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 自らの手で妻を殺してしまった。
 そう言って依頼人の男はポロポロと大粒の涙を流した。元は仕立ての良さそうな、今は煤けて薄汚れたシャツは、拭うことを忘れた涙を吸い込み大きなシミを作っている。
 年甲斐にもなく涙して、聞きもしていない事情をベラベラと話す男を、イルミは白けた目で見下ろしていた。
 そんなどうでもいい話は早く止めにして仕事に取り掛からせてほしい。今夜は別件も控えているので、こんな簡単な依頼にいつまでもかかずらっている暇はないのだ。
 それでも男の話に途中までは耳を傾けてやったのは、一応男が依頼人だからか。けれど、もう限界だ。タイムリミット。ひぐ、と吃逆をあげたのを区切りにイルミは懐から針を取り出し、脳天へ向けて突き立てた。

「ねえ、もう良くない? どうせ今からその奥さんのところへ逝くんだから、オレに話さず向こうで本人と話せばいいだろ」

 まあ、イルミ本人はあの世なんて一切信じてもいないのだが、最後にこのくらいのサービスはしてやることもある。
 今回の依頼人はこの男。標的もこの男だった。ゾルディックへ舞い込む依頼は、そのどれもが殺人を目的としたものだが、時にはこんなレアケースも存在する。
 男が依頼するに至った経緯はこうだ。妻を殺した自責の念に耐えきれず自殺を図るも尽く失敗。最後の頼みの綱として、全財産を依頼完了前に支払う代わりに自分自身の殺しを依頼したのである。
 と言うことで、今回は本当に簡単な仕事だった。相手は念能力のねの字も知らぬようなズブの素人、しかも抵抗もしない男を殺めるだけの簡単な作業。本来ならばイルミが行う必要もなかった。カルト、もしくはミルキが開発操作するロボットだか虫だかに殺させたってよかった。それなのに何故、多忙なはずのイルミがこの依頼を請け負うことになったのか。その理由は、ただ通り道だったから、それだけである。

「さて、オレも殺しに行かないとな」

 そう、妻を殺しに向かう道中だった。



 妻と言っても、その女と夫婦でいたのはたった三ヶ月間の話である。加えて、女がイルミの実家ククルーマウンテンのゾルディック邸で過ごした期間は、僅か一ヶ月にも満たなかった。
 女、ナマエとは一週間前に離縁した。
 ナマエの生家へ恨みを募らせた依頼人がゾルディックへ依頼を持ちかけたのだ。どうやら彼女が正式にゾルディックへ入ったとは知らない様子だった。
 シルバは断っていいと言った。ゼノも断るべきだと言った。キキョウは、元よりナマエを気に入っていなかったので無言のまま口を挟むことはしなかった。そんな会議にもならない家族間の話し合いを終えたイルミは、早急に結論を出さなくてはならなかった。依頼を受けるか受けないか、その返答を依頼人へ答える必要があったのだ。

「離縁しましょうか」

 予想外にも標的とされたナマエは、イルミが結論を出すより早く自ら答えを出した。
 ゾルディックで家族間の殺しは御法度。けれど、入って日の浅い自分ならば今離縁すればなんの遺恨もなく殺すことが出来るだろう。さすが暗殺一家に生まれただけあって覚悟の出来た女だと、この時ばかりはイルミも感心した。なんだ、助かるよ。そんな言葉を返したと思う。
 そうして二人は短い結婚生活に別れを告げた。
 執事に用意させた離婚届にそれぞれ記載した夜、ナマエを殺すのは、離縁を決めた一週間後。彼女の生家近くの廃墟でと決めた。
 ちょうど、妻を殺したという男の依頼が入った直後のことだった。

「逃げる気なかったんだ」
「そんなに生き汚くないですよ。それにゾルディックから逃げられるとは思っていませんもの」

 約束の日、午前零時きっかり。
 廃墟の本来リビングルームであっただろう場所にナマエはいた。古ぼけて所々が破れ壊れたソファにバランス良く腰掛けた彼女は、動揺することもなく入り口に立ったイルミを見上げている。

「この一週間、何をしてたの」
「実家に戻っていました。先日結婚した妹へお祝いの言葉をかけてませんでしたから」
「へえ、お前、妹なんていたんだ」
「いますし、貴方も会ったことがあるはずですが……ああ、そんな無駄な記憶覚えてるはずないですよね」
「なんか含みのある言い方するね。まあ、いいけど」

 どうやら最後のお喋りすら不用らしい。先程の男とは対照的な反応に、イルミは片眉をわずかに持ち上げた。感心するが、そんなところが気に入らない。
 イルミは多忙だ。元々、彼は父と並ぶ一族きっての稼ぎ頭であったが、三男キルアの出奔以来特に日々は多忙を極めている。ゆえにいつまでも"こんなこと"に時間を取られているわけにはいかない。
 幸いにも先程の言葉通り、彼女の覚悟は固まっているようで、イルミが鋭い針を突きつけてもなお、動揺の色を一切見せなかった。瞬きすらすることもなく、凪いだ海を思わせる静かな瞳で無表情の元夫を見つめていた。そこには恨みや哀惜の色すらもない。
 やはり、イルミは面白くなかった。そう、面白くなかったのだ。彼女が、離縁しましょうと分別のついた妻らしい言葉を発した時だって、頭の奥にひりついた痛みを感じるほどには苛立った。
 少しは、オレに執着の色でも見せたらどうなんだ。
 そんな子供じみた癇癪を抱くほど。

