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 二十年生まれ育ったナマエの家は、衣服店を営んでいる。店舗はパドキア国内の商店街に建っているが、看板などは一切ない。けれど、彼女の家は服を作る。しかし、彼女たちが真心込めて作った服を一般人が着ることはない。オーラで紡いだ念糸を一子相伝の技で織り上げて完成させる一流の衣服は、それに相応しい一流のみが袖を通すことを許される。それは彼らにとっての唯一のプライドだった。己の命すら削るようにして作り上げる一級品を渡す相手は自分たちで選ぶ。どれだけ金を積まれようと、脅されようと、服に相応しくないと思った相手には絶対に商品を渡さない。自らの腕に裏付けされたプライドと意地、彼らを一流たらしめる理由はその二つだけだった。
 父は、業界に名を轟かせた一流のハンターに、母は身一つで莫大な財を成した一流の演者に、自ら認めた相手のみに糸を紡いだ。そしてナマエは十八になった年、昨年旅立った祖父の役目を受け継いだ。彼女が糸を紡ぐ相手は、天下の暗殺一家、ゾルディック――その家人達である。

 暗殺者の纏う服が、その辺の出来合の物であるはずがない。特に世界に轟くゾルディック家、その家人の物であるならば武器は勿論、爪先まで一流でなくてはならないのだ。
 ナマエの仕事は文字通り命懸けだった。時には仕事に命を懸ける彼らにつり合う服を作る責務は、生半可な覚悟では請け負えない。糸はより強固に、彼らの常人離れした身体能力に追いつくような伸縮性、耐久性が求められたし、機動性は最も重要視するべき項目だ。また、家人はそれぞれ好みがあり、彼ら一人一人に合わせたデザイン性も求められる。ヒアリングには時間を要した。特に女主人であるキキョウは、古代貴族が纏ったようなレースをふんだんにあしらったドレスを好んだので、ヒアリングから作業まで一着作るのに少なくとも半年はかかった。
 今日は、半年前に請け負ったドレスの納品日だった。キキョウの求めた色合いでウエストは細く、腰回りはふんわりと膨らませた向日葵色のドレスを彼女は大層気に入ってくれた。

「流石はナマエさんねぇ! 今回のドレスも素晴らしい出来だわッ!!」

 モノアイがキュインと音を立て左右に揺れる。真っ赤な口紅の塗られた小ぶりな唇が縦に目一杯開かれて、有り余る賛辞を送られる。この瞬間がナマエは何より好きだった。特にキキョウは、心から褒めてくれるので、彼女への納品は自身の腕を再確認できる格好の機会であった。
 ただ、困ったことにキキョウに一度会うと夜遅くまで離してもらえない。まずはお茶を勧められ、彼女の趣味の話を聞き、時折夫や義父、子供達の愚痴へ耳を傾け、紅茶で腹がパンパンに膨れ上がり、愛想笑いで頬が凝り固まった頃、ようやく解放される。今日もお決まりのパターンだった。また、来てちょうだいね。キンキン声で見送りに出てくれたキキョウへ会釈を返し、暗闇に満ちた山道を降る。麓までは執事が車で送ってくれるので、帰宅できるのは明日になるだろう。あらかじめ予約しておいたホテルへのチェックインの時間には間に合いそうだ。

「じゃ、行くよー」

 そう思って安心していたのだ。たった十分ほど前までは。
 何故、私は黒塗り高級車の後部座席でなく助手席に乗っているのだろうか。何故、運転席には見慣れた執事でなく長い黒髪のご長男様がいるのだろうか。何故、私はイルミ様と二人で山を降っているのだろうか。
 膝の上で握り合わせた手には汗が滲んだ。出来ることなら、今すぐにドアを開け放ち暗い山道に転がり出てしまいたい。ゾルディックのように特殊な訓練を積んではいないが、その程度で命を落とすほど柔な鍛え方はしていないつもりだ。なんと言ってもナマエは一流。命を懸けて服を作る職人にとっても身体は資本である。

