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 とある年の七月七日。正式にキルアがゾルディックの家督を継がないことが決定した。ちょうどキルアがパドキア共和国の法令上、成人を迎える夏だった。その日の気温、天候、屋敷の前に生えた樹々の葉の色まで、イルミはつぶさに思い出すことが出来る。
 イルミにとって十二歳年下の弟、キルアは生まれた時から特別な子供だった。キキョウの並々ならぬ執念の元、三人目にしてやっと授かった銀髪の赤ん坊を見た時の衝撃とその愛しさを、長い年月を経た今もなお彼は忘れることが出来ないでいる。
 キルアは生まれた瞬間からゾルディックの家督を継ぐことを約束された子供だった。即ち、それは長子であるイルミの役目が終わったことを意味したが、彼にとって、そんなことはどうでも良かった。後継ぎとしての役目がもう自分にないのなら、今度は先に生まれた十二年分、その間に蓄えた知識、技術、全てをこの弟に受け継がなければならない。それがゾルディックの長子として自分に残された唯一の役目だと考えた。僅か十二歳の子供が考えるにはあまりにも早熟で洗脳にも近い思考である。母親に似てしまったばかりにと思い悩むキキョウの熱心な教育の賜物だった。
 けれど、それらも無駄だったのだ。素直にそう思う。諦めにも似た境地だ。
 キルア十八歳の誕生日、イルミは三十歳になっていた。全盛期は既に過ぎ、あとはゆっくりとしたスピードで衰えていくだろう身体で、彼は人一人通らない屋敷前の道を自室の窓からジッと眺め続けた。太陽が沈み、夜が更け、日付が変わるその瞬間まで、一歩も動くことなく、もしかしたら見えるかもしれない銀髪の弟の姿を探し続けた。

 キルアが家督を継がないと決め、それをシルバが受け入れて五年もの歳月が経とうとしていた。
 キルアとは、弟が十三になった年に会ったきり、それこそアルカを連れ出した日以来、姿はおろか声すら聞いていない。未だ諦めきれないキキョウがたまに送り込む刺客が尽く敗れ、焦げて帰って来るので弟が息災であることは分かる。噂によれば、プロハンターとして個人の依頼人、協会からの要請の元、主に人助けやトレジャーハンターのような真似事をしているらしい。殺しは一切していないそうだ。あれだけ心血注いで教え込んだ技術を、弟は無駄にしたのだ。
 五年の間にゾルディック家では大きな改革が行われようとしていた。キルアが家督を継がないのであれば、別の子供をあてなければならない。では誰か。次に回って来るのは長子であるイルミである。
 暗殺者としての技量、頭脳、精神面、全てにおいて残された三人の兄弟の中でキルアの次に相応しいのはイルミだった。それはシルバは勿論、母キキョウや他の弟達も認めるところだった。けれど、ただ一人、当の本人であるイルミだけがそれを受け入れなかった。家督を継ぐのはオレではない。頑ななまでに、父からの進言を退ける彼は、この家で今もなお弟の銀色に囚われている一人であった。
 そんな改革の末、五年もの歳月をかけて、ある日とうとうイルミは折れた。イルミはもう三十五歳だ。外見年齢こそ二十代後半を留めているものの暗殺者としての全盛期は過ぎた。二十代前半だったあの頃ならばいざ知らず、今の衰えていく身体、技量で一体この家のなにを守れるのか。珍しく感情的になった息子にシルバは、たった一言、それだけを守れと家長として最後の命令を下した。

『血筋を守れ』

 その言葉は、誰よりもゾルディックを重んじるイルミを従わせるには十分すぎた。

 イルミが家督を継いで一月後、ククルーマウンテンの頂上に一人の女が輿入れして来た。故郷ジャポンに則って綿帽子と白無垢姿で現れた女を、彼は心底憐れんだ。だってこの女は、本来イルミのものになる運命ではなかった。

