メイン | ナノ

 七歳で出会った。雪原の反射光を浴びて艶々と輝く綺麗な黒髪、長い睫毛に縁取られた同色の大きな目は女の子よりも大きくて、仕立ての良い服から覗く肌は背景の雪に同化しそうなほど白かった。
 作り物のように精巧な、女の子のように可愛らしい少年。第一印象はそれに尽きる。
 少年は思いの外表情が少なくて、それでも慣れてくれば案外素直な性分なのか、感情の変化は分かりやすかった。
 第二の印象は苦手。段々変な子だなぁと思うようになって、しばらく経つと何にも感じなくなった。
 ただ、その真っ黒な瞳に見つめられると背筋がゾワゾワと落ち着かなくなったのを、今でもよく覚えている。

「キルが出て行ったって?」

 帰って来て一言目がそれなのか。私がこんな目にあっているのに一言も心配はなしなのか。そもそもちゃんと玄関から帰って来てほしかった。今日は風が強いから、開け放たれた窓から吹き込む風で前髪が乱れ、前が見えなくなってしまう。
 言いたいことは山ほどあって、そのどれもをぶつけてやりたいと思うのにその気力はない。ふかふかの枕に頭を預けて、返事代わりに片手を上げるので精一杯だ。

「なにその手」
「手くらい握ってくれてよくない?」
「甘えてないでオレの質問に答えて」

 キルはどこへ行ったの。続いた言葉は想像通りで、手を握ってくれないのもまた同じ。
 母親譲りの大きな目に、珍しくも怒りの感情を宿してベッド側へ詰め寄った窓からの侵入者こと、この部屋の正当な主に苦々しい思いが湧くのは、これで何度目だろうか。遥か昔、それこそお互い一桁の年齢だった頃からの付き合いだ。あまりにマイペース、悪く言うならば傍若無人が服を着て歩いているような男の態度に、いつから諦めをつけるようになったのか。考えても答えは忘却の彼方。時間だけが過ぎて、それに比例するように彼の機嫌は急降下の一途を辿る。
 これ以上は危険だ。この家の三男が関わると、この男のただでさえ脆い理性は、瞬く間に波打ち際の砂の城と化す。命は大切に。口を酸っぱくさせて言い続けた教訓を自分自身が守らねば。

「イル、そんな眉間に皺寄せてたら老けるよ」
「……オレ、なんでお前みたいな馬鹿を嫁に貰ったんだろ」

 ひどい言い草だ。それでも腹は立つのに許せてしまう。だって長い付き合いだ。ナマエからしてみれば、イルミ=ゾルディックという男は、どんなに外見が成長しても子供の頃からなにも変わらない。



 女の幸せは、たった一人を愛してその愛情と同じ量の愛を返してもらってこそ成り立つの。全てを愛そうなんて、そんな欲張りなことをしてはいけない。一人、本当にこの人だと思ったなら全てを捨ててでも愛し抜きなさい。たとえその愛で我が身が滅びたとしても、魂だけになってでも、その人へ愛を注ぎ続けなさい。絶対に忘れてはいけない。それこそが女の唯一の幸せなのだから。

 これが今は亡き、ナマエの母の教えである。
 はたして私は、母の教えを守れているのか。そもそも愛を注ぐ相手を間違えてはいないのか。
 ナマエの、この自問自答に意味はない。全ての答えは、育ての母たる女が教えてくれた。
 なんで私はお家に帰れないの。あなたのお家はここなのよ。
 なんで毒の入った物を食べないといけないの。いつか立派な子供を産むため。淑女の嗜みよ。
 なんで痛い思いをしないといけないの。あなたが幸せになるためなのよ。
 全ては、あなたのためなのよ。鮮やかな赤色を塗った唇は、いつも同じ形に動いた。あなたのため。その愛情深い六文字が染み付いて離れなくなったのは、いつからだろうか。
 ナマエは、七歳で親元を離れた。八歳で初めて生き物を殺した。麓の樹海に住む野生動物だった。十歳で初めて外へ出た。先に外へ出たことのあったイルミがついてきた。十四歳で両親が死んだ。報せを聞いただけで遺骨にすら会えていない。十六歳で婚約者が出来た。キキョウが決めた相手だった。十八歳で、遠い国へ嫁ぐはずだった。

