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「ヒソカって人を好きになったことないでしょ」

 そんな不躾で失礼な言葉を吐いたのが、あのエリート暗殺一家の長男だなんて誰が思うだろう。おおよそ、イルミには似合わぬ言葉にヒソカは思わず指先に摘んでいたチェリーを落としかけた。カクテルの上に乗せられていて最後に食べようと取っていた物だ。
 ヒソカとイルミの関係はギブアンドテイクのビジネスパートナーである。イルミは全力で否定するだろうがヒソカは友人だとさえ思っていた。でないと、わざわざこんな小洒落たバーのカウンターで、男二人で飲み交わしたりしない。まあ、イルミからすればただの事前打ち合わせでしかないのだろうけど。そう考えて、ヒソカは気を取り直すようにチェリーを一口で頬張った。
 いいよ、別に。片想いには慣れてるし。

「ボクだって人を好きになったことはあるさ。恋愛経験も豊富だと思うよ。少なくともキミよりはね」
「でも最後は殺しちゃったんだろ」
「ご名答。流石だね、イルミ。ご褒美に一杯奢ってあげよう」
「ヒソカと関わったことある人間なら誰でも察しがつくと思うけど、奢ってくれるなら貰っくよ。同じやつ、ちょうだい」
「はいはい」

 ここでお前の金で酒など飲めるかと怒らないところがイルミの良いところだ。良くも悪くも現金でアッサリしている――家族以外に対しての彼の性分は、ビジネスパートナーとしてやりやすく、そんな彼の本気を引き出す時を思えば下腹部が熱くなる。

「ねぇ、それ気持ち悪いんだけど」
「おや」

 睨め付けてくるイルミの視線は、彼が使用する針よりも鋭く冷たい。公の場なんて気にしないヒソカだったが、早々に身体を冷やすことにした。これ以上ハメを外して治りがつかなくなって困るのは自分だし、何よりせっかくのデートを台無しにするのは気が引けた。

 ヒソカは育ちが良くない。或る国の貧民街で生まれ育ち、家は貧乏で、その日暮らし。今からでは想像もできない程痩せっぽっちで毎日腹を空かせていた。連日朝から晩まで働いてようやく手に出来る少ない賃金で購入した駄菓子のガムは、味がしなくなっても噛み続けた。
 そんな幼少期を送ってきたヒソカだから、貧困とはどう言うものか身に染みて分かっていた。その女へ目をかけたのはほんの気まぐれだった。同情や過去の自分を重ねた、とかそんなありふれた物語があるわけでもなかった。
 夜、路地裏にて。なんとなくその日は、そんな気分だった。化粧はなし、髪は下ろして、清潔感のあるブルーのシャツと細身のボトムスに身を包んでいた。戦闘狂、快楽殺人鬼、様々な呼ばれ方をする彼だが、なにも毎日人を殺しているわけではない。遊びに値するお気に入りがいない時は、素顔を晒して街を彷徨くこともある。
 その日も目に留まったバーで一人酒を楽しんで、日付が変わる頃、滞在しているアパートへ戻ろうと路地へ入った。そこで女を見つけた。

「客待ちかい」
「そう見える?」

 答えは「いいえ」だ。
 こんな人気もない裏路地に一人で立っている女は、十人中八人は客を待つ娼婦である。残り二人は知らない。全員が全員そうじゃないだろうとはヒソカの勝手な想像だ。
 女は娼婦には見えなかった。身なりこそみすぼらしかったけれど、表情がそれらしくなった。正確には目が違う。日々の食い扶持を稼ぐため、文字通り身を売る娼婦たちは皆目に剣呑で必死な光が宿るのに、女の双眸には何も見えなかった。壁を背に後ろで腕を組み、ヒソカと会話する女は人懐こい笑みを浮かべて「私、ナマエ」と聞いてもいない名前を名乗り出す。なんの言い淀みもなく口にしたことからして本名だろう。娼婦が本名を教えてくるとは思えない。毒気が抜かれてしまった。