「……」
「……」
「……あの、イルミ様。恐れ入りますが道が違うかと……」
「ああ、間違ってないよ。麓街には行かないからね」

 なんだと。
 ギョッと目を剥くナマエを尻目にイルミの運転する高級車は分かれ道を左へ進んだ。麓街へは右へ進まなければならないので、彼の今しがたの言葉に嘘はないのだろう。
 ナマエはカタカタと奥歯を鳴らしながら、眼球だけをイルミへ向けた。顔を見るのが恐ろしい。その生気のない白い肌が恐ろしい。母親譲りだと言う女よりも大きな黒い瞳が何よりも恐ろしい。

「ひぃっー!」
「なに、幽霊でも見たような声出して」
「前! 前、見て運転してくださいお願いしますぅぅ!!」

 ナマエはゾルディックの家人達が好きだ。お得意様と言う枠組みに位置する彼らなので、この表現はおかしいかもしれないが、現実彼女はゾルディックの家人の人となりを気に入っていた。世間からは悍ましい印象を抱かれがちな暗殺者であるが、当主シルバは寡黙なれど時に優しくしてくれるし、先代ゼノは人当たりが良い好々爺然としている。女主人キキョウもナマエを気に入ってくれているし、彼女の子供達次男以下も性格に多少難はあれど皆個性的で好感が持てた。しかし、長男イルミだけは別だ。この男だけは、別なのだ。

「うるさいなぁ。声量落とさないと、今すぐそこの崖から突き落とすよ」

 母キキョウの容姿を色濃く受け継いだ長男イルミ。長く艶やかな黒髪と細身ながらもしっかりと筋肉のついた長身。白い肌、通った鼻筋と大きな黒い瞳。衣装映えする完璧な容姿は、服屋冥利につきるものだ。けれど、それは彼の見た目だけの話。問題は中身だ。性格だ。人間、容姿だけで良し悪しを判断してはならないと、ナマエは彼と関わることで身をもって思い知った。
 ちなみに崖から突き落とされるのは勘弁願いたい。流石に死んでしまう。もしくは二度と針を握れない身体にされてしまう。ナマエは怯えながら口を噤むしかなかった。

「別に、お前を殺そうとか人気のない所に置き去りにしようとかは考えてないから安心しなよ。後でちゃんと家まで送ってやるから」
「……い、家まで」

 家はパドキア国内ではあるがククルーマウンテンからは片道五時間はかかる。そんな長い時間、イルミと二人きりの車内で過ごさなくてはならないなんて。ナマエはやはりこのまま飛び出してしまおうかと流れる景色に思いを馳せる。しかし、そんな思惑を知ってか知らずか、イルミは当然ブレーキをかけた。運転が荒い。分かってたけど。鞭打ちになるかと思った。一瞬尻が浮いて座席に叩きつけられたナマエは、喉で浅い呼吸を繰り返した。対するイルミは平然としている。ハンドルに指を掛けたまま、首だけをこちらへ向けた。そうなれば嫌でも視線を合わせなければならなかった。なんと言っても彼はお得意様、ナマエは一流とは言え服屋だ。

「実は新しい服を頼みたいんだけどね」
「え、ご依頼ですか……それならいつものようにメールを頂ければオンラインでヒアリングを、」
「今まではそうして来たけど、オンラインってのがどうにも性に合わなくて止めたいんだよね、それ」
「はあ……では、今ここで内容を確認させていただいても」
「うん。そのつもり」