「本日よりお仕えさせていただきます。どうぞ末永く、宜しくお願い申し上げます」

 女の年齢は二十歳。イルミより十五も下だ。末の弟カルトよりも一歳年若い。それでも暗殺一家の娘としては遅い婚姻と言えた。家督を継げない女は、家同士の繋がりを保つための道具として他家へ嫁ぐ運命にある。なんとも古臭い話であるが、この業界において女は若ければ若い方が良いとされ、彼女のような立場の女は、成人と同時に嫁入り先へ入るのが常である。
 しかし、この女はそうではない。だって、仕方がなかったのだ。誰しもがそう納得する理由が彼女の背景にはあった。

「どうか哀れまないでください。私は、ゾルディック家当主の妻となるべく生まれて来たのですから」

 ナマエは、本来キルアと結婚するはずだった女だ。



 十五もの歳の差のある二人は、夫婦と言うより歳の離れた兄妹のように周囲の目に映った。恋愛結婚であったシルバ、キキョウとは違う政略結婚に加え、そこに至るまでの経緯が複雑な二人は、夫婦らしい感情の触れ合いすらないまま新婚生活を開始した。
 部屋は別々になった。イルミがそう望んだからだ。シルバの言う通り血筋を保つべく行為はする。けれど、毎日同じ部屋に居なくともいいだろう。事が終われば部屋へ戻ればいいだけの話だ。イルミの理屈詰にシルバは苦々しい表情をして頷いた。家督を譲った以上、当主となったイルミに反論することは控えた。
 二人の生活は淡々としていた。食事を取ることさえ別、お互い家にいても会話もしない、なんなら顔を合わさぬ日も多い。時折、義務のようにナマエの部屋を訪れては、夜が更けるまで機械的に抱いた。ただ、それだけの夫婦関係だ。

「声、あんまり出さないで」

 行為はいつだってナマエをうつ伏せにさせ、枕に顔を押し付けさせた上で行われた。しなる腰を両手で掴み、その顔を、声を、見ないよう、聞かぬよう目蓋を閉じて、ただ血筋を残すためだけに行う性交に感情は必要なかった。
 ナマエはいつだって従順なまでにイルミの言いなりだった。呼吸が苦しいだろうに、大して慣らしもせずに身体の奥を掻き乱されて痛むだろうに、泣き声一つ溢さず、枕を強く握りしめイルミが果てるのを待った。そして、一度行為を終えれば部屋を出て行ってしまう夫に、彼女は疲れた身体を起こして首を垂れるのだ。

「おやすみなさいませ」

 あまりに出来過ぎた妻だった。イルミが思わず憐れんでしまうくらいには、よく出来た女だった。
 そんな彼女が一人目を懐妊したのは、二人が夫婦となって三ヶ月後のことである。奇しくもそれが判明した日は、七月七日――出奔したキルアの誕生日であった。
 十月十日を経て生まれた二人の長子は男の子だった。白い肌はイルミに良く似ていて、目元はナマエを取ったようだ。そして、その髪色はやはり黒かった。
 ナマエはゾルディックの遠縁の娘にあたる。どうやら父方よりも母方のゾルディックの血を深く継いだようで、キルアよりも幾らか暗い銀色の髪を持つ彼女との子であれば、キルアの代わりとなるような銀髪の子供が生まれるのではないかと、イルミは心のどこかで期待していた。けれど、現実は甘くはない。遺伝子の優劣のことをすっかり忘れていたのだ。我が子を抱いた瞬間、彼は厳しい現実を思い知った。
 イルミは自他共に認める母親似である。その女性的でもある麗しい容姿を始め、認めたくはないが性格、その執念まで受け継いでしまったのだと彼はこの時悟った。
 今回がダメでも次ならば。幸いナマエはまだ若く、自分の身体も問題はない。銀髪の子供が生まれるまで何度でも。血筋を守るためならば。
 その彼の執念たるや凄まじかった。
 翌年、ナマエは二人目を出産した。黒髪の女の子だった。今度は目元までイルミにそっくりで、キキョウは若い頃の自分の生写しになると、息子の心情を知らずに年若い娘のようにはしゃいだ。義母の歓喜に、ナマエは一歳になった息子を腕に笑っている。やはりイルミの重たい心情を知ることもなく、呑気なまでに良き妻、良き義娘であろうとする。
 それは、イルミに耐え難い苦痛を与えた。