「きゃあああ! あ、あなたぁっ! ナマエの顔に傷がっ!!」

 ククルーマウンテンの山頂が一面の雪に包まれた冬。明日、七歳より育ててもらったこの家を旅立つ予定だった嫁入り前の女の顔に、深々とした傷が出来た。
 この日のために全ての準備を一人でこなしたキキョウがシャンデリアを割らんばかりの甲高い悲鳴を上げる。横に座っていたミルキやキルア、カルトが顔色を真っ青にさせて銀食器を落としたのが視界の端に見えた。上座に座ったシルバ、そしてゼノが色素の薄い目に剣呑な光を宿した瞬間を目撃した。そのどれもが他人事のように感じたのは、頬に走る熱さのせいだったのだろうか。
 片手は首に、もう片手は頬に、強く押し当てられた鋭い爪が皮膚を抉る。首元で黒髪が揺れた。艶のある黒髪は、この頃まだ短くて、青年らしい容姿をしたイルミは、今まさにナマエの命を摘み取らんとしていた。午後十九時、ナマエがこの家で過ごすのは最後だからと珍しく全員揃った記念すべき夕食の席でのことである。
 泣き崩れるキキョウに縋りつかれたシルバがイルミの名前を呼んだ。いつにも増して静かな声色だったから逆にそれが恐ろしかったのを覚えている。
 いつの間にか、ミルキ以下イルミの弟達は執事に連れられて退室していた。残されたのは、白いテーブルクロスを血液で真っ赤に染めたナマエ、そのナマエを拘束するイルミ、顔面蒼白で今にも倒れてしまいそうなキキョウ、無言のゼノ、イルミを見据えるシルバだけとなった。
 この行動になんの意味があるのか、とまずシルバが問う。

「ナマエを外へ出す意味ってなに」

 と、イルミ。

「ナマエの幸せのためよ!」

 と、涙ぐむキキョウ。
 その答えになっていない返答にイルミが苛立っているのは、彼の身体から溢れ出すオーラで分かった。
 瞬間、ことは起こる。まさに目にも止まらぬ速さだった。訓練の賜物とも言える。イルミは、懐から針を取り出すと何の躊躇もなくナマエの頚椎へ深々と突き刺した。
 瞬く間に眼球が濁り、ナマエの身体から生気が抜けるのが見て分かった。キキョウの顔色が困惑から怒りへ変わる。赤い唇を震わせて自身の長子の名を叫んだ。

「なんてことをするの!!」
「ナマエは嫁いだところで幸せになんてなれないよ」

 それに被せるようにしてイルミは続けた。昼下がり、親子でただ話をするように、この状況などなかったかのように、不気味なほどいつもの調子を崩さない。

「だってナマエの婚約者一家、全員オレが殺したもの」

 それから先は大騒動だ。あまりに悪びれなく語るものだからキキョウすら呆気に取られ、息子の言葉の意味を咀嚼するのに時間を要した。そして漸くその言葉の意味をそのまま受け取ったキキョウは、金切り声を上げ、整えられた爪を振りかぶった。
 そのヒステリーを皮切りに全員が動いた。我を忘れたキキョウをシルバが止め、ゼノがイルミの腕を叩き落とし、自由の効かないナマエの身体を部屋の隅へ寄せた。
 シルバに拘束されたイルミ曰く、依頼があったのだと言う。わざわざ金銭の発生しない無駄な殺しをするはずがない。婚約者一家の属する国に蔓延るマフィアが依頼主だった。執事邸へ連絡が入ったのは一週間前、即座にイルミが請け負った。
 婚約者がどのように殺されたのかナマエは知らない。イルミにより刺された針のオーラに蝕まれ、身体の自由は効かず、意識が朦朧としていたからだ。頬を預けた床の冷たさも感じなくなった頃、キキョウの声すら遠くなった。抗うことなく目蓋を閉じる。なんとなく、このまま婚約はなかったことになるのだろうと、暢気にそれだけを考えながら。