「ココに居るのはオススメしないな。表に出る道が分からなくなったなら教えてあげようか」
「ううん、いい。好きでここにいるから」
「そう? じゃあ、気をつけてね」

 せっかくの親切心を反故にされ、ヒソカは若干いじけた気持ちで女の前を通り過ぎた。否、通り過ぎようとした。

「待ってよ、お兄さん」

 通り過ぎるよりも先に、女がヒソカの腕を引いたのだ。勿論、ヒソカはそうされると分かっていてあえて避けなかった。少しばかり必死さの見えた声に、吊り上がる唇をそのままにヒソカは振り返る。

「ボクと来るかい」

 ちょうど良い暇つぶしを見つけた気持ちだった。



 ヒソカのアパートで女は改めてナマエと名乗った。生まれはこの街で親の顔は知らない。気がつけば路地に住んでいて、血の繋がりもない老人が成長するまで面倒を見てくれていたらしい。どこの街にもそんな世話好きの老人は存在するものだ。別の国の貧民街で幼少期を過ごしたヒソカにも覚えがあった。
 進められるままシャワーを浴びた女は、なんの躊躇いもなくベッドに腰掛けて細すぎる足をぷらぷらと揺らしている。ヒソカが貸してやったティーシャツは痩せぎすの女にはちょうど良いワンピースとなっていた。女の足が揺れる度、真白い腿がチラチラと覗いて欲を煽られる。片手で女の腿を跨ぐように乗り上げて顔を近づければシャワー室に置いている、その辺で買った安物のシャンプーの香りがした。

「いくら欲しいの。ボク、今日は気分が良いから幾らでも払ってあげるよ」
「え? いらないけど」
「え、お金取らないの」
「いや、そもそもヤる気ないから私」
「は?」
「え?」

 なら何故引き留めた。なぜ男のアパートへついてきた。なぜ男の服なんか着てベッドへ座っている。
 娼婦ではなさそうだと言う当初の勘を疑ってはいなかったが、相応の金は支払ってやろうというある意味男らしい親切心をまたも反故にされてしまった。ヒソカは頭の中でハートマークが割れた気がした。やる気が見る見る内に落ちてしまって、なんだかもう面倒になった。別に今、女を抱きたかった気分でもない。無理矢理事を進めることは可能だが、それよりも精神的疲労が勝った。
 このマイペースさ、どこかでも体験したことがあるな。
 どこぞのエリート暗殺一家の長男が脳裏を掠め、ヒソカは疲れた様子を隠そうともせずため息をつくとベッドから立ち上がった。

「あれ、お兄さんどこ行くの」
「ソファで寝るよ。キミはそこでどうぞ。起きたら勝手に出てって」

 まだ引き留める気か。いい加減にしろ。
 人を振り回す側だと自覚していたヒソカは、他人に振り回される経験が少ない。もういっそのこと、このまま殺してしまおうかと袖に隠し持っていたトランプへ指をかけた。

「お兄さん、優しいのね」

 またしても毒気を抜かれた。殺すのが馬鹿らしくなった。ヒソカは、強い人間と戦いたいだけだ。命がけのスリルを楽しんで自分と相手の血を見て欲を満たしたいだけなのだ。こんな女、殺したところで何も楽しくもない。

「あっそ」

 翌朝、女はヒソカの指示通り部屋を出て行った。元々、金目の物など何も置いていない殺風景な部屋だが、女は何も盗っていかなかった。
 静まり返った部屋で、今度は盗賊団のトップを思い出す。彼とのデート、いつ出来るかな。そんなことを考えて顔を洗いに洗面所へ向かった。

 それからまた一週間後のことである。女は、またヒソカの前へ現れた。今度は、ヒソカが人を殺した場面に出会して、にも関わらず一切怯えず「こんばんは、お兄さん」と呑気に挨拶してきた。派手な化粧、逆立てた髪、ピエロのような奇抜な格好。先日とはまるで違う装いに臆する様子も見せない。
 毒気を抜かれるのはこれで何度目だろう。結局、ヒソカはその日も女をアパートへ連れ帰ることにした。シャワーを貸して服を貸し、ベッドで寝かせた。この日は少しだけ会話もした。どうやら女は文字の読み書きが出来ないらしい。貧民街出身ではよくある話だ。ヒソカも昔はそうだった。なので、彼は簡単に教えてやることにした。これもまた気まぐれの一つだった。

「お兄さん、すっぴんの方が格好いいよ」
「そりゃ、どうも。でも余計なお世話」
「ほっぺのマーク、なんか意味あるの」
「……口が減らないね、キミ」

 そんな夜を何度か過ごす内、ヒソカは女を連れ帰ることに躊躇がなくなっている自分に気がついた。気持ち悪いと自分を俯瞰して見もしたが、どうにも女の顔を見ると毒気を抜かれて結局こうなってしまう。
 女は地頭は悪くなかったようで、ヒソカが気まぐれに教えた文字の読み書きを覚えつつあった。下手くそな字で自分の名前を書いて、誇らしげに見せてきた時は「よく出来ました」とやる気のない拍手を送ってやったりもした。芸を覚えたペットを褒めているような気分だ。ペットなんて飼ったことないけれど。
 ヒソカは女に名前を教えなかった。隠しているつもりもなかったが、女はお兄さんとしかヒソカを呼ばなかったので教えてやる必要もなかった。「お兄さん」と呼ばれて「はいはい」と答える。そんな日々を送っていつの間にかニヶ月が経っていた。
 こんなに街へ留まるつもりはなかった。そろそろ出ようか、と考えている夜。女は、なんの前触れもなく突如夜中ベッドから抜け出した。

「何がしたいの」

 明かりもつけずベッドから抜け出した女は、ソファに寝転がるヒソカの上へ跨っていた。
 さて、このまま腰でも振るつもりか。それとも殺す気か。
 カーテンを閉めずにいた窓は、街灯やたまに走る車のライトが反射して、女の姿を闇の中に浮かび上がらせた。

「お兄さん、街を出る気でしょう」
「ご名答。よく分かったね」

 女は、泣いていた。瞬き一つすることなくヒソカを見下ろしてその双眸からポロポロと涙をこぼしていた。落ちた涙がヒソカの素肌を濡らす。彼は素顔を晒していた。女が格好いいと誉めた顔ににんまりと笑みを浮かべて、いつかのようにやる気のない拍手を送ってやった。

「行かないで」
「やだ」
「なんで」
「そろそろ飽きたから」

 街にも、この女にも。

「一箇所に留まるのは性に合わない」

 この二ヶ月間、自分はらしくなかった。思い浮かべるビジネスパートナーや片想いの相手が知ったなら鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするに違いない。あのヒソカが、なんの利益もなく、弱いだけの女に目をかけるなどあり得ない。
 女は泣いて泣いて、それから幼子のようにヒソカの胸に顔を埋めて眠った。なんとなく、ヒソカは女を引き剥がさなかった。本当にこれが最後の気まぐれ。明日にはアパートを引き払い、街を出よう、そしてもう二度と足を踏み入れないようにしよう。そう決めて、最後に女の髪をくしゃくしゃと撫でてやった。
 バイバイ。ま、強かに生きなよ。



 あれが人を好きだという感情であったのか、正直なところヒソカは判断出来ずにいる。あの晩は、咄嗟にそう答えたが、ヒソカはあの女とセックスすることもキスすることも好意を伝え合ったこともなかったので、型に当てはめるには無理があった。
 一つ嘘をついた。嘘なんてつき慣れているのでそのことにはなんとも思わないが、あの日自分は確かにイルミに嘘をついた。
 ヒソカは女を殺さなかった。生かしてあの街に置いてきた。気まぐれに目をかけて生きる術なんてらしくないものを置き土産にして、女を生かした。
 ま、強かに生きなよ。そう最後の親切心を残したと言うのに、どこまでこの女はそれを反故にするつもりなのか。