 その更に翌年の夏のことだ。ナマエの腹には三人目の子供がいた。イルミの諦め切れぬ唯一の希望は、回数を増やし着実に彼女の中に根付いていた。
 膨らむ腹を今年二歳を迎えた兄が撫で、その横でまだ何も分からぬ妹が母の異変に首を傾げていた。
 胎教に良いとされるヒーリングミュージックの流れる子供部屋で、ナマエは入り口に佇むイルミを見上げた。何かと多忙で子供たちともまともに遊んでやらない彼を、今日ここへ呼び出したのは他でもないナマエである。それでもしなければ、イルミは自主的にこの部屋に足を踏み入れようとはしない。
 イルミは一体なんの用だと子供たちを脇に抱えた妻を見下ろした。まだ二十三だというのに彼女は、既に二人もの子を持つ母であった。三人目をその腹に宿した彼女は、何かを決心したような強い眼光でもってイルミを見た。

「この腹の子はきっと銀髪です。ですから、」

 妻は、そこで一旦区切り、子供たちを抱き寄せる腕に力を込めた。今度は三人分の目がイルミを見る。まるで批難するかのように、黒い瞳が語りかけてくる。

「この子を産んだ後、どうか私と離縁してください」

 二人は、私が連れていきます。
 その言葉は、イルミにとって意外でしかなかった。自分も人形のようだと評されることが多々あるが彼女はそれ以上で、夫であるイルミに従順すぎるあの妻が吐いた台詞とは到底思えなかった。何よりもまず、離縁する理由がどこにも見当たらない。ナマエに不自由はさせていないはずだ。欲しい物は全て手に入る財と指先一つで命すら自由に出来る使用人、義母キキョウとの関係だって悪くはない。子供達の教育も女だからと退けず、彼女に一任していたくらいである。ただ一つ、夫イルミとの関係は相変わらず冷え切ってはいたが、それは彼女も折り込み済のはずだ。
 だから、彼女の宣言をイルミは受け入れられなかった。初めて怒りすら湧いた。キルアが出奔してから久しくそばになかった感情に目眩すら覚える。やはり自分も年老いた。四十歳を視野に入れ、元々凝り固まっていた彼の思考はさらに強固なものとなっていた。
 イルミは、執事を呼び寄せるとナマエと子供達を引き剥がした。不安そうに見上げる我が子達には目もくれず、執事が退室すると同時に、未だ床に座り込んだままの妻を見下ろす。その姿は威圧的で、かつてキルアを教育していた頃の彼を思い起こさせた。

「離縁する理由が見当たらない」
「銀髪の子の役目を果たせば私は用済みのはずです」
「何故次の子が銀髪だと言い切れる。お前の想像でしかないだろう」
「夢で見ましたから」

 その言葉にイルミはピクリと眉を動かした。
 夢で見た。なんとも子供地味た言葉だが、この女のそれは訳が違う。なんと言っても、女の夢は予知夢だ。そう言う特質系の念能力なのだ。

「……なるほどね」

 ナマエが夢に見たと言うなら次の子は本当に銀髪を持って生まれてくるだろう。イルミに必要なのは時代に残すべき血筋であり、妻や先に生まれた二人の子ではない。父親らしく我が子に愛情はあったが、三子をこちらが貰い受ける分、妻が連れて行きたいと言うのなら譲歩してやろうと彼は考えた。

「役目を終えたその後も、この家で過ごすことに……私はきっと耐えられません」

 ややあってイルミは頷いた。頷いてしまった。
 あからさまにホッとして胸を撫で下ろす妻の姿は、やはりイルミへ耐え難い苦痛を与えた。胸部、ちょうど心臓の更に奥、骨くらいしかない場所がキリキリと痛む。

「勝手にしなよ」

 その言葉を置き土産にイルミは子供部屋を出た。入れ替わりに子供たちを抱いた執事が入室する。
 室内とは打って変わって静寂に包まれた屋敷の廊下はヒンヤリと冷たい。重厚な扉の向こうで母子の温かな光景が広がっているとは誰も思わないだろう。
 年を経ても変わらず痛むことを知らない長い黒髪を靡かせ、彼は自室へ戻った。ナマエが夢に見た以上、あと数週間で念願の銀髪の子が生まれるのだ。これから整えるべき準備は多かった。