「だってナマエはこの家でオレ達と同じように育てられた唯一の女だよ。外部のやつらがウチとの繋がりや知識、技術欲しさに嫁にとりたがるのも当然だろう。馬鹿でも分かるさ。でも、はいそうですかって素直にやるのはどうかと思うんだよね。だってウチには何の見返りもないんだから。そもそも母さんは女としての幸せって言うけど、自分は親父と恋愛結婚しておいておかしな話だろ。たとえ死んだナマエの両親と何かしら取引があったとしても、実の親でもない人間が人ン家の娘の結婚にまで口出しする権利はないはずだ。だからね、オレは依頼が来た時、お前を助けてあげようと思ったんだよ。お前個人じゃなくゾルディックというネームドだけが欲しい名ばかりの婚約者から解放してやったんだ。で、どう? 自由になった感想は」

 最後に見た時は確かに耳辺りで綺麗に揃えられていた黒髪は、今や伸びて肩に垂れていた。白い肌には大小様々な赤黒い傷や痣があり、元々細身だったのにさらに細くなったように見受けられる。血液を吸収し、所々黒く染まった服をそのままに、三ヶ月ぶりに会ったイルミは、正体不明の熱に突き動かされるように話し続けた。

「あ、もしかして顔に傷つけたの怒ってる? ごめんごめん、でもそのくらいの傷ならウチの医者でも治せるだろう。でも、お前三ヶ月もあったのに治してないんだね。なに、そのまま残すつもりなのかい?」

 夕食の後、シルバと話を詰めた後、イルミはナマエに刺さった針を抜くと、なんの抵抗も見せず地下の独房へ入った。たとえ依頼があったにせよ、また、そこにどんな崇高な理由があったにせよ、ゾルディックは家族である以前に組織だ。独断行動をとった責任は取らなくてはならなかった。当主たるシルバがそう決めたので、誰も逆らうことはしなかった。独房にいたのは二ヶ月、幼い頃受けた拷問訓練をそっくりそのまま繰り返したそうだ。それから更に一ヶ月、馬車馬のように各国を飛び回り、人を殺し続け、ようやくイルミへの罰は終わった。
 そして今日、久々に家へ戻って来ることの許されたイルミは、玄関からでなく窓からナマエの部屋へ侵入を果たすと、こうして延々と口を動かし続けている。
 イルミは無口ではない。けれど、饒舌でもない。必要があれば話す。気分が乗らなかったり興味がなければ一切口を開かないことも屡々だ。そんな彼が、実母たるキキョウ顔負けのマシンガントークを繰り広げている。もはや口を挟む隙もなかった。いつの間にか、彼の中でナマエは、この顔の傷を気に入って残していて、久々に会ったイルミに感激していることになっているらしい。
 あまりにも思い込みが激しい。傍若無人が服を着て歩いているような男だ。呆気に取られて、言ってやりたくて溜めていた文句は全てどこかへ飛んで行ってしまった。何を言おう。とりあえず、何か言わないと。このままイルミ一人に喋らせるのはよくない気がしていた。

「イルミ、このまま髪伸ばしなよ」

 こんなことを言うつもりはなかったけれど本心ではあった。散々迷って、結局思ったことを口にするので精一杯だと気がついた。
 キョトンと首を傾げたイルミの唇が、ようやく一の形で止まった。そして人差し指と親指で自分の髪を取ると「これ?」と確認するようにこちらを伺い見る。その髪は、三ヶ月の間に随分と荒れてしまったようで、艶をなくしパサついた毛先を見つめながらナマエは頷いてやった。

