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 叔母が若い男を連れてきた。夜のように黒く長い髪と深雪のように真っ白な肌をしていた。大きな黒い双眸を持つ、人形のような雰囲気を持った長身の青年だった。
 ナマエの家は特殊な仕事をしていて、時折見ず知らずの人間がやって来る。この広くも狭くもない一軒家では、叔母の客とすれ違うことが度々あった。だからこの青年も客なのだろうとナマエは思った。叔母はナマエが客と会うことを嫌がるので、いつものように部屋へ戻っていようと、口頭の挨拶はせず会釈だけをして階段を駆け上がった。
 その背を、青年の黒々とした瞳がジッと見つめていた。けれど、この時は気がつくことはなかった。彼の顔を真正面から見て、会話をして、その名を知るまでには、一ヶ月ほどの月日を要した。

「や、元気にしてたかい」

 男は度々、ナマエの家にやって来た。叔母と仕事の話をして、その後は帰宅したふりをしてナマエの部屋の窓からもう一度家へ入ってくる。それがお決まりのパターンだった。
 初めて男が部屋に入って来た時は、それはもう驚いたものだ。叔母に迷惑がかからぬようにと口を両手で塞ぎ悲鳴は押し殺したものの、耳鳴りのような甲高い声は漏れてしまった。男は、その声が廊下まで響かぬようナマエの口を片手で塞いでベッドへ押さえつけた。誘拐犯も真っ青な鮮やかな手捌きだった。この家に出入りしている時点で表の人間でないのは確かなのだが、それでも恐怖を覚えるには十分な手腕だった。長い髪のカーテンから覗き見えた黒い瞳は「逆らえば殺す」とあったし、口を塞ぐ手は男性らしく大きくて、鼻まで覆われ呼吸することもままならなかった。
 男は、自身の名をイルミと名乗ったけれど、ファミリーネームだけは教えてくれなかった。何故か聞いても「必要ない」とだけ返して、どんなにナマエが問い質しても決して口を開いてはくれなかった。そのくせこうしていつまでも居座るので、まだ幼いナマエから見てもこのイルミという青年は異質な存在として映ったものだ。
 イルミはナマエの部屋に侵入を果たすと、いつも出窓のヘリに腰掛けてポツリポツリと会話にもならない言葉を交わす。そのどれもがナマエに関するものだったので、小首を傾げざるを得なかった。やはり、この人はどこかおかしい。

「今日は何してたの」
「本読んでた」
「ふうん。面白くなさそ」

 そりゃあ、大半の大人は児童書は読まないだろう。特にイルミは、専門書以外には興味すらなさそうだ。彼の部屋など知る由もないが、きっと本棚があって、そこにはナマエでは興味の欠片も抱かぬような小難しい本が並べられているのだ。
 ナマエは、あえて自分から問いかけてみるこたにした。無駄とは分かっていても、今日はそんな気分だった。

「イルミはなんでわたしの部屋に来るの」
「お前が気がかかりだからだよ」
「おばさんとお仕事の話にきてるのに?」
「仕事の話はちゃんと終わらせて来てるよ。あの女は関係ない」
「イルミって言葉使いわるいよね」
「そう」

 ほら、今日も会話にならない。
 ナマエは腕に抱く人形の髪を撫でながら唇を尖らせる。

「その人形、まだ持ってたの」

 そして、イルミはこの人形を見ると嫌な顔をする。まるで汚物でも見るかのようにナマエの腕の中だけを正確に見下ろして、骨張った指で奪おうとするのだ。初めて部屋へ侵入して来た日もそうだった。この流れはルーティンと化している。その度、ナマエは身体ごとイルミから背けて人形を守った。まだ幼かった頃、夜ひとりで眠るのが怖かったナマエに叔母が与えてくれた唯一の愛情の証だからだ。出会ってたった一ヶ月、ファミリーネームすら分からない男にくれてやるつもりはない。

「あのね、ナマエ。その人形を持っていたらお前のためにならないんだよ。何度も言っただろ」
「やだ。この子はわたしの家族だもん」
「人形は家族じゃない。現にそれはお前とお喋りしてくれないし抱きしめてもくれないだろ」

 イルミの言葉は、いつだって痛いほど正論をついてくる。ナマエがどれだけ大切にしても人形は所詮人形で応えてなどくれない。フェルトと綿と糸、それだけで出来た、街に行けば大量に売られているだろうどこにでもある人形だ。それでも人形が大切だった。幼くとも、この子が自分の全てだと言い切ることさえ厭わないほどに。一方通行の愛情であっても、それでもいいと考えるナマエは、この年にしては達観した子供だった。だから、叔母はナマエを疎み、人形だけを与えたのだ。そのくらい分かっている。