 やはり、この男の考えることはよく分からない。直接対面でのヒアリングがしたかったのなら、屋敷で呼び止めれば良かっただけの話ではないか。わざわざこんな何処かも分からない山道で車を停める必要もない。
 言ってやりたい文句は飲み込んで、足元に転げたハンドバッグから紙とペンを取り出す。ここからは仕事だ。私情は挟まない。家の名に恥じぬよう、祖父に顔向け出来るよう、真摯に向き合わなければならない。
 まずは名前を記入する。イルミ=ゾルディック様。身長185cm、体重は68kg。以前測った際のスリーサイズを記載し、ペンを止めた。

「お仕事用の服をご所望でしょうか」
「今回はちょっと特別にしたいんだ。色は、前に作った臙脂色。いつもみたく余計な幅は取らずに作って」
「はい。他にご要望は」
「長袖でお願い。針の収納はいつもの半分でいいよ」
「え、宜しいのですか……」
「うん。そんなに難しい殺しじゃないし、着るのは今回だけの予定だから」

 ナマエはピタリとペン先を止めた。背筋に冷たいものが流れたのだ。心臓がバクバクと大きな音を立てて暴れ回っている。
 おかしい。イルミは合理的な男だ。これまで作って来た服は、応用が効くように彼の獲物である針の収納は充分な数を揃えて来たし、たった一回の仕事のためにわざわざ服を新調するような人間ではない。何より彼は、仕事ではなく殺しと口にした。今まで毎回仕事とわざわざ口にして来たような男が、ただの殺しであると口にする理由。
 カタカタと震える指先を冷たい手に包まれる。ハッとして視線を上げた。イルミの黒々とした大きな瞳が至近距離に迫っていた。

「イ、イルミ様」
「うん。なに」
「その、今回の服の、殺しは、一体、」

 誰――そんなこと本来なら聞くべきではない。一流の職人として依頼人の事情に踏み入りすぎるのは、あまりに品がない恥ずべき行為だ。両親は勿論、家で待っていてくれる彼だって良い顔はしない。
 その時、天啓のようにナマエの頭にはある答えが浮かんでいた。ガツンと頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。目の前が白黒として呼吸が定まらなくなった。ペンを握った指先は、力がこもり過ぎて白くなり、血の気が引いてすっかり冷たかった。対照的にその手を包むイルミの手はどんどん熱を帯びている。それが恐ろしく悍ましく、ナマエは懇願するように首を左右に振った。聞いたのは自分なのに、その答えを聞きたくなかった。

「オレからナマエを奪った、お前の婚約者を殺す服。作ってくれるよね、ナマエ」

 ナマエは十八で一人前になった。両親はナマエ以外に子供を設けなかったので、彼女は生まれながらに家を継ぐよう定められていた。彼女は十八の誕生日を迎えた日、自由を奪われたのだ。それは生活の自由は勿論、感情の自由までも。異性に対する好意すら全て捨てるよう強要された。

「イルミ……」

 ナマエは彼と恋人関係にあった。立場上、許されるものではなかったけれど、その敷居すら飛び越えてイルミは燻るナマエの腕を引いた。こうして彼を呼び捨てにしていたのは二年前の話だ。

「お前、二年前からオレの顔見なくなってさ。服のオーダーはオンライン、家に来ても母さんとばっかり話して口を聞かなくなった」
「だからって、やめてよ……」
「オレのこと嫌いなんだろ。そう思い込もうとしてる。分かるよ、他ならぬ好きな女のことだもの。お前のことなら全部分かる」
「お願いだから、全部、せっかく終わらせたのに……っ」

 人間らしい恋愛感情など抱かぬような顔をして、イルミは好意に従順な男だった。自分が心の奥に秘めた感情を暴き、女にしたのも彼だ。十八までナマエにはイルミが全てだった。花が咲き誇るように人生の春を謳歌していた。おろかなまでに恋愛に溺れ、迫り来る現実から逃げていたのだ。十八になれば全て枯れ果てると分かっていたのに。本当に、あまりにも若くおろかな女だった。
 ナマエはぼろぼろと涙を流して、彼の視線から逃れるように俯いた。その顎に指を掛け、顔を無理矢理上げさせられる。目尻から流れる涙をイルミの唇が拭い取った。そのまま舌先が頬を伝い、抵抗する腕すら押さえ込まれ、唇を塞がれる。

