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 L is dead.

 携帯の長方形の液晶画面におどる文字の羅列。その意味をナマエはちゃんと理解していた。
 いつか初めて手紙を貰った時と同じワイミーズハウスの院長室。アンティークに近い家具の並ぶ部屋の主であるロジャーは皺の寄った眉間を指で揉み込み、居た堪れないようにナマエから目を逸らし続けた。
 何度見ても文字は変わらない。黒い電子文字は動かない。薄く唇を開いたまま無音が続く。するとロジャーは「もういい」と苦しげに呻いてナマエの手から携帯を取り上げた。

「メロとニアには私から話しをするよ。ナマエも今日は休みなさい」

 ロジャーから視線を逸らした先、大きな窓の外では子供たちが遊んでいる。室内ではニアが玩具で遊んでいることだろう。笑い声はどこか遠く、ナマエは院長室を出てから暫く廊下から動けなくなった。視界の端に幼かった頃の自分と転がる林檎、その先に佇む猫背の少年を見た気がしたのだ。
 その日からナマエはラボへ入るのをやめた。



 エルが日本へ入る前、彼はナマエとの約束を守り、捜査の合間を縫ってハウスの子供達と会話する機会を設けてくれた。
 Lのマークだけが載るパソコンのモニター前にはハウスの子供達が集まる。皆、次々に質問を投げかけてエルは真摯に答えた。壁に寄りかかるメロと隅っこに寄って玩具で遊ぶニアだけがそれを望観していた。ナマエは、ニアのそばでボンヤリとその様子を眺めていた。

「ナマエが毎年十月になると出掛けていたのはLの元だったんですね」

 Lという絶対的存在を失ってハウスを取り巻く空気は変わった。まずメロがハウスを出た。院長室で彼の死を告げられてすぐ、仲の良かったマットにすら何も言うことなくハウスを飛び出したのだ。次いでニアがハウスを出ることになった。慎重的なニアらしく、移住先や捜査手段を整えた上での出立となった。
 ニアは見送りに出たナマエを仰ぎ見て、抑揚なくそう確認する。疑問系ではあるが答えを確信している物言いは、エルによく似ている気がした。Lの後継者を育てるワイミーズハウスでその地位に一番近かったのはニアだ。時点のメロは何かと感情的になりやすくニアのように淡々とした言動は苦手としている。ナマエはニアのこうしたエルに似た点を探すのが得意であった。努力家なメロには申し訳ないが、彼の後を継ぐのはきっとこの真っ白な少年だろうと予想していた。

「Lが日本へ入る前、話す機会を設けてくれたのはナマエでしょう。ありがとうございました。おかげで私はまたLを好きになれたし、真に尊敬に値する人だと思えました」
「そう、よかった……ねぇ、ニア。どうして私がLを知っていると気付いたのか聞いてもいい?」

 だってハウスの子供達はLの顔は勿論、年齢、生年月日を含む個人情報を何一つ知らされていない。

「ナマエは真面目ですから休みなんて全然取らなかった。それが五年前から毎年十月末になると休暇を取るようになった。その時点で誰か人に会っていると思うようになりました。あなた、ソワソワと浮わついた様子でしたし」
「ソワソワ……」
「それがLだと気付いたのはあの通話の日です。あなたはロジャーや他の職員とは違い、一歩引いた位置からモニターを見ていた。あれは向こう側、Lに自分がいることを分かってもらうためでしょう。人が密集したモニター前より壁に寄っていた方が見つけやすいでしょうから。あとはそうですね」

 見事なまでのプラチナブロンドを指にクルクルと巻き付けてニアは得意げになっていた。ニアは玩具を愛するとても大人しい少年だったけれど、こうして持ち前の推理力を披露する時だけは楽しげな表情をみせる。そんなところもエルに似ているとナマエは思う。

「あなたの表情です。リンダ達が好んで見ていた恋愛ドラマに出てくるヒロインそっくりの表情をしていましたよ、ナマエ」

 死んだ人間は戻ってこない。

 あれから冬は五度訪れた。次々と移り変わる季節は時の無情さを感じさせるのと同時に、少なくともナマエの中で燻る気持ち悪さを薄めてくれたし、また癒やしてもくれた。
 ニアと同世代の子供達はそれぞれの道を選択しハウスを巣立って行った。リンダは絵の才能を開花させ、今は若手画家として引っ張りだこだ。
 五年の間キラ事件は収束を見せず、一度ハウスにも日本の刑事がやって来た。二人はメロとニアについてロジャーへ質問を投げかけ、最後にはリンダかは似顔絵を入手したらしい。らしい、と言うのはナマエは日本警察二人と接見することがなかったからだ。彼らの来訪を知ったロジャーはすぐにナマエを家へ帰した。先代――と言いたくはないが前Lと親しくしていたナマエの存在を彼らに知らせるわけにはいかなかった。ロジャーは日本警察にキラがいるというニアの推理を信じていた。
 それからナマエは数ヶ月、ハウスへ出勤することなくロジャーが用意してくれたセーフハウスで一人過ごした。子供達の世話をすることも、研究に没頭することもない日々は、ナマエを悔恨の旅へと誘った。

「私を殺してくれますか」

 二◯◯四年六月初旬、エルからの依頼を受けてからナマエは以前にも増して研究に没頭するようになった。日中はハウスで子供達の世話をして、夜は食事や睡眠を疎かにしてまでもエルからの依頼を果たすべくラボへ篭り続けた。
 完成したのは一つの薬品だ。難病に苦しむ患者の治療薬にもなり、同時に神経毒とも呼べるそれはエルに指定された日本の住所へと送られた。きっと名前も住所も出鱈目だろう。足の付かない場所へ届けられ、ワタリが受け取る手筈になっているに違いない。
 ナマエが完成させた薬品は本来母が研究していた物だった。志半ばでこの世を去った彼女に代わり完成させた娘を褒めてくれる存在は何処にもおらず、ナマエは達成感に満たされることもなく、どっと押し寄せる疲労感に倒れた。それが十月初旬の出来事である。
 思えば、あの薬品は完成していなかったのかもしれない。エルが死んだと聞かされて、ナマエは震える手で実験し直した。すると最悪なことに次々と問題点が明らかになった。エルが何を求めてあの薬品を求めていたかナマエは知らない。けれど、明らかになった問題点の内複数が彼の計画を邪魔するであろうことは理解できた。あの時感じた絶望は言葉に言い表せない。
 本当に、私がエルを殺してしまったのだと、世界から宝を奪ってしまったのだと思った。

 年を越して二月に入ってもなおイギリス、ウィンチェスター郊外のワイミーズハウスは冬の装いを崩さない。
 子供達はコートやマフラーが手放せず、外で遊ぶのを嫌がり部屋へ篭りがちになっていた。そうなると洗濯物を干すのも手伝ってはくれない。皆、一様に視線を逸らし、ナマエが忙しなく動くランドリーに近づくことはなかった。
 ちょうどこの日は同僚のエマが休暇を取っていて、ナマエは一人で大量の洗濯物を干さなければならなかった。水分を吸ったシーツ類はずっしりと重く、ポールに掛けるのも苦労する。冬の寒さに負けた手は真っ赤になって可哀想なくらいかさついていた。
 ナマエがハウスへ戻ることを許されたのは一ヶ月前である。涙ぐんだロジャーから一本の電話を貰い、彼女はウィンチェスターへ戻ってきた。
 心はどこかへ置き去りにしたまま、ただ時が過ぎていく。シーツの白はキラと戦うニア、そしてエルの白いシャツを思い出させて目に痛い。
 そうして俯くナマエの耳に足音が届いた。地面を擦るような独特な足音である。ちょうどシーツの向こう側らしく姿は見えない。

「……」

 ナマエは手を止めた。干されたシーツの下に青色のジーンズのほつれた裾と履き古したスニーカーを認めたからだ。
 シーツが捲られる。向こう側が見える。イギリスの寒空の下では可哀想にも思える白いシャツとダボついた青色のジーンズ。相変わらずひどい猫背で大きな目の下には隈があり、肌の色は青白く健康的とは言えない。ボサボサの黒髪は記憶にあるより少し伸びたような気がした。

「アップルパイを貰いに来ました」

 死んだ人間は戻ってこない。
 その筈なのに彼は確かにそこに立っていた。ナマエの目の前で息をしていた。なんだか勝ち誇っているようにも見える表情をして、不遜に見下ろしてくるのは――エルその人であった。

「……ぁ」

 全身の血液が沸騰するような感覚に襲われてナマエは咄嗟に動いた。エルの言葉を理解するより早く、彼女は籠の中からシーツを取り出すと彼へ向けて投げつけた。全力で顔面へフルスイングの要領で容赦なく。

「ぶっ」
「んっっっっ、なに……なっっにがアップルパイよ、こんんんんの馬鹿っ!!」

 投げつけたシーツは見事エルの顔面に直撃した。子供の頃、初対面での印象通りお化けのようになったエルは長い腕をぶらぶらと揺らしてシーツを取ろうと格闘している。そこにナマエは追加攻撃を加えることにした。言葉での罵倒である。エルは変人奇人の代表のような青年であるが、面と向かって馬鹿と言われたことはないだろう。
 最後にもう一度馬鹿と叫んでナマエはその場から逃げ出した。名前を口にしなかったのはせめてもの配慮である。
 洗濯物を放り出したナマエは一目散に院内へと逃げ込んだ。途中部屋でぬくぬくとしていた子供達が終わったの、だとか、遊ぼう、だとか話しかけてきたが上手く返事ができたかは分からない。目的地へ辿り着く直前、すれ違ったロジャーに呼び止められた気はしたが、こちらに至っては無視することとなった。
 ガチャン、と大きな音を立てて扉を開けて中に飛び込む。褪せたクッションウォールの敷き詰められた正方形の部屋。無意識の内にこの部屋を逃げ場に選んでいた。そして、それが失敗だったと直ぐに気がついた。

「はい、いらっしゃい」

 鍵が掛けられる音が響く。恐る恐る振り返ると、エルが壁に凭れて立っていた。開け放った扉に隠れるようにして待ち伏せていたのである。

「この部屋だけ施錠式にしてもらっていてよかったです。幼少期の我儘が役に立ちました」

 逃げようにもこの部屋に窓はなく、唯一の出入り口である扉はエルの向こう側にある。ナマエはなす術なくその場にへたり込む。エルは向かい合うようにナマエの前へしゃがみ込んだ。

「あなたの言いたいことは分かっているつもりです。先程シーツを投げつけられましたが足りないなら後でまた殴って下さっても結構。それらを踏まえた上で私の話しを聞いていただけますか」

 エルの黒々とした瞳は動揺の色を隠せずにいるナマエの双眸を見据えたまま揺らぐことはなかった。エルの手は大きくて骨張っている。指が細長くて綺麗。その手が、膝の上で握り締められたままでいるナマエの手に触れた。そこには体温があった。生きている人間にしかない温もりが、血流を遮断するほど強く握り込まれていたナマエの手を温めてくれる。エルの指は一本、一本、ナマエの指を解いてやがて全てを包み込んだ。
 顔を上げる。エルは逃げることを許さない鋭さすら感じさせる真剣な眼差しでこちらを見ている。

「ナマエ、私と結婚してください」

 驚く隙さえ与えず、エルは畳み掛けるように続けた。

「既に届は用意しています。私の立場上、戸籍は偽造することになりますし、便宜上の名を名乗って貰わねばならない機会も多いでしょうがそこは我慢してください。死んでいる間にニアが私の財産の半分以上をばら撒いたようですが、幸い隠し金庫の幾つかは無事だったので人生三度は遊んで暮らせる蓄えもあります」
「……」
「あなたが一番心配して怒っているだろうキラ事件は解決しました。ニアとメロがやってくれました。犯人キラは既に然るべき罰を受けています。もう二度と殺人を犯すことはありません」
「……」
「あなたから貰った薬に私は助けられました。守秘義務の関係で詳しい経緯をお話することは出来ませんが、私は一度死ぬ必要があったんです。あなたが開発した薬品は一時的に私の心臓を止めることに成功した。搬送された先で投与されるであろう薬を見越しての調合の腕は流石ミョウジ博士の娘さんという他ありませんね」
「…………」
「ただ一つ問題があるとすれば薬の効きが良すぎました。おかげで元の生活を送れるようになるまでに五年も経ってしまいました。Lの座はいつの間にか奪われているし、ニアは自分で行動しないし、メロは冷静さが足りないしで、見守っていてハラハラしましたよ。あの子達二人を育てたナマエは凄いです。尊敬します」
「…………Lはこれからどうなるの」

 ペラペラと語り続ける唇がピタリと動きを止める。核心をついた質問に空気が一瞬張り詰めたのが分かった。
 エルは繋いでいないもう片方の手を口元へ添えて、彼にしては長考しているようだった。ナマエは無言のまま返事を待つ。これから先の話をするならば、まずはそこから片付けないことにはどうしようもない。ナマエでも分かるのだからエルなんて始めから話す内容を考えてきたに違いない。だから長考しているのもパフォーマンスだ。にこっと微笑むところまで全て予め用意された演技プランに組み込まれているのである。

「初代Lは死にました。これは覆しようのない事実です。彼はキラに敗北しステージから落とされました。二代目Lはそつなく仕事をこなしてくれたようですが偽物でした。現在は三代目Lが二人で切磋琢磨しつつ頑張ってくれています」
「よかった、ニアもメロも無事なのね……」
「ええ。二人とも五体満足元気も有り余っています。若いっていいですね」

 一拍置いてエルが両手を叩く。と言うわけで、彼はずいっとナマエの顔を下から覗き込んで更に続ける。

「私、今無職なんですよ。生憎私はこの頭脳くらいしか取り柄がないので一般企業への再就職は難しくて困ってます」
「……ちょっと」
「と、言うのは恥ずかしがり屋な私の建前ですからこれ以上怒らないでくださいね」
「……本気で言ってるなら顔面にグーパンチお見舞いしてたわ」
「やめてください。今の私は病み上がりなのでこれ以上攻撃くらったら本当にあの世逝きです」

 言われて始めて、ようやくエルの身体をしっかり見た気がした。元々細い人だったけれど、彼の言う通り病み上がりらしく輪をかけて細くなってしまっている。首筋なんて特に分かりやすい。浮き出た喉仏が彼の健康状態を示唆しているかのようだ。
 ナマエは途端に恐怖を覚えた。ハウスから離れ、一人暮らしたセーフハウスで毎日襲われた絶望感にもにている。ナマエは腕を伸ばし、エルの両頬を包み込む。
 ああ、やっぱりそうだ。痩せてしまっている。

「泣かないでください。大丈夫、私はこうして生きていますから」
「……私、殺してしまったかと、」
「殺してくれてよかったんです。それが私の依頼でしたから。あなたは立派に務めを果たしてくれた。ありがとうございます、ナマエ。だから泣く必要はありません。あなたのおかげで私は今ここに居ることが出来ているのですよ」