 結果として、妻の言う通り三人目の子供は銀髪を持って生まれた。目元はナマエによく似ていて、肌の色はイルミのように真っ白い。かつて見た生まれたばかりのキルアに似ている気もした。
 キキョウは奇跡が起きたと悲鳴のような歓喜の涙を流し、シルバやゼノもまた「よくやった」とイルミやナマエの肩を叩きながら、表情にどこか安堵の色を滲ませた。

 ああ、終わった。やっと当主としての務めを果たせた。

 銀髪の我が子を抱いた時、まるで憑き物が取れたかのように胸の奥の痛みが消え去った。それは魔法にでもかかったかのような感覚で、彼からしてみればあまりに非現実的で、受け入れ難いビジョンであった。
 人は、これを喪失感と呼ぶのだろう。
 気がつけばイルミは、末の弟の顔を覗き込んでくる我が子達の前で膝を折っていた。生まれたばかりの弟の顔がよく見えるように前屈みになって、頬を寄せてくる二人の我が子を受け止める。四人の弟たち全員にそうしてきたように、無機質な顔に温かさすら滲ませて。

「……兄さん、イルミ兄さん?」

 ベッドの上に寝そべったナマエが震える声でイルミを呼んだ。そうして呼ばれるのは、確か十数年振りか。キルアがまだ家にいた頃、弟との顔合わせのため時折山へ遊びに来ては屈託のない笑みを浮かべ自分を兄と呼び慕った、幼き日のナマエの姿が脳裏に蘇った。
 あまりに不安そうに呼ぶものだからイルミは小さく笑ってしまった。久しぶりに笑ったものだから頬が痛む。俯いていた顔を上げ、妻の顔を見た。心配そうに眉を下げ、出産直後なので顔色も悪い。ほっそりとした首筋には髪を纏わりつかせ、寝間着は汗を吸って肌に張り付いていた。
 イルミがこんな風に妻の顔を見たのは、あまりに情け無い話だが今日が初めてだった。ああ、あんなに幼かったナマエは、もうこんな大人の女になっていたのか。そんな的外れな感想まで抱く始末で、彼は調子の良い両親に、そして他の誰より自分自身に対して自嘲の笑みを禁じ得なかった。
 今年、イルミは三十八歳となる。子を持つには少し遅い年齢だ。銀髪の我が子はイルミが心血を注いで優秀な暗殺者に育て上げるだろう。そして、成長の後、次期当主として添えられる。それは決まった未来で、三男の時のような後悔をしないようより厳しい教育を施すことは自明である。
 イルミには、まだ役目が残されていた。彼が全ての役目を本当の意味で終えた時、自分の横にはナマエも、二人の子もいないのだろうか。

「ナマエ、子供も三人いるんだから兄さんはないだろ」

 それは、あまりにも寂しく思えた。
 この時、初めて面と向かってナマエと会話した気がした。互いに淡々と機械的に交わす言葉ではなく、ちゃんと家族として心を交わしたのは、きっと今日が初めてだ。
 ナマエの頬から一雫涙がこぼれた。また一雫、次々と溢れる涙がシーツに染みを作っていく。イルミは生まれたての我が子を抱いたまま、そんな幼げな顔を晒す妻の前へ膝を擦るようにして寄った。
 そうだ、この女は泣き虫だった。よくキルアに置いて行かれては転んで、擦り傷一つであまりに泣くものだから、いつしかイルミは自身には必要のない絆創膏を持ち歩くようになった。ほら、痛くないよ。そう言って何の飾り気もない絆創膏を貼ってやると、嬉しそうに微笑むナマエという少女を、彼はよく知っていた。
 抱く時、顔を見なかったのは泣き顔を見たくなかったからだ。声を聞こうとしなかったのは、彼女がキルアの名を呼ぶのではないかと恐れたからだ。
 初めて抱いた時も、優しくしてやればよかった。今日はやけに後悔ばかりをしている。幼いナマエの幻影がそうさせるのだろう。痛い痛いと仮面の裏で泣いていただろう二十歳の女を思えば、後悔と多少の懺悔くらいしたくなる。そのくらいの人間性はゾルディック家当主だって有しているものだ。イルミだって当主の前に人間なのだから、妻のことを愛したりもする。
 イルミは、片手で我が子を抱え直すと、空いた指先でナマエの目尻を拭ってやった。彼女の頬は相変わらず柔らかくて、イルミが触れた箇所はほんのりと赤みを帯びた。ナマエはもう、強がるのをやめてしまった。