「無理だよ、お前には。オレ以外のものになるなんて絶対に無理だ」

 シートは倒され、仰向けに転がったナマエの身体にイルミが乗り上げる。服の裾を割られ、早急に求められた。二年間、手すら触れ合わせてこなかった。彼の熱は、火傷しそうなほどに熱かった。呼吸が乱れる。助けを求めたくともここは人気のない山道で、誰の目もない。伸ばした手は絡め取られてシートに縫い付けられてしまう。
 大粒の涙が流れた。いつまで経っても止まらず、頬をシートを濡らし、互いの身体が少しの隙間もなく重なっても、ずっと目だけは合わせようとはしなかった。
 嫌いだと思い込もうとしている。その通りだ。十八の誕生日、全てを捨てるよう強要された日に忘れようと必死になってやっと今に至ったのだ。婚約者は、何も知らない。ナマエがゾルディックの専属であることに共に誇りを持ち、支えると言ってくれる優しい人だ。近日中に籍を入れようと話していた。ドレスは、両親の合作でそれはもう豪華で美しい物となる、そのはずだった。

 こぼれ落ちた腕はぐったりとして力をなくしている。身体のあちこちが無遠慮に触れられ、掴まれ、揺さぶられたせいで赤くなり、明日には大きな痣となることだろう。外は白くなって来ていた。イルミは、行為が終わってもなお離れようとはしなかった。ナマエの身体に乗り上げたまま、何が楽しいのか汗で濡れた髪や頬を指先で撫でては、薄く形の良い唇に小さな笑みを乗せていた。
 外した視線の先に、脱ぎ捨てられた彼の服が見えた。ナマエが以前作った物だ。好意を隠し、涙を耐えて、命を削って作り上げた一着も、こうして見ればただの布切れでしかない。思えばイルミは、昔から服に頓着がなかった。当時半人前だったナマエが作った下手くそな服ですら「使えればいいよ」と着て仕事に向かうような男だった。勿論、半人前のナマエの腕ではイルミの身体能力に追いつく服など作れるはずもなく、彼は珍しく怪我を負った。そして、ひどく自分を責めたナマエに、イルミはなんでもない顔をして告げたのだ。

「また、服作ってくれるだろ」

 今、この時とそれが重なるなんて思ってもみなかった。
 きっとこれが最後の涙となるに違いない。頬からこぼれ落ちた水滴を指先で拭ったイルミは、熱に浮かされたような眼差しでナマエを正面から見据えている。答えを間違うことは許されない。もし、仮にナマエが拒否をしたとして、彼には針という最大の武器がある。人間の感情すら思いのまま操れる禁断の術を持つ男からのお願いを、拒否することは出来ない。そう、思い込むことにした。十八の頃から思い込むことは得意だ。
 一つ頷きを返して、動かす度痛みを訴える腕を彼の首へと回す。そのままギュッとしがみ付き、彼女は覚悟を決めた。
 プライドと意地、自分を一流たらしめる二つを捨てる覚悟を、たった今決めた。

「イルミ、全部殺して」

 全てを捨てて、愛した男を選んだ女をイルミは強く抱き返す。そうされて、ナマエはようやく安心したように彼の首筋に擦り寄った。イルミの手が、首筋をなぞり上げる。存在を確かめるように丁寧な動きだ。けれど、ナマエは、彼の指先の所作一つに目を見張り身体を強ばらせた。
 自分の実力では手も足も出ない格上の存在に命を握られている感覚。冷たい、もう逃げられない。

「勿論。でも、もう裏切らないでね」

 でないと、オレ、本当にお前のこと殺しちゃうかも。
 そう呟くイルミの手には、朝焼けに光る一本の針があった。

20230525

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