「イルミ、長いの似合うよ」
「ナマエはオレに伸ばしてほしいの?」
「うん」
「いいけど、オレに何か得がある?」

 この家の家族は全員、家族間の愛情以前にギブアンドテイクの関係で成り立っている。互いに損得で動き、情報から物のやり取りまで、全てが金銭の授受を含む取引として行われた。七歳から住んでいる第二の我が家のルールだ。イルミに、こう返されるのは分かりきっていた事だった。
 呆れや怒り、様々な感情がソファに座り込んだナマエの身の内で渦巻いている。イルミにはきっと分からない。頭が良いのに人の機敏にはビックリするほど疎い人だから。
 この性格は、一生変わらないだろうし、この男に大切にされているキルアは苦労するだろうな。
 考えれば考えるほど、ナマエの感情は凪いでいった。
 現在、イルミは十八歳。これから先、自分の言葉通り髪を伸ばしたイルミを思い浮かべた。ただでさえ美しい実母によく似た男だ。それはもう生写しのような容姿、家族への執着すら色濃く受け継ぐに違いない。それは諦めにも似た気持ちだった。
 嗚呼、お母さん。あなたの教えの意味が少し分かった気がします、なんて記憶の中の母へ呼びかけてみる気持ちにもなる。

「私が一生手入れしてあげる」

 珍しいことに、イルミは小さく唇を開けて暫し動きを止めた。そして、ゆっくりと口元に手を添えると、表情を変えることもなく「驚いた」と呟く。

「ナマエってオレのこと好きだったんだ」

 ナマエは眉を下げ、化粧台からブラシを取ると無言のまま、イルミの髪に櫛を通した。荒れた黒髪は何度も引っ掛かって、その度優しく縺れた髪を解いてやった。イルミはされるがまま、ブラシの動きに合わせて頭を揺らす。その横顔は、十八の青年にしてはあどけなく見えた。なので、ナマエは全てを飲み込んでやることにした。
 この男の全てを受け入れられるのは、世界中を探しても私以外いない。そんな自負があった。
 翌日、ナマエはキキョウに頼んでゾルディックお抱えの医師に頬の傷を治してもらった。元より、女であるナマエの顔に傷が残ることを危惧していたキキョウは、飛び上がらんばかりに喜んでナマエの頬にキスをした。
 イルミは約束通り髪を伸ばし始めた。シルバは、日毎愛妻に似ていく長子に些か複雑そうな顔をして、らしくないその顔を見るのがナマエのひそかな楽しみとなった。イルミは眉を顰め、父から感じる物言いたげな視線に度々、暴言と共に反抗的な態度をとった。それは、何事にも聞き分けの良かったイルミの初めての反抗期と言えた。
 そうしてナマエの頬が元の白い肌へ戻り、イルミの黒髪が腰まで伸びて艶々と輝いた頃、二人は家族と執事だけが集った小さな結婚式を挙げた。その頃にもなるとイルミの長髪にも慣れたシルバは諦めにも似たため息を吐き、二年前と変わらず全ての準備を執り行ったキキョウは涙ながらにナマエを抱きしめた。その細腕に似合わぬ骨の軋むような力強い抱擁と共に、本当は娘を外には出したくなかったのだと本音を告げられた時、驚きを覚えたのと同時にナマエも少しだけ泣いた。私だって本当はここを出て行きたくなんてなかったのだ。
 ただし、イルミだけは実母の本音に怒りを隠せなかった。ならば、何故ナマエを嫁にやろうとしたのか。今にも詰め寄らんばかりの剣幕に身体を張って止める。せっかくのタキシード姿なのに親子喧嘩をしては台無しだと、宥めるのが、彼の妻となったナマエの最初の仕事だった。



「イル、まだ怒ってるの」
「怒ってない」
「怒ってるよ。オーラが禍々しい」
「うるさい。ウザい。寝ろ」
「子供っぽ……」

 あんまりだ。八つ当たりもいい加減にしてほしい。
 広々としたキングサイズのベッドにはナマエ一人だけ。ソファで長い脚を組んだイルミは、シャワーを浴びて濡れた髪をそのままに、先程から携帯を見つめ続けている。そんなに熱心になにを見ているのだか。この兄のことだからキルアにGPSでも付けてるかも、なんて考えて思考を止めた。本当につけている可能性があまりにも高すぎる。
 昼間帰って来て早々、ナマエでは話にならないと判断したイルミがシルバやキキョウとの話を終えて部屋へ戻って来たのは、つい先程のことだ。
 不機嫌極まれり。オーラで揺れる黒髪はあまりにおっかなく、いつだったかミルキの部屋でプレイしたホラーゲームの敵キャラクターを思い起こさせた。
 そして現在。シャワーを浴びて少しは落ち着いたかと思えば、これである。機嫌が直る気配はまったくない。