 エルは代わりにナマエの頬を包んだ。ダムが決壊したようにぼろぼろと流れ落ちる涙は、彼の掌では受け止め切れず服に染みを作る。しゃっくりを上げて泣くナマエは、いつのまにかエルの胸の中にいた。背中を抱く腕は細いのに力強く、呼吸を落ち着かせるように規則正しく摩り上げてくれる。

「Lってね、機関なんです」

 見上げた先でエルは大きな目を細めて柔い笑みを浮かべていた。親指が目尻を撫でて、垂れた髪を後ろへ撫で付ける。慈しむように温度を分け与える彼は、もう三十歳になろうとしていた。

「エル個人ではないんですよ。私自身として生きるのは久しぶりで気分が浮ついているのだと思います。面白くもない冗談に走るのは松田だけで十分です」

 松田って誰なの、なんて疑問を投げるのは野暮というものだろう。
 エルはくすくすと小さく笑い声を上げて、泣き腫れたナマエの顔へ唇を寄せた。その顔は本当に楽しそうなものだから、すっかりこちらも毒気を抜かれてしまう。世界の切り札、名探偵Lがまさかこんな子供のように笑うなんて。この衝撃の事実を知っているのはナマエだけでいい。

「これからはエルの人生を送ると決めて私はここへ戻ってきたんです。ナマエと家族になって、あなたの作るお菓子を食べて幸せに暮らしました、ハッピーエンド……それがいい。それが一番ほしい。ここは五年分とこれから先の分全部合わせた特大の誕生日プレゼントってことで一つ手を打ってもらえませんか」

 もはや返す言葉もなかった。すっかり脱力したナマエは涙も枯れ果てて、降ってくるキスを寸止めできる位には回復もしていた。

「他にも言うことあるでしょう。大事なやつ」

 引退したと言っても世紀の名探偵様だ。女が求める言葉くらい察してくれぬようでは困る。
 押さえ込んだ掌に唇を押し付けたままの間抜けな姿でエルは薄い眉を顰めた。そうして、やがて決心したのだろう。彼はナマエの手を握ると強く自分の方へ引き寄せ、唇が触れ合う寸前に、

「愛しています、ナマエ。あなたがいるならもう他には何もいらない」

 ナマエにとっては予想外の熱い告白をかましてくれるものだから、文句の一つや二つと用意していた文言は飲み込む他なかった。
 小さく鐘の音が響いている。ああ、そうだ。今日の教会は結婚式が開かれているのだった。



 長きに渡って全世界を混乱の渦に貶めていた前代未の大量殺人――通称キラ事件は収束を迎えた。
 日本警察は三月初旬に記者会見を開き、記者の質問責めには一切答えないまま犯人確保と事件の収束のみを発表した。公にしてもいい事実を取捨選択したのは現Lであるニアと、初代Lであるエルであった。
 すっかり用済みとなったキラ特別対策室と銘打ったビルを見上げ、松田はため息混じりにボヤく。やんなっちゃうなぁ。

 時は一月二十八日。YB倉庫での最終局面、真のLの後継者であるニアが夜神月に自身の推理と証拠を突きつけたあの日。日本警察ならびにニア率いるSPKにとって予想外の出来事が起きた。
 初代L、竜崎が倉庫の物陰から姿を現したのである。
 どうやらニアだけは、この事を事前に把握していたらしい。口々に竜崎、Lと彼の名を叫び動揺をみせる面々の中で、かの少年のみが冷静だった。
 中でも夜神月の狼狽っぷりは凄まじかった。五年前、死神さえも手玉に取り始末したはずの宿敵が五体満足で目の前に立っているのだ。彼の優秀すぎる脳を駆使してもその理由は皆目検討もつかない様子であった。
 こうしてキラ事件は予想外の形で終わりを迎えた。YB倉庫から引き上げる際、松田はニアと共に去ろうとする竜崎を呼び止めた。
 信じていた夜神月に裏切られていたこと、彼に向けて発砲したこと、この短時間に起きるにはあまりに濃い出来事のせいで松田は震えていた。感情を言葉にすることができず、ただ竜崎を見つめる松田。そしてその背後に立つ日本警察の面々を竜崎は、いつもの無表情で見つめ返した。

「いいですね、それ」
「はい?」
「その反応。松田さんらしいです」

 竜崎は多くは語らなかった。どうやってデスノートから逃れたのか、またこの五年間どこでなにをしていたのか、山ほどある疑問の内唯一答えてくれたのは彼の今後についてであった。

「さて、大方片付いたことですし私はイギリスへ戻ります」

 最後の稼働日となったビルの一室で竜崎は、餡蜜を口に運びながらキーボードを操作している。
 ALL DELETE.
 かつてワタリが死の間際に行ったように彼もまた自身が此処にいた痕跡を全て消し去った。

「いい加減顔を見せないと本当に愛想を尽かされかねませんからね」

 あ、竜崎って恋人いたんだ。
 またもやニアを除く面々にまたしても衝撃が走った。

「Lの座はこのままニア、そして今頃どこかでウロウロしてるであろうメロへ譲ります。これから先は二人で手を取り合って頑張ってください。後継問題は勿論、その他捜査についても私は今後一切口を挟みません」
「……Lの後継者は私に譲るとメロは言っていましたが」
「そうですか。でも、あの様子ではメロは諦めていないでしょう。決めるのが面倒ならジャンケンでもしたらどうですか」
「…………」

 どうやら本当に先を急ぎたいらしく、竜崎は餡蜜を平らげると返答が途端に雑になった。あの猫背からは想像もつかないくらい俊敏にパソコン本体の電源を落とし、室内の照明が落とされる。
 竜崎はくるりと椅子ごと振り返り、立ち尽くす捜査員一人一人の顔を見た。そして口元だけ笑ってみせる。以前、初めて顔を見せた時、正義は必ず勝つのだと告げたあの時を彷彿とさせる幼げな笑みだった。

「それでは皆さん、短い間でしたがご協力ありがとうございました。どうぞお元気で」

 かくして世紀の名探偵初代Lは引退した。彼はその足でイギリスへ飛び、向こうで待つ――と言う彼の談だ――恋人と再会を果たしたのだろう。
 松田は当時のことを思い出しては(なんだかなぁ)とモヤモヤした気持ちになる。最大の証拠として挙げられたデスノート、SPKよるノートの細工にもどうも腑に落ちない点があったので余計にだ。
 あいつあの成りで恋人がいたのかよ、だとか、結局世の中地位や名誉、金なのか、なんていう嫉妬紛いの文句は飲み込む。口に出すと余計惨めな気持ちになると松田は知っていた。どうせあの猫背の青年とは今後一切関わることはないのである。彼の言葉通り「どうぞお元気で」と心の中で呟いて、見えてきた庁舎へと駆け込んだ。
 けれど、世の中とは奇異なもので二度と会うこともないと思っていた相手と再会することだってまま起こりうるのである。死神や名前を書かれると殺される死のノートなんて品物があるのだから、もうこれしきのことでは驚かない。そうすっかり成長した気分でいた松田は、モニター越しに聞こえる声に目を丸くした。

「竜崎、早速離婚されたんですか?」
「されてません。と言うか絶対にしません。あなたは外で仕事している方が生き生きしていると理解のある妻に送り出されたんです」

 竜崎必死の弁明に、現Lであるニアの注釈が入る。どうやら新婚の妻から叩き出されたのは本当らしい。
 途端に沈黙したモニターに松田を含む日本警察の面々は顔を見合わせて思わず笑みを溢した。
 どうやらこの偽名、竜崎という青年との縁はまだまだ続くようだった。ついでにこの名探偵を叩き出したという彼の最愛の女性にもいつか会ってみたいものである。ご主人にはお世話になってます。その時は、そう笑顔で言ってやるつもりだ。

「絶対、会わせませんから」

20231031

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