「お前達に、そばにいてほしいよ」

 血筋を守れ。父の言葉通り、イルミは当主としての役目を果たした。ならば、後は好きにしよう。我が子達を育て、妻を抱き寄せ、この家を受け継いでいこう。広すぎる屋敷に自分と三子とでは、あまりに寂しすぎる。
 懇願するような響きで告げられた言葉に、彼女は涙を流して柔く微笑んでみせた。何も恐れることはなかったのだ。彼女は、ずっとイルミを夫して愛してくれていた。その愛情から逃げていたのは自分だった。
 よかった。小さく呟いた声に一番自分自身が動揺した。こんなにも感情に左右されるのは、今日が初めてだ。
 初めて触れた妻の額は汗を帯びてしっとりと濡れていた。子供たちに聞かれぬよう最小限の声量で、彼は短い謝罪の言葉を口にした。ごめん、どこにも行かないで。そして、最後にもう一言。

「これから先も家族五人で生きていこう」

 それは、三年越しのプロポーズの言葉に他ならなかった。

 翌日には、ナマエの部屋は取り壊されることが決定した。イルミがそう決めて、早速実行に移させた。シルバは呆れたように肩を竦めた。腹が立ったので割に合わない仕事を割り振っておいた。隠居したとは言え、まだまだ実力の衰えていない父ならば一週間ほどで終わらせるだろう。
 取り壊してみて気がついたことがある。彼女の私物はイルミが思っていたよりも遥かに少なかった。運び出しはものの十分足らずで終了し、もぬけの殻となった部屋を見た時は本当に出て行くつもりだったのだと背筋が冷えたものだ。そんなイルミの手を二歳の長男は無言で引いた。容姿こそ夫婦を半々で割ったような我が子だが、性格は思いの外イルミに似た。聡い子なので、両親の間で起きた一連の騒動を子供ながらに理解しているのかもしれなかった。なんとも情操教育に悪い話である。
 現在、それらの私物はイルミの部屋へと移動して、一人で使用していた馬鹿みたいに広いクローゼットの約三分の一のスペースに詰め込まれている。

「なにその顔。何が言いたいの」
「いえ、別に」

 子供部屋で眠る我が子たちの様子を確認し終えた彼女が寝室へ戻ってくるとイルミは無言のまま毛布を持ち上げて、彼女が潜り込める空間を開けてやった。こんなこと、つい先月までは絶対にしなかったはずなのに。クスクス笑い声を上げる彼女は、そう思っているに違いない。
 なんだか気恥ずかしい思いがして、彼は潜り込んだ妻の頭を毛布に隠し腕の中へと仕舞い込んだ。大慌てで背を叩いてくる細腕に、大した痛みでもないのに「痛いよ」と声を上げてみせる。そんな戯れをこの年になって初めて経験している。
 十五もの歳の差がある妻は、あまりに出来過ぎた妻で、子供たちの良き母であった。そして、これからもそれは変わらないだろう。
 確信を深め、イルミは、ようやく顔を出すことに成功した妻に頬を寄せる。
 これから先、待っているのはナマエとの間に授かった三人の我が子たちの教育と成長を見守る未来である。イルミ自身が望み、手に入れた未来だ。
 明日から長く続くだろう新たな役目を思うと、気が重くもあり、それを上回る充実感も同時に覚える。不思議なものだ。こんな気持ち、あの夏の日以来覚えることなどなかったと言うのに。本当におかしな話だ。
 もう窓の外を眺める日々は終わった。キルアの行方を探る日々にはさよならを告げた。
 掌に乗せられるだけの温もりを胸に、健やかな寝息を立てる妻へ唇を寄せ、イルミは目蓋を閉じる。
 これも七月七日、キルアがこの家を捨てて八年後の夏の日に起きた出来事である。

20230506

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