「拭いて」
「そうくるか」
「なにその顔。一生手入れするって言ったのはナマエだろ」

 そのくせ、こうして不器用にも甘えてくるのだから困りものだ。
 縫合したばかりで痛む胸を押してベッドから起き上がる。受け取ったタオルを頭にかけてやると、イルミはゆっくりと目蓋を閉じた。

「……子供だもの、すぐ帰って来るわよ」

 その目蓋の白さに、ほんの僅かな疲れを見た気がして気がつけばそう口走っていた。
 あ、失言だったかも。そう思ったのは、長い睫毛がピクリと揺れて、光の通らない黒々とした瞳がこちらを見上げた後だった。

「ごめん、根拠のないこと言った」
「まったくだね。なんの気休めにもならない」
「私もちょっと驚いてるんだよ。まさか心臓抉られかけるとは思わなかったからさ」

 ゾルディック家の三男にして、次期後継と決まっているキルアがシルバやイルミのいない間を狙い、家出を決行したのはつい昨日のことだ。
 その際、キルアはキキョウの顔面を、ミルキの腹部を、そしてナマエの胸部を刺した。殺気は殺す瞬間だけ。叩き込まれた教えを忠実に守った義理の弟は、的確に義姉の左胸を貫いてみせた。
 間際、見下ろした冷たい、光の通らない目はやはり兄弟と言うべきか、イルミによく似ていた。
 幸いにも三人揃って傷は大事に至らず、胸の傷は大騒ぎしたキキョウが呼んだ医師により塞がれた。とは言え、傷跡は未だ残っているし、損傷の激しい筋肉は動く度悲鳴を上げる。

「なに」

 一頻りタオルに水分を吸い込んで、あとのドライヤーは自分でやってくれと告げようとした時だった。左胸に慣れた感触。なにやらじっと人の胸部を見ているとは思っていたが、本当に何を考えているのだろうかこの男。人の胸を鷲掴みにして無言を貫くその旋毛に手刀を落とそうとすれば、ノールックで受け止められてしまう。

「母さんは顔、ミルキは腹、ナマエは胸か」
「だからなに」
「乳離れ出来てなかったのかな、キル」
「なんでそうなんのよ!」

 まじまじと見つめてるから少しは心配する気になったかと思った私が馬鹿だった。なにを的外れなことを、とこの事態を作り上げた張本人キルアに若干の同情をする。
 そもそも乳離れしていないのなら、狙うべきは実母であるキキョウだろう。義姉にあたるナマエの方の顔を狙えば良かったのだ。
 我が道を突き進むイルミは無遠慮に胸を掴む手に力を込めた。縫合した傷が痛み、思わず逃げ腰になってしまう。しかし、そんな逃げを許す男ではない。イルミは、視線を胸部から離さないまま、ナマエの腰を引き寄せると器用にも口でネグリジェ――キキョウの趣味で襟ぐりの開いた少女趣味の物の胸元を引き摺り下ろした。
 ありえない。なんてことをするんだこの男。恥ずかしさよりも怒りが勝った。理不尽かつマイペースな男だとは常々思っていたし、一生直ることはないだろうと諦めてもいたが、流石にこれはいただけない。
 もう片方、自由な手で顔を押し退けようと動く。しかし、その手も押さえられ、今度は足すら払い退けられた。背後がベッドでよかったとナマエは結婚当初、このベッドを部屋へ運び入れた顔も覚えていない執事達に感謝した。
 スプリングの効いたマットレスに仰向けに倒れ込んだ視界に長い黒髪が揺れる。決して色気のある光景ではない。互いにその気は一切ないのは明白で、ともすれば夫婦喧嘩という名の家族内指令が発動されてもおかしくはなかった。