「妹は、彼と幸せそうでした」

 一週間前の夜、交わした会話を思い出すだけでこんなにも時間は過ぎてしまうものなのか。
 一向に突き刺さる気配のない針の切っ先を自身の喉へ突き刺したのは、思いの外ナマエの方だった。イルミがほんの少し、目を大きく開く。彼女は、それをおかしそうに眺めて口を開いた。
 語られるのは、どうでもいい話だった。つい数時間前、妻を殺した男の話を思い出した。あれは実にどうでもいい話だった。途中で飽きて殺してしまうくらいに身のない話だった。

「私も安心しました。彼、幸せそうでしたから」

 ならば、ナマエの場合はどうなのだろう。この話は、本当に全てどうでもいい内容なのか。自分は、この針をそのまま深々と突き立てることが出来るのか。くだらない、タイムリミットだと一蹴できるのか。
 瞬間、頭に痛みが走った。正確には頭蓋の奥、脳が異変を知らせているようだった。人体の構造を頭に叩き込んでいるイルミは場所を即座に特定すると、一歩ナマエから離れた。彼の手から離れた針は、ナマエの指先からも滑り落ちカランと音を立てて床に転がった。その切っ先はナマエの血で濡れている。
 その赤を見つめながらイルミは迷うことなく、鋭く変形させた指先を自身の脳へ突き立てた。皮下組織を割り、頭蓋の一部に穴を開け、脳のその場所へ指を突っ込む。血液と髄液が混じった液体が彼の白磁の額を、頬を、顎を滑り、服を汚した。そうしてイルミは見つけた。

「あ、本当にあった」

 奥深くに突き刺さったソレは、返しがついていて抜くのに苦労した。そもそも突き刺したのはイルミ自身なのだから、よほどの思いで埋め込んだらしい。らしい、と言うのは当時の記憶がないからだ。きっと、これを抜けば今から思い出すのだが。
 視線をやった元妻は、困ったように眉を下げてこちらを見ていた。なんだ、そんな顔できたんだ。すました顔より、そっちの方が可愛いよ。なんて考えて自分の変化に首を傾げ――針を抜いた瞬間、イルミは両手を開いていた。
 自身でも無意識の行動だったので驚いていた。傷をつけた脳は、急速に蘇る記憶の処理に追いついていないらしく、身体だけが先に動いていた。
 イルミの伸ばした両手は、どうしたことかしっかりとナマエの身体を抱いていた。彼女は、座り込んだままだったので、腰を屈めた状態で上からすっぽりと覆い隠すように抱き締めることとなった。先程まで彼女を殺そうとしていた右手で頭を抱え、左手で背中を抱いた。彼女の手は、ゆっくりとイルミの背へ回された。落ち着かせるようにゆっくりと上下するものだから、イルミは深く息を吐いて腕に力を込めることとなった。

「お前を殺そうとした依頼人、すぐにオレが殺してくるから」

 先程の依頼よりも簡単な話だ。イルミは、妻を愛していた。たった三ヶ月間の結婚生活、たった一ヶ月間の夫婦生活。短い月日では収まり切らぬ深い愛情を、たった一人の女へ注いでいた。
 あまりにも愛し過ぎていた。だから、こうなった。彼は、自分で針を埋め込んだ。

「針抜いたらお義母さんが怒るんじゃない」
「いいよ、そんなこと。それより、依頼人、殺しに行くから。ナマエもついておいで。終わったら早く家へ帰ろう」
「帰れないよ」
「なんで」
「だって離縁したじゃない」
「そんなの無効だろ」
「無効じゃないわ。正式に書面にも認めた。役所にも提出してある。もう私と貴方は他人なのよ、イルミ」

 貴方が私を忘れたように、今はもう赤の他人なの。
 その言葉にイルミはひどく腹立った。キルアが出奔したと聞いた時でさえ、こんなにも腑が煮え繰り返るような思いはしなかった。彼は優秀であったので感情の制御はお手の物だった。そのはずが、ナマエの前では上手くいかなくなる。
 そうだ、そうだった。次々と記憶を思い出す。
 だからイルミは、自ら針を刺したのだ。

「オレはお前と他人になるつもりはないよ」

 ナマエは、暗殺一家の長女として生まれた。子供は女二人しか恵まれず、ナマエは長女として婿養子をとり家を継ぐ予定だった。それが三ヶ月前の話である。
 結婚前夜、イルミが彼女を生家から連れ出した。理由は話さなかった。彼女の意思も必要としていなかった。ただ、ナマエを別の男が抱くと思うとひどく癪だったので、全力で邪魔してやろうと子供じみた行動を起こしてしまっただけの話だ。
 イルミは、自分自身でも驚いてしまうほど思いの外彼女を愛していた。ナマエと会ったのは、仕事関係で数回ほど。そう多く話をしたわけでもない。容姿に惹かれたわけでもなさそうだ。けれど何故か、彼女のことを愛しいと思ってしまった。キルアへ向ける愛情とも違う。なんなら弟へ向ける感情よりも膨れ上がっている気さえしていた。
 衝動的に連れ去った彼女は、二ヶ月間別邸へ閉じ込めた。その間、彼は実家への根回しに奔走することとなった。父や祖父は折れたが、母キキョウだけは最後まで難色を示した。
 女で腑抜けるような真似はするな。
 まさか、そう鼻で笑ってやるのは簡単で、けれど実際ナマエのそばを離れられなくなった時は多少ヒヤリと背筋を冷たくしたものだ。
 日々を重ねる内に段々と気がついてくる。彼女を前にすると感情の制御が上手くいかなくなった。そばを離れることが嫌でたまらなくて仕事にも支障をきたした。キルア不在の穴をカルトやミルキで埋めることは容易ではなく、長男としてイルミが請け負わなくてはならなかったのに、今ひとつ仕事に身が入らなかった。キキョウが難色を示すのも当然だった。母親として息子の変化に、本人よりも早く気がついていたのだ。
 だからイルミは、考えた末自身に針を埋めたのだ。愛しい女のことを一時でもいいから忘れて、仕事へ集中できるように念を込めた。けれど、一つ誤算だったのは針の存在すら忘れてしまったことだ。そして、埋め込まれた針に気が付かぬまま一月もの時間が流れ、今回の依頼が舞い込んでしまった。
 ナマエは全てを知っていた。だからこそ自ら離縁を申し出たのである。本当によく出来た妻だ。素直に感心する。

「籍ならまた入れればいいよ。もう一回プロポーズだってするし、新しく指輪だって買ってもいい」
「指輪なんていらないでしょう。貴方、手には何もつけないじゃない」
「お前がつけてほしいって言うならつけるよ。血で汚したりしないように気をつける」
「私がいたらまた仕事に身が入らなくなって、針を埋めることになるんじゃない」
「心配いらないよ。針を刺すのは悪手だって今回で身に染みたからね。もしもの場合は、また別の対処法を考えるさ」

 そうだ、ナマエのそばを離れたくないのなら、仕事先へ彼女を連れて行けばいいだけの話だ。暗殺一家の長女なのだから、足手纏いになることはない。こんな簡単なことに何故気が付けなかったのだろう。
 抱いたままの妻の身体を持ち上げて、イルミは早急に廃墟を後にした。依頼人は、ナマエの遺体を確認するためこの街に来ていたはずだ。さっさと向かって息の根を止めなくてはならない。
 自分から愛しい女を奪おうとする人間は、尽く排除しなければ。

 夜の街を駆け抜けるイルミに抱かれ、ナマエは深くため息を吐く。周囲の音に紛れてか、イルミの耳に届いていないのが幸いだった。
 イルミは、まだ忘れていることがある。
 彼は、ナマエを愛するあまり外へ出すことを極端に嫌がった。だから生家から連れ出された後も窓すらない別邸に二ヶ月間閉じ込めたのだ。いくらナマエが外へ出してほしいと要求しても首を縦に振ることはなかった。愛する女を外へ晒すことが我慢ならなかったからだ。実家へ住むのにだって、二ヶ月間悩んだ末、結婚との交換条件としてやっと飲んだくらいだ。
 きっとイルミは、ナマエの殺しを依頼した――元ナマエの婚約者の家族を殺した後でそのことを思い出すだろう。たった一週間、束の間の自由を味わい、周囲の視線へ晒された愛しい女へ気がついた時、彼は一体どうするのか。
 イルミは感情制御が得意だ。幼少より家の繁栄を第一に己の感情を封じて来たような男だ。そんな彼が、唯一制御を忘れるほどのめり込んだのはナマエという女、ただ一人だった。
 ナマエは思う。愛情深い彼のことだから、きっとイルミは苦しむだろう。顔には出さず、動揺の色さえ覗かせず、それでも頭の奥、傷ついた脳で苦しむはずだ。そして彼は、最後の結論を出すことになる。

「私、殺されるなら素手がいいわ」

 針はもう使えない。そう彼が自分で決めてしまった。なら、最後に残った答えは一つしかない。
 彼が優秀な暗殺者でいるためには、ナマエという存在はあまりに不要で邪魔な存在でしかない。それを母であるキキョウはよく分かっている。頭が下がる。さすがは母親だ。尊敬する。
 依頼人を殺すことだけに集中したイルミに、ナマエの最後の頼みなど聞こえているはずもなかった。
 夜の街を長い黒髪が靡く。視界の端にそれをおさめながらナマエはそっと目蓋を落とした。
 両親への挨拶はすませた。妹と元婚約者へも祝いの言葉を告げることが出来た。
 この世との別れは、すでに済んでいる。
 あと数時間後、全てを思い出したイルミに自分は殺されるだろう。最後に見るのはきっと、彼のこの美しい黒髪のはずだ。

20230706

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