「なに、どうかした」

 仕事は打ち合わせの通りに実行された。ヒソカが陽動し、数だけはいる護衛集団を一掃。その間にイルミが標的を仕留める。特に面白い相手もいない簡単な仕事だった。結果として燻りは冷めぬまま、消化不良を起こしていた。そうして仕事を終えたイルミの元へたどり着いた時、正確には彼の足元に斃れる女の顔を見た時、ヒソカは一瞬全てを忘れた。
 あの女だ。ナマエだった。ヒソカが目にかけて、生きる術を与え、髪を撫で、あの街へ置いてきた女だ。それが何故、こんな離れた場所で斃れているのか。

「あ、もしかして知り合いだった?」
「まあね」

 額に複数突き刺さった針が、女が絶命していることを告げていた。殺したのはイルミで、それを手伝ったのは自分だ。やけに冷静だ。イルミの問いかけにも平然と答えられる。
 ふと視線を巡らせれば女から離れた位置に男がいることに気付く。逃げるところをやられたのか、後頭部に針が突き刺さり無様な死に様を晒していた。

「ごめんごめん。まさかヒソカの知り合いだとは思わなかったよ。でも意外だなぁ、手応えもない一般人だと思ったんだけど」
「当たりだよ。彼女は一般人。前にしばらく住んでた街で知り合ってね、何度か個人的に遊んだ相手なんだ」
「へぇ、そう。ま、殺したものは仕方ないし、そろそろオレは戻るよ。金は後で口座に入金しとくから」
「うん、また宜しく」

 現金でアッサリした性分のイルミは、やはりビジネスパートナーとしてやりやすい相手だ。変に詮索してくることも同情を寄せることもないので、余計な労力を強いられることもない。
 室内は血の匂いさえもしない。イルミの針は流血を伴わず人を殺せるので、まさに暗殺にはうってつけの武器だ。ヒソカはコツコツと踵を鳴らして女のそばに寄る。しゃがみ込んで顔を覗いた。光のない双眸は、あの晩最後に見た時と同じはずなのに、今はガラス玉のような作り物に思えた。こんな作り物じゃ、もう涙なんて流せないだろう。

「そう言えば名前教えてなかったね。ボクはヒソカ」
 
 冷えてきた目蓋に触れて目を塞いでやる。もうお兄さんと呼ぶこともない唇に塗られたルージュが気持ち悪くて、それも親指で拭った。
 女が何故イルミの標的となるような男と共にいたのか、その理由をヒソカは知らない。知りたいとも思わなかった。興味がなかった。ただ、なんとなく勘でしかないけれど、女は自分の生きる術を探してこんなところまできてしまったのだろうと考えた。
 目を閉じた彼女に、二ヶ月間そばに置いた女の顔が見えた気がした。何故だか、この女を見るとやはり毒気を抜かれてしまう。

「キミも人のこと言えないじゃない」

 化粧、似合わないよ。
 そう呟いて、ヒソカは女の髪を撫でてやった。くしゃくしゃと乱雑に撫でて、最後に一度頬を指先でなぞり、ゆっくりと立ち上がった。
 ヒソカは死人に興味を持たない。壊れた玩具に価値などないと考えている。それが周囲が見る、ヒソカの性質である。彼自身、自分をそう言う人間だと評していた。こんなどうでもいい過去に囚われるのも感傷に浸るという行為もヒソカらしくない。
 街灯の煌めく街を見下ろし、セットしていた髪を乱雑にかき乱す。下りた髪の隙間で目を細め、彼は音もなく女の元を去った。

 バイバイ。

20230810

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