「退けて。本気で怒るよ」
「……」
「聞いてる?」

 声で凄んだつもりでもイルミは、やはり意にも留めない。何度も触れて揉んで舐めて慣れ親しんだ脂肪の塊を脇へ寄せ、対に伸びた肋骨の上、薄い皮膚を凝視しているようだった。

「キルのやつ、本気でやったみたいだね」
「だから心臓抉られかけたって言ったじゃない。咄嗟に堅使ったから助かったけど、あの子私のことは割と本気で殺そうとしてたはず」
「ふうん」

 先程から無理な動きを繰り返したせいで傷口はジクジクと熱を持っていた。傷口が開いていないか気がかかりで確認したくとも、イルミが上にいるせいで起き上がることさえままならない。すると、男にしては細い指先が傷口をなぞり上げた。縫合跡を辿る指先は、思いの外優しく、思わず肩が震えてしまうほどだ。

「今度会ったら軽くお仕置きしとこ」
「……わあ、怒ってくれるんだ」
「そりゃ怒るよ。兄の外出中に義姉を殺そうとするなんて弟のすることじゃないね」

 そもそも家族間の殺しは御法度だと、ゾルディック家のルールを口にすればいいものを。わざわざ感情を含んだ理由を教えてくれる辺り、イルミも相当に参っているらしい。
 傷跡を確認してようやくキルアが家出した実感が湧いたのか、上から退けたイルミは、糸の切れた人形のようにナマエのすぐ横へ倒れ込んだ。うつ伏せになって顔だけこちらを見ている。長い髪は、ドライヤーをかけていないから湿り気を帯びたまま揃いの枕を濡らした。

「じゃあ、キルアに会ったらさ、詫びの品用意して謝りにおいでって言っておいてよ」

 どうせこのまま寝てしまうだろうから、せめてと顔にかかった髪を退けてやる。されるがままになるイルミは珍しい。

「うん。他は」
「特にない」
「じゃあ、オレへのリクエストは」

 はい? 髪を分ける指を止めてしまうくらいには衝撃だった。労わる気持ちなんてゼロに等しい男が言う台詞とは思えなかった。それでも、確かに今の言葉は目前のイルミから飛び出したものである。信じられないものを見る気持ちで瞬きを繰り返していると、少し眠たそうな黒色の瞳と目が合った。

「……」

 正直、リクエストなんてなかった。けれど、なにもないと言うのは惜しかった。だから、胸の傷の痛みに耐えて顔を寄せ、薄く開いた唇を自分の唇で塞いだ。ほんの少し、掠めるくらい。普段、気が向いた時にイルミがしてくれるものと比べれば随分と下手くそで幼稚なキスだった。
 至近距離で見つめ合ったイルミの目が丸くなる。白い指先で己の唇に触れる姿は、彼の母親譲りの美しい容姿がそう見せるのか、ドラマで見た有名女優よりも余程可憐に見えた。

「オレ、キルへのお仕置きのリクエストを聞いたつもりだったんだけど」
「なら初めからそう言って!」

 束の間の喜びを返してほしい。実際はものじゃないのだから返せるはずもないのだけど、気持ちとして腑に落ちない。
 真夜中だと言うのに叫べるのは、邸内全部屋が完全な防音性を有しているからだ。咄嗟に掴んだ枕でナマエはイルミの顔面を叩いた。今度は受け止められることなく、その白い顔に命中させることが出来た。それでも気は治らず、毛布を被って背中を向ける。すると、イルミは、始めからそうするつもりだったかのように、向こう側から手を伸ばして、毛布を掴むナマエの指先を握りしめるのだ。つい数時間前、人を殺して来たとは思えない柔い手つきで、怒りで白くなった指先を包み込む。

「手、握ってほしかったんだろ」

 そんなところがあるから、やはり唯一愛を注ぐ相手は、この男で間違いないのだと思ってしまうのだ。

20230226

back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -