌と温度、頭部の圧迫感。新たに与えられた情報に高ぶっていた神経が次第に凪いでいくのが自分でも分かった。耳を塞いでいた両手をそっと離す。
「あっち行け!」
「名前に近づくな!」
二人が叫ぶのは、それとほぼ同時だった。ハッとして意識が完全に戻って来た。もう声は聞こえない。無意識の内に術式を解いていた。
「二人とも、私はもう大丈夫だから! すみません、ご迷惑をおかけしました!」
明らかに周囲を威嚇し始めた二人を抱き上げて頭を深々と下げる。周囲の人々は、子供の剣幕に驚いたのか何も言わない。これ幸いと二人を抱いたままその場を走り去った。
家に着くまでに五分も経たなかった。久々に全速力で駆けたせいで息は上がっているし酸欠を起こしたように頭がくらくらとするが、一先ず安全地に逃げられた事に安堵する。
玄関で下ろすと、二人はその場に立ったまま寝転んだ私を見下ろした。ギョッとする。二人は大きな瞳に大粒の涙を溜めていた。
「え、美々子? 菜々子?」
スカートを握り締める手は、力を込め過ぎてぷるぷると震えてしまっている。泣くまいと我慢している事が見て取れた。肘をついて上体を起こし、二人に手を伸ばした。菜々子に払われる。
「っ、ばかぁ!」
「へ?」
払い退けられた手は空に浮いたまま下ろせないでいた。菜々子の叫びは、それほど衝撃的で私から思考を根こそぎ奪い去ったのだ。
ダムは決壊し、大粒の涙を流し始めた菜々子に釣られて美々子も嗚咽を漏らし始める。わあわあ、とこれほどまでに泣きじゃくる二人を見るのはこれが二度目だった。一度目は、夏油君が数日間帰らなかった時。そう、あの演説の前日の事である。
二人の泣き声に疲れは何処かへ消えてしまったようだ。パンプスを脱ぐ事も忘れ、玄関に乗り上げる。そのまま両手を大きく広げて二人をすっぽりと抱き締めた。菜々子の罵声は止まらない。馬鹿に始まり何処で覚えたのかと問いただしたくなるような言葉の次から次へと飛び出して来る。それなのに怒れないのは、二人の手が私のブラウスを掴んで離さないからだ。
「君を心配したんだよ、二人とも」
夜になって帰って来た夏油君は、寝入った二人を見下ろしながらぽつりとそう呟いた。二人を挟んだ向かい側に座る私は、その言葉に同意を示す。
「この子達、私が術式を暴走させてるって分かったみたい。庇おうと必死だったのに、私が謝ったりしたから怒ったんだよね」
「分かってるじゃないか」
美々子と菜々子は、夏油君より一足先に家へ帰って来ていた。しかし、私は高専に赴いていて不在。二人きりで留守番をした事のないこの子達は、私を探して家を飛び出し、あの現場に立ち会ったと言うのが事の経緯だ。
呪術師として独り立ちしても術式を暴走させてしまった情けなさとこの子達を泣かせた不甲斐なさが合わさって私の肩へ重く圧し掛かる。洗ったばかりでサラサラとした自分の髪を握り締め、それらを逃すように大きく息を吐いた。しかし、こんな事で増幅した負の感情はなくなってくれたりしない。
「ふむ」
「なに?」
「ストレス溜まってそうだなって」
ふと、脳裏に昼間の五条君の言葉が過ぎった。夏油君には、五条君と会った事を伝えられていない。伝えたからと言って怒りをかったり、それに対してグチグチ言うような子ではないと知ってはいるが、私の中の理性が口にするなと制止していた。
私の感情の変化を夏油君は見逃さなかった。彼は、何かを考え込むように親指で眉間をかくと、ややあって「名前」と穏やかに私の名前を呼んだ。そして両手を大きく広げた後、にっこりと笑う。
「おいで。ハグしよう」
「はあ?」
あまりに突然の申し出に拒否を示すより先に疑問符が飛び出した。だってそうだろう。今までの話の流れで何故そうなる。いくら平素のように振舞っていても夏油君も未だ十八歳。意外と疲れているのだろうか。
「ハグは疲れに効くらしいよ」
ほら、そう言って夏油君は腕を揺らした。その話は私も聞いた事があったのでゴクリと生唾を呑む。いや、駄目だ。その逞しい腕の中に飛び込む勇気は私にはない。
「いいよ、大丈夫。寝たら気分もよくなるから」
「名前……私達は家族だ。私だって君を心配するし気に掛けているんだよ」
布団に潜り込もうとしていた私を家族、と言う単語が引き留めた。夏油君の言う家族は、彼が率いる宗教団体に集まった志を同じくする呪術師の事であった筈だ。対して私は、その宗教団体の一員ではない。彼の言う家族には当て嵌まらない。
枕に肘をついたまま見上げた夏油君の顔には私を揶揄う色はない。心底、本当に私を心配しているのだと言いたげな表情だ。グッと唇の端を噛んだ。
ただ、まあそう決めたのなら最後まで貫き通してほしいなって思ってるだけ。また五条君の言葉が蘇る。私が貫き通さなければならない決意は、彼の家族になる事ではきっとない。
「おやすみ、夏油君」
そう、自分に言い聞かせた。布団に潜り込み、夏油君に背を向けて目を瞑った。照明が落とされ、布ズレの音と共に小さな寝息だけが響き始める。
私はきっと近いうちに今後の身の振り方を決めなければならない。このままではいけないのだと、今更になって昨年九月の夏油君の言葉の意味を噛み締めていた。
20210228