「おしゃべりしたり抱きしめてほしいんじゃないんだもん」
「本当に聞き分けがないな。いいから、オレにそれを貸してごらん。いい子だから」

 イルミの手がナマエの人形の髪を掴んだ。無遠慮に引っ張られたせいで綺麗な顔立ちが歪む。それが痛いと悲鳴を上げているように見えた。
 だからナマエは咄嗟に目前の手に噛み付いた。引き離したくともイルミは大人で男で力も強い。ナマエの力じゃ絶対に敵わないと子供ながらに気がついていた。渾身の力で噛み付いたのにイルミの手はピクリともしなかった。まさか、子供に噛みつかれるなんて彼だって思わなかっただろうに、指先一つ揺らすこともない。
 まだ永久歯に生え変わってもいないナマエの歯はしっかりとイルミの白い肌を食い破っていた。プツンと皮膚の切れる感触が悍ましく口内に響いて、緊張から分泌された唾液で湿った舌先に鉄臭い血の味が滲む。
 イルミは人間だった。大切な人形よりも作り物めいた容姿をしていても、彼はれっきとした人間だ。皮膚が裂ければ血液が流れるし、その色は青や紫でなく赤色だ。当たり前のことなのに、それに心底驚いている自分がいた。確かにイルミはお喋りが出来るし、体温もある、抱き締めることだって出来るだろう。
 それは、彼が人間だからだ。

「驚いたな」

 平坦な声色にナマエの肩が震えた。恐る恐ると見上げたイルミは、ジッと青ざめるナマエの顔を見下ろして、色のない唇だけを淡々と動かす。

「お前に噛まれるのは久々だよ」

 やっぱりこの人はおかしい。噛んだことなんてない。だって、ナマエがイルミと初めて会ったのは一ヶ月ほど前のことだ。いくらナマエが子供だからと言って、一ヶ月前の記憶を違えるはずもない。イルミと会話をするようになったのはここ最近であったし、何より噛み付くなんてそんな真似、生まれてこの方した事がないと言い切れた。
 それなのにイルミは小さく首を振り「あるよ」と否定するのだ。なんの迷いもなく言い切って、彼はナマエに噛まれた反対の手で自身の肩を掴んだ。

「ここを、何回も」

 その声が鼓膜を揺らすのと同時だった。イルミの手はナマエが抱える人形の髪を力一杯引っ張った。子供の力では抵抗にも限度がある。意表を突かれたのだから尚更だった。力一杯髪を引かれた人形は、ブチブチと嫌な音を立てて首から裂けた。
 ナマエは今度こそ悲鳴を上げた。イルミの血で濡れた歯をさらけ出すようにして大声で泣き叫んだ。我が身を切られるようにつらかった。悲しげに歪んだ人形の目が無念だと告げているようだった。
 人形の胴体を抱いてその場に蹲る。泣き叫ぶ喉が痛い。熱発しているかのように身体が熱い。一階から叔母が駆け上がってくる足音が聞こえる。
 涙で滲む視界の端にはイルミの爪先が映っていた。ツンと尖った爪先が、叔母の怒声と共に開かれた扉の方へ向く。それを視界に収めたのを最後にナマエは重くなる目蓋に逆らうことなく目を閉じた。

「これ以上、オレに迷惑かけないでよね」

 そんなイルミの声を聞きながら意識は急激に沈んだ。沈んだ先の色は、彼の瞳のような光を通さぬ絶対の黒だった。



 事のあらましを説明するならば、至極簡単な話だ。叔母は叔母でもそう親しくもない父親の何番目か下の妹。分家の養子となって久しい叔母が、実家の名声や財力を狙って、本家の娘を誘拐、念能力を用いて懐柔しただけのことだ。それが約半年前の出来事。
 そう、全ては血縁だからと油断したナマエの不注意である。

「念能力で身体を子供に戻し、オーラを人形に閉じ込め記憶を改竄。まんまと引っかかったお前は約半年間、あの女の下で無力な子供を演じてたわけだけど、以上を踏まえてなんかオレに言うことあるよね」

 ことの顛末を知ったナマエの行動は早かった。そうすべきと脳が早々に指令を発していた。
 寝かされていたベッドから起き上がり正座をして指を立てる。時代劇で学んだジャポン式の謝罪、土下座を今こそ披露する時だ。

「ご迷惑をおかけてして大っっ変、申し訳ございませんでしたっ!」
「うん。他は」
「助けて下さり本当にありがとうございました!」
「他は」
「ええっと、お忙しい中ご足労を、」
「いや、そうじゃないだろ。オレが忙しいのも迷惑かけられたのも事実だし、そこはちゃんと後で依頼料請求するからちゃんと払えよ。で、他に言うことあるだろ」

 誘拐犯も真っ青な手腕なんて的外れもいいところである。だって相手はプロの暗殺者だ。天下のゾルディック家の稼ぎ頭、長男様なのである。
 そんな多忙なイルミは突然消息を絶ったナマエを探してくれていたのだ。自分の忠告も聞かず分家の叔母に呼び出され、まんまと罠に嵌められ、心身共に呑気な子供生活を送っていた恋人を見た時、彼はきっと思ったはずだ。
 このアホとの関係もそろそろ潮時かな、と。
 ナマエは深々と下げた頭を更に落とすしかなかった。幸いにもベッドの上なので、額はどんなにめり込ませてもシーツとマットレスに阻まれすり減ることはない。イルミが許してくれるまで顔を上げることは絶対にしないと心に誓った。いくら弟達から血と涙もない機械人間、闇人形、冷血漢と思われていようと、世間様からは伝説の暗殺一家だと知られていようと、彼だって人間だ。会話ができるし、抱き締めることもできる、傷が出来れば赤色の血は流れるし、人形ではないのだから感情だってある。だから、なんだかんだと言いつつも情はある男であるので、彼の中にある自分への情というものに賭けてみることにした。

「大変だったんだよ、お前頭まで子供に戻ってるからオレを見ると怯えるし叫ぶし会話なんて出来ないし」
「私、子供の頃は人見知りだったので……」
「お前の叔母だっけ、あの女は妙に色目使ってくるしさ。死後に念が強まっても厄介だから最後まで殺さずにおいたけど、ねえ、オレがどれだけストレス抱えてたか分かる?」
「叔母のその辺の事情は私も予想外」
「は?」
「いえ、なんでもありません!」

 情なんて甘い考えだった。ダメだ、こちらの話などまともに聞いてくれそうにない。
 イルミと所謂恋人という関係にもつれ込んだのは偏にナマエの努力あってこそだ。家族以外に興味を抱かない男のどこに惚れたのかなんて、そんなことはもう覚えていない――と言うのは嘘で、ただの一目惚れである。彼の母親譲りの容貌が好みのど真ん中で、実家がまあまあ名の知れた暗殺一家であったことも功を奏してお近づきになれたのだ。そこからナマエの血と汗の滲むアタック攻撃が始まった。あの手この手で恋愛のれの字を知っているのかも危ういイルミ=ゾルディックという男を落とさんと画策し、何度も弾かれ、傷を負い、骨を折った。実家のナマエの血液型に合致した輸血パックは底をついた。笑える話、イルミが根負けして「そんなに言うならいいよ。なろうか、恋人」と降参宣言をしたのは、ナマエが実家で輸血を受けている真っ只中のことだった。
 そんな理由があるものだからナマエはイルミから別れを告げられぬよう必死になった。苦労するだけ苦労してようやく恋人になれた男を今更逃してやるものか。自身の凡ミスすら忘れたご都合主義肉食系女子の意地とプライドである。イルミが完全にナマエの思考を把握していたならば「そんなプライド、ミケに食わせろ」と言うところである。事実、ナマエはミケに嫌われているので食われる危険性は大いにある。

「噛まれて痛かった」
「はい?」
「子供のお前に噛まれたここ。痕になってる」

 目の前に差し出された手にナマエは顔を上げた。マジマジとその白い手の甲を見れば、そこには子供の歯型をそのまま残した赤黒い傷痕が残っている。以前、ミケに噛まれて出来た傷痕とはまるで違う。間違いなく子供のナマエが噛んだ痕だ。記憶に残っている。
 ナマエの顔色は青色を通り越し白になった。今ならばきっとイルミより白いに違いない。完全に血の気が引いていたと言っていいだろう。それでも彼女は現実から目を背けることを許されず、差し出された手を取るしかなかった。
 イルミの手は、熱かった。鍛え上げられているだけあって代謝の良い男なので体温はナマエより少し高い。抱き締められれば、その温もりが心地よく、惚れ込んだ男というのもあって彼女はまさに夢見心地でいられた。そんな愛しさの募る彼の手に、唇を寄せた。許しを乞うように、忠誠を誓う騎士のように、傷痕をなぞるように唇を滑らせる。そうしていると、なんだか胸の奥が熱くなる。掻きむしってしまいたいような、このまま温もりに身を任せてしまいたいような、形容し難い感情には覚えがありすぎた。
 この半年間間、すっかり忘れていた感情。私は、この男を愛している。

「イルミ」
「ん?」
「なんで私のこと探してくれたの」

 唇の触れた手の甲がピクリと震えた。それでも彼は腕を引かない。ナマエに抱かれたまま、数秒ほどの間を置いて答えてくれる。

「ナマエがオレ以外の人間に殺されるのは腹が立つからね、それだけだよ」

 ほら、やはりこの男にも情はある。
 誰に知られるでもなくナマエは頬を緩めた。悟られぬよう手の甲に顔を押し付けてみたが、流石に嫌だったのか、それとも飽きたのか、有無を言わさぬ力で引っこ抜かれてしまった。寂しくもあったがまあ良いとする。イルミの性分はよくよく理解していたし、もしナマエがここで望んだならば渋々とでも抱きしめてくれると知っていたからだ。
 その情こそ、きっと愛とかいう感情であることを。

20230525

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